書評:ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りもの アルシーヴと証人』(月曜社)
本書で扱われるのは、第二次世界大戦下、ナチスドイツの進めたユダヤ人絶滅計画における「絶滅収容所」に入れられたユダヤ人たちの中でも、近年、注目されることになった「回教徒(ムーゼルマン)」の問題である。
「回教徒(ムーゼルマン)」とは、無論「比喩表現」なのだが、この言葉が、収容所収容者(囚人)たちの中でも、「どのような状態」にあった人たちを指す言葉なのかを、まずは本書から孫引きで紹介しておこう。(以下、「※」は本稿筆者による註、または補足説明である)
これで、「回教徒(ムーゼルマン)」の意味するところが、おおよそイメージできたと思う。
「回教徒」とは、単に「飢えて疲れて気力を失った」状態の人を指すものではなく、「すでに内面を破壊されて、生ける屍になってしまった」状態の人を指している。
つまり、「回教徒」は、絶滅収容所に入れられたユダヤ人の中でも、もっとも「非人間化されてしまった」被害者であり、絶滅収容所における「最悪の犯罪」の被害者なのである。
無論、「殺される」ことは、「最悪な被害」ではあるのだが、しかし、それをより仔細に見るならば、「回復しようもないほど、心を壊され奪われ、動く死体にされた状態で、しばらくは生かされているだけの、実質的には殺された状態」とは、あっさりと「(物理的に)殺される」場合よりも「最悪の被害」であるとは言えまいか。その、個人の尊厳と人間の尊厳を、徹底的に晒しものにするようなおこないは、悪魔的な「最悪の犯罪」ということにはならないだろうか。
こうした「回教徒」の存在が知られるまでは、「ユダヤ人虐殺(ホロコースト)」と言えば、「大量殺戮」とか「大量抹殺」といった、ある意味では「量的な面」を中心にして、その「規模の比類なさ」ばかりが強調的に語られてきた。
しかし、「絶滅収容所」には、そうした「数字」には還元できない、「質的」な「最悪さ」があったのであり、それが「回教徒」の存在なのだが、「回教徒」の存在を知らされたからには、もはや私たちは、「数的」な問題に驚き嘆くだけではなく、その「質」の「意味」を問わないかぎり、「ユダヤ人虐殺(ホロコースト)」の惨禍と向き合ったことにはならない。
しかしまた、「回教徒」とは何か、それが何を意味するのかという問題は、そう簡単に「結論を出して、片付け」られるようなものではない。
だからこそ、本書著者アガンベンは、本書での試みを、次のように説明している。
『すべて納得してしまう者のようにあまりにも拙速に理解しようとするのでもなく、安直に神聖化してしまう者のように理解を拒否するのでもなく、その隔たりのもとに留まりつづけること』が、ひとまず可能なことであり、そこで、今できることとは、聞くことのできない、生還しなかった「回教徒」たちの、存在しない言葉ではなく、彼らのことを語っている「生還者としての、回教徒の代弁人の言葉」あるいは「生還はできなかった人たちの手によって残された、回教徒に関する文書」に、丁寧に「注釈」を加えていき、そこから「回教徒」という存在の意味に迫っていくことだと、おおむねそういうことである。そもそも、それ以外に、何ができるであろう。
それでも、私たちは、やれることをやらなければならない「義務」を負っている。
なぜなら、私たちは、次のような「誤認」のもとにあって、「ホロコースト」の問題を「片付けた」つもりになり、安心を得てきたのだけれども、それは実際のところ、「ホロコーストの最悪の部分」から目をそらして、「回教徒」たちを見捨ててきたも同然であったからだ。
「反省しました」「賠償しました」「悲劇の本質をよく理解しました」と申告することで、この難問を「お払い箱」にして、さっさと「お役御免」になりたいところなのだろうが、人間が生み出した「最悪の部分」であり、かつ「語り得ない存在」についての問題であるからこそ、「回教徒」たちは、今も私たちに「問いかけている」おり、私たちには、私たち自身を知るための「応答義務」が、そこに課せられている。
ここで言われていることを、わかりやすく例えるならば「コロナ緊急事態宣言下で開催された、オリンピックを楽しむこと」。それと、まったく同じことだ。
犠牲者が日々生み出されている「地獄の門の前」にいることを知りながら、「金メダル」がどうのと盛り上がれる心性と、虐殺収容所でのサッカーに打ち興じられる心性に、いったいどれほどの違いがあろう。
しかし、これは単に「非常時」だけの問題ではない。
