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『検証 ナチスは 「良いこと」もしたのか?』 : 典型的な「中二病」の逆張り

書評:小野寺拓也田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)

本書は、「紀伊國屋じんぶん大賞2024」の第1位に選ばれ、ベストセラーにもなっている。
タイトルにも示されているとおりで、本書の問題意識は「ナチスは「良いこと」もしたのか?」という、ごくシンプルなものだ。

ナチス・ドイツ「ユダヤ人虐殺」など、その数々の蛮行において「悪の象徴」的な存在となっているというのは、周知の事実であろう(というのは、教養人の間での話であって、一般には「周知」とは言い得ないほどに、その具体的な内容について「無知」の輩が多いということの方が、むしろ周知の事実なのだが)。

にもかかわらず(あるいは、だからこそ)、「ナチスだって、悪いことばかりしたわけではないだろう。少数例外的なことであったとしても、良いことだってしているはずなのだから、そこはそこで正しく肯定的に評価すべきではないのか。それが公正で客観的な評価というものではないか」と大筋このような、一見もっともらしい意見が、ときおり提出されては、一定の支持を受けたりする。だが、果たしてこの意見は、本当の正しいのだろうか? 一一というのが、本書の問題提起だ。

もちろん、正解は「間違い」だ。ナチスは「良いこと」なんか、やってない。

本書には書かれていないことだが、「ナチスだって良いことをした」と言う場合の「ナチス」とは、いったい何を指していっているのかという問題が、まずあろう。
例えば、ナチ党員が、捨て犬を拾ったら、それは「ナチスも良いことをした」というべきだろうか?
もちろん、その人物も「ナチの一人である」というのは間違いないのだが、だからといって、それで「ナチスも良いことをした」と表現するのは、明らかに変だろう。

つまり「ナチスは、良いこともしたのだろうか?」と問われる場合の「ナチス」とは「運動体」としての「ナチス」であって、「部分」の問題ではないのだ。
「殺人鬼だって、良いこともした」というのと同じで、彼だって、長年生きてきた中では「良いこと」もしているはずだが、だからと言って、「殺人鬼」の彼が「良いこと」をしたというわけではない。
そもそも、生まれた瞬間から、死ぬ瞬間まで、ずーっと「悪いことばかりしていた存在」などというものは、存在しないのだ。

(こうした写真をして「ヒトラーにも優しい一面があった」とは言えないし、「ヒトラーはロリコンだった」とも言えない。見たままではなく、こうした写真の公開意図くらいは考えるべきだろう)

前述のとおり、「ナチス」が問題となるのは「運動体としてのナチス」なのであって、ナチスを構成する「部分」の話ではない。
「あのおじさんが」「このおばさんが」あるいは「この政策に限っては」という話ではない。

「連続殺人鬼の右手は、子供の頭を撫でてやったことだってある」というようなことは、「殺人鬼」の「殺人」という「運動」を問題とする場合に、まったく「関係ない」とすら言えるだろう。「殺人鬼」だって、生まれた瞬間から、死ぬ瞬間まで「人殺ししかしなかった」というわけではないのである。「犬や猫には、非常に優しい人だった」ということだって、大いにありうるのだ。

で、ここまでは「私の意見」だが、本書で語られているのは、「歴史学」の立場から見て、「ナチスだって良いこともしたという考え方の、どこが間違いなのか」という話である。
歴史学の研究成果を踏まえて、その誤りを指摘し、具体的に反証していくのが本書なのである。

