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北村紗衣のオープンレター仲間 : 河野真太郎の『正義はどこへ行くのか』?

書評:河野真太郎正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)

著者の河野真太郎「フェミニズム」関連のライトな評論書で知られる英文学者である。だが、「Wikipedia」を見るかぎりでは、積極的に「フェミニスト」を名乗っているわけではなさそうだ。

しかしながら、ベル・フックスも言っているとおり、男性であることと「フェミニスト」であることは、なんら矛盾するものではない。

不合理な差別状態におかれた女性のために、可能なかぎり力を尽くしたいという人なら、性別や人種や社会階級等を問わず「フェミニスト」である。だから、かく言う私自身も「フェミニスト」なのだし、ましてや河野真太郎のような、積極的にフェミニズム関連書を刊行している学者が、「フェミニスト」を名乗らないのは、むしろ不自然だろう。
もしかすると、どこかで「フェミニスト」を名乗っているのかもしれないが、いずれにしろ、ごく常識的に言って、河野は「フェミニスト」と呼ばれる然るべき立ち位置の人なのだ。

先日、レビューを書いた『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』の巻頭鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムとリベラリズム」に、河野は、菊地夏野田中東子という2人の女性「フェミニスト」と共に参加して「フェミニズム」を論じており、決して「フェミニズムの門外漢」として、そのような場所に顔を出しているわけではなかった。なにしろ、「フェミニズムの現在」特集号の巻頭鼎談なのだから、言うなれば「イマドキのフェミニスト」を代表する人物の一人として、河野もここに参加した(させられた)と見て間違いないだろう。編集部がそのように判断して、河野に声をかけたということだ。

では河野は、『現代思想』編集部から、どのような点を評価されて、「フェミニスト」だと判断されたのかといえば、それは前述のとおり、河野には「フェミニズム」関連の、比較的売れている著作があったためであろう。
「Wikipedia」から、河野の基本的な紹介部分と、著作に関する部分を引用する。

河野 真太郎(こうの しんたろう、1974年〈昭和49年〉 - )は、日本の英文学者。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門は20世紀イギリスの文化と社会。

単著
『〈田舎と都会〉の系譜学——二〇世紀イギリスと「文化」の地図』ミネルヴァ書房、2013年
『戦う姫、働く少女』(POSSE叢書 Vol.3)堀之内出版、2017年
『増補 戦う姫、働く少女』ちくま文庫、2023年
『新しい声を聞くぼくたち』講談社、2022年
『この自由な世界と私たちの帰る場所』青土社、2023年
『はたらく物語──マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』笠間書院、2023年
『正義はどこへ行くのか──映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』集英社新書、2023年
『ぼっちのままで居場所を見つける──孤独許容社会へ』ちくまプリマー新書、2024年 』

見てのとおり、大まかに分ければ、河野真太郎には、本来の専門分野の学術書と一般向けに書かれた著作の、2種類がある。それは、タイトルと版元(出版社)を見れば、おおよそ見当はつくはずだ。

そして、河野が、最初にメジャーな出版社から刊行し、一般から注目されるきっかけとなった著作とは、2023年刊行の『増補 戦う姫、働く少女』(ちくま文庫)だというのも、見えやすいところだ。
この本は、「堀之内出版」というメジャーとは言いがたい出版社から刊行されたものを、6年後に筑摩書房が増補版の文庫本として刊行したものだが、その後から、明らかに河野の著作刊行ペースが上がっているのが見て取れる。

で、この『増補 戦う姫、働く少女』の内容だが、それは、次の「目次」を見て貰えば一目瞭然であろう。

【目次】
はじめに
第一章 『アナと雪の女王』におけるポストフェミニズムと労働
革命的フェミニスト・テクストとしての『アナと雪の女王』
二人のポストフェミニストの肖像
トップ・ガールズとブリジットたちの和解?
シェリル・サンドバーグは存在しない──グローバル資本主義とその本源的蓄積
労働なき世界と「愛」の共同体
〔補論〕日本のポストフェミニズムと『アナと雪の女王2』

第二章 無縁な者たちの共同体──『おおかみこどもの雨と雪』と貧困の隠蔽
承認と再分配のジレンマ
『おおかみこどもの雨と雪』と貧困の再生産
ポスト・ビルドゥングスロマンと成長物語の変遷
『ハリー・ポッター』『わたしを離さないで』と多文化主義
無縁な者たちの共同体
コーダ──現代版『ライ麦畑でつかまえて』としての『僕だけがいない街』
〔補論〕インターセクショナリティと究極の包摂社会

第三章『千と千尋の神隠し』は第三波フェミニズムの夢を見たか?──アイデンティティの労働からケア労働へ
フェイスブックという労働
『魔女の宅急便』のポストフェミニズム
『千と千尋の神隠し』は第三波フェミニスト・テクストか?
『逃げるは恥だが役に立つ』?──依存労働の有償化、特区、家事の外注化
〔補論〕亡霊としての第三波フェミニズムとケア

第四章 母のいないシャカイのユートピア──『新世紀エヴァンゲリオン』から『インターステラー』
スーパー家政婦、あらわる
『インターステラー』の母はなぜすでに死んでいるのか?
『インターステラー』の元ネタは『コンタクト』なのか?
『コンタクト』と新自由主義のシャカイ
セカイ系としての『インターステラー』
『エヴァ』とナウシカのポストフェミニズム
コーダ1 AIの文学史の可能性──『ひるね姫』『エクス・マキナ』
コーダ2 矛盾の回帰?──『ゴーン・ガール』『WOMBS』
〔補論〕シャカイから遠く離れて