なぜなら、この世界には、常時「非常時」の存在することを、私たちは知っているのだから、「コロナ緊急事態宣言」が解除されたからといって、晴れて、やましさもなく「WBCを楽しむことに、何ら恥ずるところはない」ということには、ならない、ということである。
しかしまた、アガンベンがここで問題にしているのは、単に、こうした「スポーツイベント」や「花見・行楽」といった「娯楽」に止まるものではない。
例えば、「テレビドラマを視る」「ニュース番組を視て、世界情勢を知る」なども、「本を読む」「哲学書を読む」「アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』を読む」「書評を書く」「アガンベンはすごいと褒め称える」といったことなども、すべて含まれている、と解するべきだ。
自分だけは「回教徒のことを考えて、胸を痛めている」として「自己免責」してしまい、それで、今を「無条件に楽しむ」ことを許されているかのように思い込むのは、普遍的な「回教徒」の問題から、顔を背けることでしかない。
『アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不能である」と言うこと』は、「神は、言語を絶するほどに偉大な存在であり、人間の理解など及ぶべくもない」などと言って、自身の「敬虔さ」をアピールすることしか考えていない、キリスト教徒の「小狡さ」と同じことである。
もっと卑近な例を言えば、ある映画を観て「感動しました!」「泣きました!」「10回、観ました!」などと言って済ませるというのは、「作品と真剣に向き合っている」のではなく、ただ「自分は、この作品のベスト理解者である」ということをアピールしているだけでしかなく、これも同種のことなのだ。
「目をそらし」「敬虔な沈黙を守る(語らない)」ことが「神への敬虔さ」であるとアピールする、その御都合主義的自己正当化こそが、「回教徒」の現実から目をそらし、「悲劇だ」「重大問題だ」などと言うだけで済ませて、それそのものを直視すること引き受けようとはしない、悪質な欺瞞と同じなのである。
だから、私たちは「恥じることもなく、その名状しがたい難問を凝視する」のでなくてはならない。
それにしても、「キリスト教(宗教)」や「映画(娯楽)」などであれば、ただ自己顕示のために「わかった」アピールをしているだけでも、あるいは許されよう。
しかし、「回教徒」の存在は、他人事ではない。
それを直視した者の「心」を石に変えてしまうような、ゴルゴンのごとき「恐ろしい現実」であろうとも、私たちは「石(のような何物か)」にされてしまった彼らを、見捨てるわけにはいかない。なぜなら、彼らを「石」にして廃棄したのは、私たちの中にも住んでいる「ゴルゴン」だからである。
私たちは、「回教徒」の現実を直視しようとする努力の中で、私たち自身の中に「隠されて在るもの」を直視することになる。だから、それを直視しなければならないのだ。
「何も、私自身がユダヤ人を殺したのではない」「何も私自身が、戦争犯罪を犯したのではない」と、そういう「法律」的な意味では、私たちの多くに「罪」はないだろう。
しかし、「客観的に見て」つまり「法律的に見て」、自分自身には「罪がない場合」にこそ、自分の「罪」を感じられる者が、「人間」でいられるのだ。
言い換えれば、自分は「客観的に無関係だから」あるいは「法的な罪はないから」から、「罪の意識」など持つわけもない、などと、平然としていられる人間は、ユダヤ人たちをナチスに売り渡し、朝鮮人たちを見殺しにすることができる人間だ、ということである。
「恥じる」というのは、「その恥ずべきもの」が、自分とは無関係だから、平然と「恥じられる」のではない。それが、自分の中にもあって、それが出てくるのを恐れて、それを「恥じる」のである。
「金輪際、そんなものにはなりたくない」という「羞恥」の感情が、自然と湧き上がってきて、自分の「恥ずかしい部分」の表面化を押さえつけるのである。
言い換えれば、「自分はそんなものとは関係ない」とか「ひどいことをする奴らだねえ。自分は、絶対そんなことはしないし、考えられないことだよ」などと澄ましていられる人間は、自分の中にもあるもの、「回教徒」を生み出す「ゴルゴン(怪物)」を、野放しにしているに等しい。
だから、私たちは「恥」を知って、「回教徒」の存在に「罪」を感じ、その「罪」の意味を問い続けないわけにはいかないのである。
(2023年4月1日)
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