本書の基本的な構えとは、「はじめに」の次の部分に示されている。

『 歴史的事実をめぐるこうした問題を別の視点から整理すると、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討することができるかもしれない。
(中略)
 「(※ ナチスの)目的や(※ ナチスの個々の行為がおかれていた)文脈などはどうでもいい、(※ 個別断片的な見方であろうと)良いものは良いのだ」と感じる人も、ひょっとしたらいるかもしれない。たしかに三つ目の層である〈意見〉は最終的には個人的なものであるから、そのような考えをもつこと自体を止めることはできない。ただしそこでぜひとも知っておいてもらいたいのが、ドイツの「Tunnelblick」という言葉である。そのまま日本語に訳すと、「トンネル視線」とでもなるだろうか。自分にとって都合の良いところ(この場合は「ナチスの良いところ」)だけを照らし出し、それ以外が見えなくなっている状態を指す。
 〈解釈〉という層が非常に重要である理由が、まさにこの点にある。歴史研究の蓄積を無視して、〈事実〉のレベルから〈意見〉の層へと飛躍してしまうと、「全体像」や文脈が見えないまま、個別の事象について誤った判断を下す結果となることが多いのである。そうした目的や文脈を含めてもなお「良いこと」と強弁することは可能かもしれないが、現代社会においてそれが共通了解となることはおそらくないだろう。これは一般読者でも研究者でも状況は同じである。一次史料ばかり収集しても関連する研究文献をきちんと読み込んでいなければ、研究者ですら思い違いを免れない。歴史学で卒業論文を執筆する学生が「研究史が何よりも大事だ」と耳にタコができるほど聞かされるのも、基本的には同じ理由による。
もちろん、歴史研究者も万能ではない。思い違いをすることもあるし、他者の批判を受けてようやく認識の不足に気付くということもある。しかしだからといって、〈解釈〉の層を飛び越してよいということにはならない。〈事実〉から〈意見〉へと飛躍することの危うさは、何度でも指摘しておく必要があるだろう。〈意見〉をもつことはもちろん自由ではあるが、それはつねに〈事実〉を踏まえた上で、〈解釈〉もある程度はおさえたものでなくてはならない。
 二〇二二年度から高等学校で「歴史総合」が始まり、歴史事象について自分の〈意見〉をもつようもとめられることが増えていくだろう。その際、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉という三層構造は、「歴史的思考力」の前提としていよいよ重要になってくるはずである。』
(P6〜9、小野寺拓也

つまり、ある「事実」から、一足飛びに「(自分の)意見」に飛び移ると、間違える(誤りをおかす)、ということであり、「ナチスも良いことをした」といったような、奇を衒った「意見」とは、その類いのものだ、ということである。

たとえば、ミステリー小説(推理小説)を10冊ほど読んで「ミステリー小説とは、人殺しを描いた小説である」という「意見」を持ったとする。
これは端的に言って、「無知」に由来する間違いだ。なぜなら、そうではない「ミステリー小説」などいくらでもあるし、そこが「本質」でもないからである。

つまり「ミステリー小説」を、妥当に「理解」しようとするならば、まず「幅広く知る」必要がある。
しかしながら、個人が(内外の古典から新作まで)全作品を読むことはできないから、それまでに書かれた「推理小説論」などの「研究史」を参照する必要がある。それを無視して、自分一人の力で「バランスのとれた理解」に至り得ると思うのは、それこそ根本的な「無知」としての「自分一個の能力の限界=個人の限界」というものに対する「無知」に由来する、謬見でしかない。

したがって、私たちが、ある事象に対して「誠実」に向き合って、それを知ろうとするのであれば、「幅広く事実を学び」、かつそれにも限界があるという当たり前の自覚において「他者の研究を参照」し、その上で「自身の(過渡的な)意見」を構築するしかないのである。

なのに、「ナチスも良いことをした」などと安直に言ってしまう人というのは、まず「事実」について無知である。
私はよく「あるジャンルを論じようとすれば、最低100冊や200冊くらいの関連書や専門書を読んでからだ」と言うのだが、「ナチスも良いことをした」などと言うような人は、そもそも「本を読まない」人が多い。「いや読んでいる」と言っても、「活字の本」だと年間10冊も読まない人が多いし、読んだとしても俗ウケを狙って面白おかしく書かれた「通俗書」であって、「専門書」など読んだことがない、という人が大半だ。
そもそも、専門書を何冊か読んでおれば、素人の口出しが、いかに困難なこと(ハードルが高い)かくらいは、容易にわかることなのだ。
だが、そんなことにすら気づけない、基本的に「無知」かつ「頭の悪い」人というのは、テレビを見ながら「俺だって本気なれば、大谷翔平みたいになれた」などと本気で言ったりする人なみなのだ。つまり、「身の程知らず」という「無知」なのである。

(またの名を「無知」

したがって、「専門家」の意見に異を唱えようというのであれば、せめて、その相手の本を何冊も読んで、同様の立場の本も読んで、反対意見の本も読んで、さらに「事実関係」の本もいろんな立場から書かれたものを読んで、一一やっと「それから」の話でしかない。
だが、そこまでやる人は「ナチスも良いことをした」なんてことは、「匿名」の言い捨て以外では、決して口にすることはできない。なぜなら、自身の浅見浅慮の誤認が明らかになって、赤っ恥をかくことになる怖れが極めて高いということくらいは、さすがに学習しているからである。

つまり、堂々と「ナチスも良いことをした」などと言える人とは、端的に「ナチスについて無知」な人なのであり、「匿名」で同じようなことを言う人は、そこまで「無知」ではなくても、要は「無責任」な放言家にすぎない、ということになる。要は、「馬鹿」か「卑怯者」でしかない、ということなのだ。