第五章 『かぐや姫の物語』、第二の自然、「生きねば」の新自由主義
「生きろ/生きねば」の新自由主義
『風の谷のナウシカ』における技術と自然の脱構築
技術と自然の脱構築と労働の隠蔽
『風の谷のナウシカ』、『寄港地のない船』、(ポスト)冷戦の物語
罪なき罰と箱庭
〔補論〕ナウシカの時代と人新世

終章 ポスト新自由主義へ
没落系ポストフェミニストたち
主婦が勝ち組?──ハウスワイフ2・0から『逃げ恥』へ
セレブ主婦の蜃気楼
貧困女子の奮起
エイミーたちの願いとジンジャーたちの連帯

おわりに
文庫版へのあとがき
参考文献 

要は、アニメやSF系の映画を中心にした「オタク・カルチャー」を「フェミニズム」の観点を絡めて論じた本なのである。
つまり、当時としては目新しい「オタク関連本」として注目された本であり、こうした話題性のあることを論じられる著者ならと、執筆の依頼も増えたのであろう。

私も、年季の入った「アニメファン」だから、この『増補版』が刊行された際には、いちおうは本屋で手に取ってはみた。
しかし、最初に扱われているのが『アナと雪の女王』であり、それを「フェミニズム」の観点から論じているのだと知って、あまりにも「ベタだな」と感じて、購入はしなかった。近年ディズニーが、フェミニズムや多様性の問題に深くコミットしているというのは、アニメファンには有名な話だったからである。

だが、今回、このレビューで取り上げた本書『正義はどこへ行くのか 正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(以下『正義はどこへ行くのか』と表記)については、購入時には、著者が何者かという認識もなく、当然『増補 戦う姫、働く少女』の著者だとも知らなかった。
この差は何なのかといえば、私の場合は、『アナ雪』をはじめとしたディズニー作品や、日本のアニメではあっても一般に「女の子向け」とされる作品にはあまり興味がなく、その一方、一般に「男の子向け」とされる「ヒーローもの」は、昔から大好きだったし、一家言あったためだ。

もっとも、本書『正義はどこへ行くのか』の帯前面には、

『「多様性」の時代のヒーローとは』

という惹句があり、「同性愛者、高齢者、女の子」をテーマにしたのであろう、アニメキャラクター風のゆるいイラストが添えられていある。

その「女の子」のイラストは、明らかに「魔法少女もの」か「プリキュアシリーズ」を意識したものではあったのけれど、そのあたりまでなら、「女の子アニメ」にはあまり興味のない私でも、それなりにはついていけるだろうと、そう判断したのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本書を読んでみたのだが、結論としては、「ぬるい図式主義」のひと言に尽きた。

たしかに「図式」としては、よく整理されているし、「フェミニズム」が流行している今の時代にマッチした、商品価値のある評論書だとも言えるだろう。
だが、アニメであれ、映画であれ、文学であれ、一流の批評家のそれを読んできた者にとしては、この程度の「図式的だからわかりやすい評論」など、いかにも食い足りないものでしかなかった。「なるほど、そういう見方もできるよね」とは思うものの、作品に「深く切り込んでいく」ような迫力が、本書には皆無であり、いかにも「学力エリート的」に器用な「分類整理」の賜物でしかなかったのである。

実際、このように感じた人も少なくはなかったようで、Amazonの本書紹介ページに寄せられた(現時点の)カスタマーレビュー4本のうちの3本が、本書に対して厳しい評価を下している。

すなわち、5点(星5つ)満点評価で「5点が1人、3点が1人、2点が2人」という、明らかな低評価なのだ。
しかも、この5点満点を与えているレビュアー「某(バカ)」氏の場合は、どういう意図からかは不明だが、レビューを投稿した「Amazonの商品」のすべてに、「5点」満点を与えている。本当にすべて「素晴らしい」と思ったのか、「素晴らしい」と思ったものについてしかレビューを投稿しなかったのか、あるいは、商品へのゴマすり評の方が、勧進元であるAmazonへのウケが良く、レビューを削除される怖れもないとでも考えたのか、そのあたりはよくわからないが、少なくとも「ダメなものはダメ」だと明言する人ではなさそうだ。

ともあれ、本書に対する「ぬるい図式主義」という私の評価は、特別に辛辣だというわけではない。
それは、前記「某(バカ)」氏以外の、低評価レビューのタイトルを示せば、本書が「ぬるい」という評価で一致しているということが、容易にご理解いただけよう。

『薄味すぎる…』「Kindleのお客様」星3つ)
『浅すぎる、タイトル負けの内容』「BIG VILLAGE」星2つ)
『読むべきところがないわけではない、が』「Amazon カスタマー」星2つ)

つまり、「Amazon カスタマー」氏のおっしゃるとおり、本書に「読むべきところがないわけではない」のだけれども、それが「MeToo運動」に始まる新たな「フェミニズム」ブームに乗っただけの「図式主義」的な説明にすぎず、それはそれで「なるほどね」とは思うものの、「評論」としては、いかにも「お手軽なものであり、薄味」なのだ。本書には「著者が我が身をもって作品と切り結んでいる、というような力」が無い。
自身を、どこかの高みに置いて、下界を見下ろすようにして、その「見取り図」を描いている、というような書き方であり、そこには「自分も、その状況に巻き込まれている」という「批評主体としての難問」といった緊張感など、かけらも感じられないのだ。