先に引用した部分で、著者が強調しているのは、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉という事実認定のための三層において、無学な素人というのは、得てして「事実」から「意見」に飛躍してしまいがちなのだが、事実認定とは、そんなに簡単なものではないので、第二層たる「解釈」としての「研究史」にも、是非とも目配りする必要がある、ということである。

これは「無知な人間ほど、その無知ゆえに怖いもの知らずの自信過剰になりがちだ」ということだ。
「事実さえ知ったなら、自分はそれを、適切に判断できる(その力がある)」と、そう思っているのだが、現実は、そんなに甘いものではない。

例えば、「note」などにも際限なくアップされている「書評」だの「映画評」といったものひとつ見ても、「同じ作品を鑑賞しながら、どうしてここまで読みの深さが違うのか?」と、そう呆れない人というのは、その人自身が「読めない人」なのであり、要は「開きメクラ」なのだ。
例えば、広く一般読者に提供される小説作品は、いずれも(基本的には)「同じテクスト」だというのは、「事実」である。
だが、同じそれを与えられれば、「誰もが同じように、その作品を鑑賞できる」などと考えることが、いかに現実にそぐわない愚かな「誤認」かは、こうして説明されれば、誰にも明らかなことだろう。

(彼は本の内容を理解して笑っているわけではない)

しかし、娯楽小説ひとつまともに鑑賞できない(読解できない)ような人間が、「ナマの歴史的事実」の「一部」を齧った程度のことで、その事実の本質を「正しく理解」できるわけなどない、というのは「わかりきった話」であろう。
だが、この程度の「わかりきった話」すらわかっていないような馬鹿が、本書でも紹介されているような、ナチスは「奇跡的な経済回復を果たした」「労働者の味方だった」「家族に対して手厚い保護政策を採った」「先進的な環境保護を行なった」「先進的な健康促進政策を推進した」といった「聞き齧り」ひとつで、鬼の首でもとったように「ナチスも良いことをした」などと言いたがるのだ。まさに「子供脳」なのである。

ではなぜ、これほどまでに「身の程知らず」なのかといえば、その点については、著者は「おわりに」の中で、次のような見解を示している。

『 もちろんナチズム研究者である筆者がそれらの(※ ナチスも「良いこと」をした、とされる各種の)政策のことを知らないはずはなく、上記(※ 著者の)のツイートは、それでもやはり肯定できるところはないという専門家としての評価を示したものである。実際、ナチスの個々の政策を詳細に検討していくと、一見先進的に見える政策も様々なまやかしや不正、搾取や略奪と結び付いていたことは明白であり、本書で説明してきた通り、近年の研究ではそこにナチズムの犯罪的な本質を認める見方が定説化している。筆者に「反例」を提示しようとした幾多の人たちは、どこかで聞きかじった生半可な知識をもとにナチスの政策を「肯定」しているにすぎないように見える。信頼に値する研究者のなかで、そのような主張をする者はいない。
 戦争とホロコーストを引き起こしたナチスの悪行はよく知られているはずなのに、なぜこのような主張をしたがる人が多いのだろうか。筆者の見るところ、彼らはむしろナチスの悪行を繰り返し教えられてきたがゆえにこそ、それを否認しようとする欲求に突き動かされている。多くの人びとはヒトラーを「悪の権化」と決め付ける「教科書的」な見方に不満を抱き、「ナチスは良いこともした」といった「斬新」な主張に魅力を感じている。
(※ 見出し省略)
筆者のツイートに寄せられた批判的なリプライを動機付けているのはおそらく、ナチスを「絶対悪」としてきた「政治的正しさ(ポリコレ)」の専制、学校を通じて押し付けられる「綺麗事」の支配への反発である。ナチスの「良い政策」をことさらに強調することで、彼らは自分たちの言動を制約する「正義」や「良識」の信用を貶め、その「抑圧」からの脱却をはかっているのである。
 さらに「マルクス主義の蛮行はどうなる」「共産主義国だって残虐行為をしたではないか」という「Whataboutism」の論法(「そっちこそどうなんだ論法」とも呼ばれる)の多用も、似たような動機に由来するものと見ることができるだろう。筆者に寄せられた批判のなかには、中国の人権問題などを持ち出して、ナチスの戦争犯罪を相対化しようとする主張が数多く含まれていた。「ナチスを批判するのに中国を批判しないのはおかしい」
ダブルスタンダードではないか」というわけだが、中国がいかに酷い弾圧を行っているからといってナチスの悪行が免罪されるわけではなく、両者はあくまで別個の問題である。「ポリコレ」をひっくり返したいと願う人びとにとって、ナチスを批判する発言はよほど煙たいのだろう。そこでナチス以外が行った残虐行為を指摘することで、「悪の相殺」ができるかのように錯覚してしまうのである。
 もちろん世の中の支配的な価値観をうのみにせず、たえず権威を疑って批判的に考える姿勢そのものは、けっして否定されるべきものではない。それはむしろ、学校教育において育成されるべき重要な資質・能力の一つだと言ってよい。「はじめに」で指摘した〈解釈〉、つまり歴史研究の積み重ねも、過去の研究を疑い、批判することによって可能になったものだ。だが「ナチスは良いこともした」と主張する人たちにあっては、そうした反権威主義的な姿勢はいわゆる「中二病」的な反抗の域を出ず、ナチズムが実際にどんな体制であったかについては無関心であることが多いようだ。過去の研究の積み重ねから謙虚に学んで、それを批判的に乗り越えていく姿勢はほとんど見られない。そこでは多くの場合、学校的な価値観への反発が「教科書に書いていない真実」への盲信に直結している。一般に出回っている不正確な情報、怪しげなデマの類でさえ、「教科書的」な見方を否定するものであれば、いともたやすく「真実」 と見なされる。』
(P109〜111、田野大輔