今回、本書『正義はどこへ行くのか』を読むことにしたのも、前述の『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』の巻頭鼎談に関するレビューを書いた際に、河野真太郎のプロフィールを初めて確認し、そこにすでに積読の山に埋もれさせていた本書のタイトルを見つけて、あの本の著者だったのかと、そう気づいたからである。

私は、その鼎談についてのレビューで、河野真太郎について、次のように評している。

『河野真太郎と田中東子については、北村紗衣が主導した「呉座勇一を名指しで告発したオープンレター(女性差別的な文化を脱するために)」の発起人と賛同署名者であること記しておこう。』

『(※ ベル・フックスの)こうした指摘を知っていれば、『フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる』自称フェミニストたち(※ あるいは、文化批評に偏し、新自由主義的な性格の強い、第四波フェミニズムのフェミニストたち)を、「いちがいに批判することもできない。なぜなら、それは一種のバックラッシュだからだ」などと(※ 河野真太郎のように)は、言えないのではないか?

それでも河野真太郎がそう言うのは、やはり、自分だって出来ればそうなりたい(※ 売れっ子の作家になってキラキラしたい)よ、「人間だもの」ということなのだろうか?』

『河野真太郎は、『TwitterなどのSNS』ではまともな議論ができないから、主戦場として『雑誌』などの出版物や出版社のウェブサイトなど『いろいろな媒体』に求めており、これはけっこう悪くない、とし、それを田中東子は、ここ数年はフェミニズム関連書籍の出版ブームだし、フェミニズムについて書かせてくれる『新聞社』なども増えて良かったと、肯定的に受ける。
一方、これに対して菊地夏野は、しかし、そうしたメディアが取り上げてくれるフェミニズムとは、もっぱら「キラキラ」系のそれであって、マイノリティのそれは、なかなか取り上げてもらいない。だから、フェミニズムが、メディアな取り上げられるようになり、世間的に注目されるようになって、良かった良かったなどと、手放しには喜べないと、そう注文をつける。
そして、この注文をうけて田中東子は、その両者、つまり「キラキラ・フェミニズム」と「マイノリティ・フェミニズム」を架橋する努力をしなければならないと、そう当たり前の「理想論」で無難にまとめて、この鼎談は幕を閉じる。』

『(※ 河野の言う)「SNSでは議論ができない」というのは、Twitter=SNSだとする(※ イメージ的に短絡させる)ような、事実にそぐわない理由でしかなく、結局は、ただ単に「議論を避けるための言い訳」だということにしかならない。
読者に対して「私自身には議論する気はあるんだけど、その場所がないからできないでいる」というニュアンスを込めた、言い訳のための、故意の「ミスリード」でしかないのである。

たしかに、(※ 個人のブログなどの)SNSにそうした長文の書いたところで、一銭の儲けにもならないだろう。
けれどもそのかわり、誰に気兼ねすることもなく、自分の考えを存分に展開できるではないか。なのになぜ、それをやらずに、出版社や新聞社やネットメディアからの「注文」を待つことしかしないのか?

それは結局のところ、銭儲けにもならず、名前を売ることにもならない意見表明に労力を使う気などもともと無い、ということなのではないのか?

議論が必要だとか、フェミニズムの多様性を示す必要があるとか、公式の場では理想論を口にしたところで、それをやるためには、出版社などにお膳立てしてもらい、「先生」扱いで、しかるべき原稿料をもらえるものでないと「バカバカしくてやる気にもなれない」と、本当は、そういうことではないのか?

しかし、ベル・フックスが言ったように、そうした、金儲けしたり有名になったりすることを、まず求めてしまうような者ばかりだからこそ、(※ 日本の)フェミニズムは長らく、内部批判もできなければ、その多様な意見の存在を示すこともできなかったのではないのか。

自分にはその気があるが、誰もお膳立てしてくれないからやれないのだ、などというような輩が、実際に、そういう「先生」扱いを受けられるようになれば、その資本主義社会における上位クラスに、どっかりと安住することにしかならないのではないのか? 一一たとえば、北村紗衣がそうであるように。』

また、同じ『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を扱ったレビューの第2回である「第四波フェミニズムの嫡子・北村紗衣:『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を読む(第2回)」の中で、私は、次のようにも書いている。

『前回「第1回」で紹介した同号冒頭の記事、鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムとリベラリズム」の参加者である3人のフェミニスト、菊地夏野、河野真太郎、田中東子のうち、河野真太郎、田中東子の2人は、同号刊行後の2021年(令和3年)4月にインターネット上で公開された、件の「オープンレター」に参加している。
河野真太郎は「発起人」の一人として、田中東子は「賛同署名者」の一人としてだ。

しかし、そんな二人でさえ、本稿の「第1回」で示したとおり、「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「第四波フェミニズム」の傾向に、もろ手を挙げて賛同しているわけではなく、「問題はあるが、現状の事実として認めて、検討していかなければならない」的な「玉虫色の立場表明」をしているのである。』

問題は、この「玉虫色の立場表明」という部分である。

北村紗衣に代表される「ライトな文化批評に偏し、新自由主義的な性格の強い、第四波フェミニズム」というものについては、上の、『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』に寄せられた32本の記事を見ても、積極的に肯定している人は、一人もいない。
同誌の刊行された2022年の時点ですでに、フェミニストの大半は、facebook社の重役にもなったシェリル・サンドバーグに象徴される「第四波フェミニズム」的な「リーン・イン・フェミニズム(成り上がりフェミニズム)」を、「新自由主義(ネオリベラリズム)」に回収されて堕落した、「フェミニズムマインド」を失った「ポストフェミニズム」であると見て、決して好意的には見ていなかったからであろう。