端的にいえば、「ナチスも良いことをした」などと言いたがるのは、「勉強嫌いな劣等生による、一発逆転狙いの逆張り」でしかないということである。

あまりにも「無知」であり、かつ「頭が悪い」ので、学校で教わっていないことをネットなどで知ったら、それが専門家も知らない事実だなどと即座に思い込んで、その「秘蔵」の一撃だけで、専門家を倒せるなどと考えるのだから、「無知で馬鹿」だという評価は避け得ないものなのではないだろうか。

また、著者の指摘しているとおり、昨今では「反ポリコレ」の問題も大きいだろう。
たしかに「ネットだけ」を見ていれば、「無知な馬鹿が、ポリコレ的な結論だけを、万能の武器ででもあるかのように便利に振り回し、威張り散らしている」というような事例も、まま見受けられる。
だから、それはそれで「個別に」批判撃破されるべきだというのは事実なのだが、しかし、そういう「道具の使い方を知らない馬鹿」の存在をして、その「道具」を使っている人全員を十羽一絡げに「馬鹿だ」と呼ぶのは不当だし、その道具を全否定して良いということにもならない、というのは、理の当然であろう。

だが、この程度の区別もつかない粗雑な頭しかないからこそ、安易に「反ポリコレ」を標榜できるし、そんな連中の中には、たまに自称「哲学者」なんてのもいるものだから、それに力を得て、さらに声高に「反ポリコレ」を叫ぶ馬鹿なども出てくるのだ。

だが、ひとつ言えるのは、「哲学者」は「哲学者」であって、「万能の知恵者」でもなければ「間違えることのない人」でもない、という事実である。これは、まともに知能のある者なら、殊更「哲学者」ではなくても理解可能な、自明の事実でしかない。
むしろ、本当の「哲学者」ならば、「専門外」については慎重であるはずなのだが、なんでも屋の「タレント哲学者」などが、周囲から持て囃されることで思い上がって、自身を「万能な知恵者」だなどと勘違いした挙句、安易に「反ポリコレ」だなどと、一部の流行に竿さして「目立とう」などとする。なにしろ彼らは、目立ってナンボの「タレント」だからだ。

「ポリコレ」とは「政治的な正しさ」あるいは「政治的妥当性」ということであって、言うまでもないことだが「反ポリコレ」は、自明に「間違い」なのだ。そんなものは「正しくあり得ない」。
あり得るのは「反・偽ポリコレ」であり、だとすれば、「偽ポリコレ」を「ポリコレ」と同一視して反対するのは、明らかに誤りなのである。

ザラブ星人が化けた偽ウルトラマン」の悪行を見て「見ろ! ウルトラマンだって、所詮は宇宙人なんだ。信用しちゃいけなかったんだ!」などと言う人物は、たいがいは「見る目」のない、間抜けにすぎない。
「事実観察」と「解釈」が粗雑なので、間違った「意見」を持ってしまうのである。

(本物でしょうか、偽物でしょうか?)

ちなみに、「ナチスも「良いこと」をした」などと言う人は、「戦時中、日本や日本軍は植民地に対して「良いこと」もした」と言いたがる、「ネトウヨ」なみの人間である。
無論、自分が「ネトウヨ なみ」だと自覚できるだけの知能など、持ってはいないのだが。



(2024年3月24日)

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