だが、「フェミニスト」もまた、人間なのだから「自身の社会的な栄達を願う(欲望する)」のは当たり前のことで、だからこそ、2022年の段階で、すでにシェリル・サンドバーグが厳しく批判されていることを重々知っていた北村紗衣も、やはり「リーン・イン・フェミニスト」の道を選び、「武蔵大学テニュア教授」であり「Twitterのフォロワー5万人」のインフルエンサーとなって、新自由主義経済の中での「ひと握りの成功者」となりおおせてみせたのである。

だから、2022年の段階で、河野真太郎が「第四波フェミニズム」について、好意的な評価を正直に語れなかったのも、むしろ当然のことであろう。
そんなことをすれば、周囲から「浮く」のは目に見えていたから、「第四波フェミニズムの問題点についても、理解していますよ」というような態度をとりながら、しかし「それを否定することもできない。なぜならそれはフェミニズムの成果を否定することになり、バックラッシュの一種になってしまうからだ」と、自分の立場が、実際にはそちら(第四波フェミニズム)に近いものであると、そう自覚していたからこそ、そんなふうに間接的に「第四波フェミニズム」を擁護しもしたのである。要は、回りくどい「自己弁護」だったのだ。

したがって端的に言ってしまえば、本書著者の河野真太郎自身が、典型的な「第四波フェミニスト」の一人なのだ。

日本のフェミニズム界にあって、自身で、そう公然と認めるわけにはいかないけれど、実質的には「ライトな文化批評を書いて、それが評価されて売れっ子になれれば、ひとまずそれで満足」な人であり、「第四波フェミニズム」における「ひと握りの成功者女性」云々以前の、「低所得者女性」や「女性内格差」、あるいは、菊地夏野の提起した「従軍慰安婦問題」などの「ナマの問題」は体良く敬遠して、「自分の好きなオタクネタ」を、フェミニズムに絡めて語っておれば、それでお座敷もかかれば本も出せると、それで満足しているような、差別や格差を黙認する、新自由主義的な「フェミニスト」だったのだ。

一一だからこそ、河野真太郎の書く「評論」には、弱者に対する「真情」など籠ってはおらず、おのずとそのために、薄っぺらなものにもなってしまってもいるのである。

 ○ ○ ○

本書『正義はどこへ行くのか』の内容に即していえば、ここでもまた河野は「新自由主義と結びついた第四波フェミニズム」の問題について、「難しい問題だ。これからも考えていかなければならない」というような調子で、自身の立場を曖昧化し、誤魔化している。

自分が好きな「アニメや映画」を論じ、それで、「ウケてナンボ」の新自由主義経済の中で勝ち抜けられるのなら、それで満足。
だからこそ、「考えなければならない難しい問題は多々あるが、しかし、現に虐げられている人がいる以上、フェミニストである私は、そうした人たちに深くコミットしていきたい」とまでは、言わないのだ。
「難しい問題だ。考えなければならない」とくり返しているかぎりは、自分自身は「現状のまま」、難しい現実から距離をおいていられるからである。

したがって、本書で語られる河野の主張を要約すると、おおすじ次のようなものとなる。

(A)今や「多様性」の時代である。
(B)だから、映画やアニメなどのヒーローにも、多様性が求められるのは、当然のこと
(C)しかし、多様性を認めるということは、ある意味では「優劣的な差異」の否定(相対化)という側面もあって、「正義と悪」との区別が曖昧になる。これまでは自明な「悪」とされていたものも「一つの考え方(立場)」ということになってしまうためだ。
(D)一方「新自由主義(ネオリベラリズム)」というのは、「新保守主義」と結びつきがちであることから「守旧主義」だと思われがちだが、そうではない。「新自由主義」は「労働力の自由化」という目的のためにこそ、むしろ「平等」を促進しようとするものであり、「女性が輝く時代」だの「国民総活躍社会」だの「女子力」だのといった、女性(や高齢者、障害者など)の社会進出を後押しするような言葉の裏には、女性(や高齢者、障害者など)をひとしなみに安い労働力として最大限に活用したいという思惑が隠されている。
(E)昨今「第四波フェミニズム」と呼ばれる流れは、そうした「新自由主義」との相性がよく、実力主義で社会的に成り上がる一部女性をロールモデルとするせいで、結果としては、そうはなれない大半の女性との間の経済格差を容認するものだし、その「新自由主義」における弱肉強食の「実力主義」に加担しているという側面も否定できない。
(F)しかし、だからと言って、フェミニズムの目指してきたものからすれば、一部の女性の社会的な成功を否定するというのも違うだろう。
(G)したがって、私たちは今、そんなダブルバインドの難所に立たされているのであり、それを深く認識した上で、その先により良い社会を構想しなければならない。

つまり、一見もっともらしい「正論」に聞こえるのだが、要は「私は真摯に考えてゆきます」と言っているだけなのだ。

自明のことのごとく「私は女性の味方であり、多様性の推進を支持します」という立場表明はくり返しても、「現に苦しんでいる大半の女性」の問題については、何も語らない。自身は「身分の安定した大学教授」として「これからも、弱者のために考えてゆきます。それが私の仕事ですから」と言っているに過ぎないのだ。
要は、弱者とは縁もゆかりもない人の、正義派ぶった「高みからの論評」なのである。

次は、河野真太郎をこのような人だと判断した根拠を、河野の文章に沿って説明し、示していきたい。

(1)
『 ポストモダン思想は、西洋化こそ進歩であるといった近代主義を批判し、そのような歴史観を「大きな物語」として退けた。とりわけこの文脈で重要なのは、虚偽/真実の二項対立もまた退けられたということである。ポストモダン思想によれば、「真実」は権力によって作り上げられた幻想である。
 (※ ミチコ・)カクタニや(※ リー・)マッキンタイアは、ポストモダン思想によるこの「真実」の拒絶が、現代のポストトゥルース(※ 真実なき時代)を生んだと考える。だが二人の議論は、ポストモダン思想の重要な意義を見失ってしまっている。ポストモダン思想が主張したのは、「真実は作り物だから何でも真実になりうる」ということではない。そうではなく、真実が生産されるときには何らかの権力が作用しているのであり、私たちはいかにして真実が生産されているかを客観的に見定める力を身につけなければいけないということであった。その意味でポストモダン思想は重要な解放思想であったし、今もそうでありうる。
だが一方で、そのような解放思想が、右派ポピュリズムによる簒奪を受けてきたことも確かだ。』(P79)

ここでは、「ポストモダン思想」的な「価値観の相対化」というものが、その本来の目的に反して、「ドナルド・トランプ的な右派ポピュリズムによって簒奪されている」という現実を指摘している。

「従来の価値観」は絶対的なものではない、男性中心主義的な世界観は唯一絶対のものでないと批判したまでは良かったのだが、今度はそれを受けて「すべての価値観や世界観は、相対的なものにすぎない」のだから、自分の選んだ価値観なり世界観なりを、それぞれに押し通せばよいという「開きなおり」と「理屈抜きのゴリ押し」が幅を効かせるようにもなってしまった、というような状況である。

(2)
『 私は映画(※ 『マトリックス』)公開当時、これは(※ 折衷案的に不徹底なその結論において)なんと反動的な結末なのだろうと憤慨した。しかし、トランプ主義をはじめとする右派ポピュリズムの嵐を目にした今は、この(※ 『マトリックス』の結末で選ばれた、二者択一的ではない)中庸な結末の先見性を感じないではいられない。この結末は、あらゆる人がレッド・ピルを飲んで(※ 断固として)「真実」に目覚めるべきだという要求はしない。すべての「現実」は作り物であって、それをはぎ取った真実に目覚めるか、逆に開きなおって自分の好きな真実だけを選び取るかといった極端な二者択一に走ることが、慎重に回避されている。
 そこには、ポストトゥルース的な(※ ドナルド・トランプ的な)感性との(※ 慎重かつ正しい)付き合い方のようなものが、早々に示されていたように思えるのだ。』(P85)

このあたりで、河野真太郎の「立場」が露呈しはじめている。要は「現実を直視して、断固として戦え」という考え方を採らないと、河野はそう表明しているのだ。「私はそんな単細胞で独善的な、冒険主義者ではない」と。

(3)
『 このような(※ ポスト・トゥルース的な)ニヒリズム状況と、前節で論じた(※ 映画『ブラックパンサー』的な)多文化主義との距離はどれほどのものだろうか?(※ どれほどの違いがあるだろうか?) あらゆる価値を包含するはずの多文化主義の決定的な外部・敵は「多文化主義を否定する者」であると述べた。だがじつのところ、ニヒリズムもまた同じ論法を使う。例えば差別的な表現を批判するリベラルに対して、「表現の自由の敵」といった言葉が投げつけられるときには(※ 価値観や善悪の相対化としての)それが(※ そこで)起きている。そのような(※ リベラルに批判的な)言葉を投げつける人たちにとっては、自由な表現に少しでも口を出すリベラルは「価値の多様性」を否定する者たちなのである。不思議なことに、現在では左派と対立する右派の(※ 新保守主義者の)多くも、「多様性」のレトリックを使用しているのだ(※ 例えば「民族の多様性を確保するためにこそ、民族の隔離主義を認めよ」といった具合に)。
 もちろんそれ(※ 「言葉狩り」反対という主張)に対して、「表現の自由」の意味を勘違いしていると反論することは可能だ。だがここで問題にしているのは、ヒーローものが先述のようなニヒリズム状況と格闘せざるをえなくなっているという事実である。』(P98)

ここでのポイントは、ヒーローは、「悪」と戦う以前に、「善悪の相対化されたニヒリズム状態」と戦わなくてはならなくなっている、と言っている点だ。
つまり「私は、昔ながらに呑気に悪と戦うのではなく、まず、この善悪相対化のニヒリズム状態と格闘します」と、そう暗示しているのだ。そう『せざるをえなくなっている』でしょ、と。

なお、念の為に付け加えておくと、「言葉狩り」の問題は、河野が言うほど簡単な話ではない。つまり『「表現の自由」の意味を勘違いしている』と反論するだけでは、まったく意味をなさない。
なぜなら、どっちが「勘違い」しているのかは、そう簡単には決定できないのが「ポスト・トゥルースの時代」であり、相手に「トランプ派」のレッテルを貼って貶めれば、それで済むようなことではないからだ。

(4)
『 本書では、「多様性」が一般化した時代における正義そしてヒーローの行方について考えてきた。白人異性愛健常者男性の完全性を理想とするヒーロー(キャプテン・アメリカスーパーマンを考えてみよ)をいつまでも規範とすることは、現在の社会が許さなくなっている。ヒーローたちも「アップデート」が求められてきたのである。だが、そのようなリベラルなアップデートはトランプ時代においては強い逆風に直面する。本書ではそのような複雑な力学を論じてきた。』(P128)

本書で奇妙なのは、河野真太郎が、キャプテン・アメリカスーパーマンの「ヒロイズム」と、ドナルド・トランプ的な「反動主義」を、ほとんど同一視することで、それらをひとまとめに否定している点であろう。
どちらも「男性中心主義」だから、女性を差別しており、多様性を否定しているということなのだが、果たして、本当にそうなのだろうか?

たしかに、キャプテン・アメリカやスーパーマンの「作者」には「男性中心主義」的なものが、多少なりともあっただろう。
だが、キャプテン・アメリカやスーパーマン自身には、そんなものはない。むしろ彼らは「フェミニスト」なのだ。「女性尊重論者」なのである。

無論、自明なこととして女性を「弱い存在」「庇護すべき存在」だと考えるような発想は、女性を「紋切り型」で見るようなものであり、その意味では差別的だと言える場合も多々あろう。
しかしながら、現実問題として、女性が男性より「腕力に劣る」という事実があるのだから、その点で「女性が弱い」と考えるのは正しい認識だし、今どきの女性「フェミニスト」は、何でもかんでも「男性と同様の扱い」を求めるのではなく、「女性性を尊重したかたちでの、同等の処遇を」という、いささか判断の難しい扱いを求めているのではないか。

しかし、そうした、個別性の尊重への配慮なら、キャプテン・アメリカやスーパーマンだって理解しており、彼らは、女性が「腕力では劣っている」と考えても「知性において劣っている」とは露ほども思っておらず、「頭の悪い女は引っ込んでいろ、これは男の仕事だ」などとは主張しないのである。また、事実彼らは、ブラック・ウィドゥワンダーウーマンの「力」を借りるのを、恥だとは思っていない。
つまり、そこが、ドナルド・トランプとはまったく違っているのであり、古典的かつ典型的な「男性ヒーロー」だというだけで、キャプテン・アメリカやスーパーマンを、男性中心主義の象徴であるかのように河野が言うのは、お門違いというものであろう。

また、しごく当たり前の話なのだが、人には「好き嫌い(好み)」があり、それは「遺伝的要素」と「生育環境的な要素」の絡まり合ったものだとはいえ、いずれにしろ、それ(好み)があること自体は、否定できない。
ということは、ある作家が「男性ヒーローを描きたい」と思うことは、仮にその作家に、無意識な「男性中心主義」の「美意識」があろうとも、それはその人の勝手(自由)であって、それが「古い」とか「時代にそぐわないからダメだ」などと、他人が口出しする筋合いのことではない、ということである。

真の自由とは、「男性ヒーローが好きな人は男性ヒーローを愛し、女性ヒーローが好きな人は女性ヒーローを愛する」いうことであって、「男性ヒーローの称揚は反時代的だから、女性ヒーローを描きなさい(褒めなさい)。それが当然であり反差別なのだ」などという態度の方が、よほど「全体主義」的な「マイノリティ差別」だとも言えるだろう。

「マイノリティ」とは、今や単なる「少数派」を意味しはしない。
「少数派」であるために、社会的な力を不当に奪われていた時代には、「少数派」は、即「弱者」であったけれども、「少数者」ゆえにこそ「特権」が与えられる時代ともなれば、その「少数派」に属する者は、その社会における「有力者」に他ならないのだ。
だから、その「少数派の有力者(1%)」が「多数派の弱者(99%)」に、自分たちの価値観を押しつけるのであれば、それは昔ながらの「エリート権力による専横」と、何ら選ぶところがないのである。

したがって『現在の社会が許さなくなっている。ヒーローたち』も何も、問題は「現在の社会の、主流をなす(力を持っている)価値観」の正当性であり、まずはそれが検証されなければならない。
それに従う従わないは、それからの話なのだが、河野真太郎の場合は、その「フェミニズムの現在」や「多様性の現在」というものを「問う」視点が、そもそも欠落しているし、むしろそれを、「印籠(金科玉条)」のごとく無条件に振り翳しているために、その主張は、どうにも「薄っぺら」なのである。自分だけは「(間違わないから)疑わない」という、そんな薄っぺらさなのだ。

(5)
『 さて、私がこの「ケアの倫理」についてのエピソードを持ち出しているのは、(※ 発達心理学者キャロル・)ギリガンの(※ 著書『もうひとつの声で』で)言う「心理学の理論」と「ケアの倫理」がまさに、ゼロサム的な社会観とそれに参入することをめぐる逡巡の対立に一致しているからである。
 (※ 同書に登場する、心理学者からは正しく発達した子供として高く評価される男児)ジェイクはじつは、ゼロサム的な社会にみごとに適応した子供である。彼は、(※ 仮説的な状況の中に登場する)妻の命と、法を遵守して薬を盗まないこととの間にゼロサム的な対立を見出している(というより、質問の前提がそのようになっているのを受け容れている)。
 それに対して(※ 同書に登場する女児の)エイミーはそのようなゼロサム的な二律背反の前提そのものを疑う。疑うというより、そのような前提をそもそも受け容れていない。さらに言えば、彼女は質問が設定している以上の資源が存在する可能性を追求してさえいる(借金やローンなど)。
 私はジェイクとエイミーのこのエピソード、すなわち(※ それぞれの)「心理学(※ が是とする)の理論」と(※ ギリガンが是とする)「ケアの倫理」の対立は、ジェンダーの対立であるだけでなく、新自由主義的な市場の論理、ゼロサムの論理への適応の有無という対立でもあることを表現しているのではないかと考えている。
 私が言わんとしていることを理解していただくためには、前節の最後の方で引用した「龍騎」(※ 『仮面ライダー龍騎』)における(※ 主人公)真司の浚巡の言葉と、先ほど引用したエイミーの言葉を比較していただければいいだろう。二人とも、自分たちに課されたゼロサムの、あれかこれかの選択肢そのものが自分の他者との関係性における倫理と矛盾していることに苦悩する。
 そしてここでは、ゼロサム的な新自由主義の論理と、男性的なジェンダーが同時に逸脱されている。
『仮面ライダー龍騎』は放映当時、子供向け番組としてはあまりにも陰鬱であるために批判された。その批判はある意味では正しかった。『龍騎』は新自由主義的な競争社会の論理とそれがもたらすジレンマ・苦悩を登場人物たちに課すし、作品そのものがそのような社会のゼロサム的な論理を(※ 対決すべき現実として、その存在自体については)肯定するものに、基本的にはなっている。
 しかし、(※ したがって)真司の抵抗と逡巡は字義通りに捉えられるべきだろう。私は『仮面ライダー龍騎」が最終的に、「悪」に対立する「正義」ではなく(※ それが、目の前の状況に解決をもたらさないものではあっても)「ケアの倫理」を示してみせたことに一縷の希望を見出したい。それは、現代の資本主義の精神と男性的ジェンダーの桎梏を同時に乗り越える道を指し示している(※ かも知れないからな)のだ。』(P207〜208)

ここなどは、「二者択一」を迫る「新自由主義」に対応して(順応ではない)「合理的に正しい方を選ぶジェイク」(と、それが心理学的に正しいものとされる発達概念)に対して、その「二者択一を自明の前提とする態度自体を問いに付して無効化するエイミー」の「ケアの倫理」というものが、もっともらしく語られている。

しかし、こうした考え方は「考える時間的余裕と立場」の保証された者にはそれも可能なのだが、現に今、どちらかを選ばなければ、どちらか、または双方が死ぬという状況で選択を迫られている人には適用できない。だからこその「デスゲーム」なのだ。

仮面ライダー龍騎(左)と戦う、仮面ライダーナイト

したがって、ジェイクの選択とは、そのギリギリの状況、「二者択一せざるを得ない状況での選択」であるのに、河野はそこへ「どっちも嫌だなあ」などと言って澄ましていられる特権的な立場を持ち込んで、「こういう立場もある」と、お門違いなことを言っているにすぎない。
つまり、二つは立場は、そもそも「置かれた状況が違う」のであり、単純な優劣判断など、そもそも不可能なものなのだ。
「人間と馬は、どっちが優秀か?」は、そこで「何が問われているのか」という「状況」によって、おのずと変わってくるものなのである。
したがって、「どっちかしか選べないというのが前提条件」である時に「どっちも嫌」では「解答にはならない」。それは単に「現実逃避」でしかない、ということなのだ。

そして、この種も現実逃避は、「現にいま苦しんでいる貧困女性」の問題の方は平気でスルーして、抽象的な「フェミニズム」の問題を大仰に論じて見せる「大学フェミニスト」である河野真太郎の「特権的な立場」を、あたかも「高尚なもの」ででもあるかのように見せかけるためのレトリックでしかない、とも言えるのだ。

(6)
『 以上のように、平成の「仮面ライダー」シリーズと「プリキュア」シリーズは、まったく異質なヒーロー物語であるように見えながら、新自由主義的/ポストフェミニズム的な社会を共有し、それを別の形で表現しているようだ。
 前者では従属化した男性性(正義のヒーローたりえない男性性)の悩みと、デスゲームへの参加による「市場の正義」の肯定が(それへの抵抗とともに)、描かれ、その一方で後者のキラキラとしたエンパワリングな女性像も、ポストフェミニズムという観点からすれば新たな資本主義のカ動への取りこみとみなすことができる。
 こういった状況を乗り越えて新たなヒーローの物語はいかにして語ることができるのだろうか? これが、私たちの立つ現在地である。私は必要以上に悲観的な結論に至ろうとしているのかもしれない。だが、現在地を確認することは次の一歩を踏み出すためには絶対に必要なことである。』(P222〜223)

『現在地を確認することは次の一歩を踏み出すためには絶対に必要なことである。』というのは確かだが、結局は、確認ばかりをくり返して、『次の一歩を踏み出』さないままその「不作為に安住する」のでは、それは「欺瞞」としか呼びようのないものであろう。

(7)
『 しかし、「仮面ライダー」とはそもそもそのような物語だった。そして、あえて断言すれば、ポストトゥルースの現在をいかに生きていくかという教訓を、この作品は授けてくれているのだ。これは、第三章で「マトリックス」シリーズについて述べたことと同じである。「本当の現実」に目覚めるという物語をこそ、現在の私たちは警戒せねばならない。かといって、すべてはフェイクだという居直りに陥らずに、そのあわいでいかにして生きていくか。(※ 映画『シン・仮面ライダー』の)一文字隼人が続けていくと決心する「戦い」がそのような戦いであるのなら、私もその戦いには参加したいと感じる。』(P230)

『そのような戦いであるのなら、私もその戦いには参加したいと感じる。』と、ここで言うところの「戦い」とは、「当然、選択を誤るおそれもあるところの決断を、無難に避け続けるという自分一個の保身ために、ずっと悩んでいるポーズを採り続ける不決断」という、実際には戦う気などない、どちらも採らない「偽の戦い」のことでしかない。

つまり、河野真太郎『あわいでいかにして生きていくか』という、獣とも鳥ともつかない「コウモリ」的な(状況に応じて、どちらにでもつける)生き方を探っているのである。

(8)
『 正義(※ や真実)はなく、個人の欲望(※ や決断)しかない陰謀論的な世界で、いかに「正義」をなすか。『チェンソーマン』の主題はそのように煎じ詰めることができる。しかもそこには、現代的な貧困と弱者男性の問題が盛りこまれる。
 そのような難問に『チェンソーマン』がどう答えているのか。それについて、私は「一つの正しい答え」を出すことにためらいを覚えている。なぜなら、現代の男性性の問題は、「一つの正しい答え」を自分の生き方とはできない人たちの問題である部分が大きいからだ。第十章でポストフェミニズムをめぐって女性について述べたのと同様に、ある種の弱さが許されることが、男性たちにも必要である(その弱さが他者やさらなる弱者を傷つけないならば、という条件つきにはなるが)。』(P235)

「語るに落ちる」とは、このことだろう。河野真太郎の「本音」とは、

『「一つの正しい答え」を自分の生き方とはできない人たちの問題である部分が大きいからだ。第十章でポストフェミニズムをめぐって女性について述べたのと同様に、ある種の弱さが許されることが、男性たちにも必要である』

つまり、河野にも、「不決断による不作為」が認められなければならない、「不決断による不作為」による「永遠の日和見主義」は責められるべきではないと、そう言っているのである。

しかも『その弱さが他者やさらなる弱者を傷つけないならば、という条件つきにはなるが』などと、もっともらしく付け加えてはいるが、「不決断による不作為」という『弱さが他者やさらなる弱者を傷つけ』ることなど、いくらでもあるというのは、自明な事実ではないか。

たとえば、電車の中で、痴漢に遭っている女性を見かけて、それを助けられない男性。
「やめろ」とも「何をしてるんだ」とも言えず、ただ頭の中で「あれは痴漢だろうか? 痴漢に見えるけれど、それは確かなことなのだろうか? 私の見間違えなのではないだろうか?」と、延々と考え続けたあげく、電車が次の駅に止まり、痴漢はそのまま電車を降りて立ち去ってしまう。一一そんな状況だ。

こんなことを繰り返している男が、厚かましくも「私は、女性の味方です」などと名乗るのは「笑止」というほかないと、私はそう思うのだが、常に「一つの正しい答え」を自分の生き方とはできないとでも言いたいらしい、そんな河野真太郎の立場は、はたして認められて然るべきものなのだろうか?
それとも、解答が出てから、ご高説をお聞かせ願いたい、とでも言っておくべきものなのか。

また、『「一つの正しい答え」を自分の生き方とはできない』と言いながら、現実にはその一方で、勇ましくも「オープンレター」の呼びかけ人(発起人)に名前を連ねて、女性蔑視者認定した呉座勇一に対し「ネットリンチ」を加え得たのは、どのような確実な根拠によるものなのか?
それとも、単に「みんなでやれば怖くない」という、ありがちな心理によるものなのか? つまり「世間が許しそうだからやった」ということでしかないのだろうか? だからこそ、世間からの批判が高まると、さっさと関係者名を全削除して、証拠隠滅してしまったのだろうか?

河野真一郎がみずから、呉座勇一を公然と批判したオープンレター」の「呼びかけ人」なったことの「説明責任」を問われるのは、当然のことである。
この時は「一つの正しい答え」とやらを出せたのに、自分一人の時には、なぜそれが出来ないのか? 

それは、「一つの正しい答え」が出せないのではなく、周囲の「空気」を読んで、ご都合主義的に「一つの正しい答え」を出したり出さなかったりしているだけだと、そういうことではないのか?

本書は、河野真太郎の「日頃の不決断・無作為」の正当化を図った「アリバイ工作」本でしかないと、そう断じても良いと思えるのだが、一一さて、河野さん、ご反論は可能でしょうか?

なお、本書には、オープンレターの同志、同呼び掛け人(発起人)の一人である、三木那由他が、推薦コメントを寄せているという事実も申し添えておこう。

『【推薦コメント】
本書はヒーローの変遷を歴史的な流れのなかで見通すひとつの示し、手がかりを与えてくれる。
────三木那由他氏(大阪大学大学院講師・『言葉の風景、哲学のレンズ』、『会話を哲学する』)』

河野真太郎が英文学、三木が哲学と、ジャンルは違えど、一般向けの著作が多い「第四波フェミニズム」のフェミニストという点では、彼(女)らは間違いなく、北村紗衣の同類なのである。

彼(女)らは、自分たちが典型的な「第四波フェミニズム」の「リーン・イン・フェミニスト」であり、その自覚があるからこそ、一見それを否定しているように語りつつ、自らをリベラル・フェミニスト」と語るだが、彼らの「リベラル」とは、弱者に寄り添おうとする本来のリベラルではなく、自身が「競争」に勝って成り上がるためなら、平気でウケねらいの嘘もつける、ネオリベラル・フェミニスト」なのだ。


(2025年2月20日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)

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