見出し画像

トマ・ピケティ ほか 『差別と資本主義 レイシズム・ キャンセルカルチャー・ ジェンダー不平等』 : キャンセルカルチャーの心理学

書評:トマ・ピケティ、ロール・ミュラ、セシル・アルデュイ、リュディヴィーヌ・バンティニ『差別と資本主義 レイシズム・キャンセルカルチャー・ジェンダー不平等』(明石書店)

本書は、「差別」の問題を、主に「資本主義」との関連において多角的に論じた、フランスの論客たちによる論文集である。
より正確に言えば、本国フランスでは、同じ叢書から別々に刊行されていたものを、日本でセレクションして1冊にまとめたものだ。したがって、話題はフランス中心だが、日本での問題とも十分にリンクする内容となっている。

私が本書を購入したのは、主に「キャンセルカルチャー」問題への興味からだ。
「キャンセルカルチャー」に関する本をネット検索したところ、本書がヒットし、その筆頭著者が有名な経済学者であるトマ・ピケティだったので、そんなにつまらない本ではないだろうと当たりをつけたのである。
もっとも、数字が苦手な私は、経済学も苦手でピケティの本は読んだことがなかった。けれども、彼がリベラルであることは知っていたので、テーマがレイシズムキャンセルカルチャージェンダー不平等」といったことなら、私にも読めるだろうと考えたのである。

ちなみに、購入時は、本書が4人の著者による独立した論文のアンソロジーだとは思わず、後の知らない3人は「共著者」というくらいの印象だったのだが、実際に手にしてみればそうでなかったのは、上にご紹介したとおりである。

しかしこれは、結果としては私の好都合だった。
というのも、冒頭のピケティの論文は、フランスの「移民政策」における排外主義的な傾向という「差別」の問題を、主に「政治経済」の側面から論じた、いかにも経済学者らしい論文で、「理念」の問題だけではなく「実効性」の重要さを具体的に語ったものであった。そして一読、私も「なるほどそのとおりだ」とは思ったものの、やはり「私の好み」の論文ではなく、正直に言うと、いささか退屈に感じられたのである。
つまり、本書が、1冊丸ごとこの調子だったから、かなりしんどかったと思うのだが、幸いなことに4人の著者はまったく違った角度から「差別」を論じていたので、その意味では、むしろピケティ以外の3人の論文の方が、私個人は面白く読むことができたのだ。

なお、本書の「各章の内容紹介」は、次のとおり。

第一章 人種差別の測定と差別の解消 トマ・ピケティ
人種やジェンダーをめぐる差別・社会的不平等は、経済的不平等と深く結びついている。『21世紀の資本』で、資本主義が必然的に生み出す格差を精緻に分析したトマ・ピケティが、差別の問題に正面から切り込み、その測定について、および、経済・社会政策や教育を通じた差別の解消・公正な社会構築に向けて語る、画期的な論考。

第二章 キャンセルカルチャー――誰が何をキャンセルするのか ロール・ミュラ
2010年代以降、ブラック・ライブズ・マターなど全世界的に繰り広げられる反差別行動と軌を一にして出現した「キャンセルカルチャー」は、抑圧された者が抑圧の歴史を告発し、その象徴となるものを否定する運動である。米国とフランスという二重の視点からの探究を続けるロール・ミュラが、この問題の深淵を問う。

第三章 ゼムールの言語 セシル・アルデュイ
「反移民」を掲げて2022年のフランス大統領選挙に立候補した極右ポピュリストの政治評論家エリック・ゼムールの差別的言説は、なぜ支持を拡大しているのか。メディアはそれをどのように増幅してきたのか。政治言説分析の専門家であるセシル・アルデュイが、ゼムールの言語に潜む暴力と虚構の世界を暴き出す。

第四章 資本の野蛮化 リュディヴィーヌ・バンティニ
金が金を生む資本主義の歴史は、「野蛮化」の歴史である。現代のグローバル資本主義下ではかつてないほどに労働者は買いたたかれ、人の生命と地球環境は酷使され収奪される。本書の最終章では、社会運動の歴史を研究するリュディヴィーヌ・バンティニが、野蛮化・怪物化する資本主義の全貌を露わにし、そこからの解放の道を探る。

第一章のピケティ論文についての感想は上述のとおりなので、以下では、残りの三章について、私の視点から簡単に紹介した上で、私の当初の目的であった「キャンセルカルチャー」を扱った第二章を、あらためて少し詳しく紹介したいと思う。

 ○ ○ ○

第二章の「キャンセルカルチャー――誰が何をキャンセルするの」。この章では、アメリカ発の「キャンセルカルチャー」の意義と問題点が論じられている。しかし、ここで論じられているのは、「個人に対するキャンセル」ではなく、例えば「歴史的人物の銅像の撤去」といった、本来の「キャンセルカルチャー」の問題である。
言うまでもなく、「キャンセルカルチャー」と「キャンセル」とは同傾向の運動ではあるけれども、ここでは原点に立ち戻って「キャンセルカルチャー」の方を問題に絞って論じている。だがまた、ここでの議論は、十分に「キャンセル」問題への転用は可能だ。要は「悪(認定したもの)は廃棄抹消すれば、それで済むのか」という問いである。

この論文が、途中多少わかりにくく感じられるのは、「キャンセルカルチャー」の「功罪」両面が論じられているため、著者が「キャンセルカルチャー」に対してどういう立ち位置なのか、捉えにくいからなのだが、それも最後まで読めば明かになる。
要は「重要な意義を持った運動ではあるが問題も多く、今のままでは済まし得ず、その難点についてどのような解決策を見出せるかが肝要だ」といったものとなっている。

第三章の「ゼムールの言語」は、上の内容紹介にもあるとおり、『「反移民」を掲げて2022年のフランス大統領選挙に立候補した極右ポピュリストの政治評論家エリック・ゼムールの差別的言説は、なぜ支持を拡大しているのか。』を「政治言説分析の専門家」である著者が、分析的に論じたものであり、平たく言うと、とても「文芸評論」的な論文なのである。
その点でとても「面白く読めた」と言っては語弊もあるが、実際、私にはとても面白く読め、この章は、予期せぬ収穫であった。
そこで、ぜムールの著書が翻訳されていないかと検索したところ、新潮新書から『女になりたがる男たち』というタイトルで、2008年に1冊だけ日本語版が刊行されていると判明したので、早速入手した。

2008年といえば、第一次安倍晋三政権と第二次同政権の間に属する時期。あるいは「在特会(在日特権を許さない市民の会)」が設立された2年後で、要は「右派ポピュリズム」の嵐が吹き荒れ始めた時期だと言えるだろう。
のちに新潮社は、杉田水脈自民党代議士(旧安倍派)の「同性愛者などのLGBTは、生産性がない」と論じた論文(2022年)を、ノンフィクション誌『新潮45』に掲載してこれが問題視され、廃刊に至るという経緯をたどるが、2008年にはすでに新潮社が「右派ポピュリズム」に傾いていた事実を、同書の刊行は示しているとも言えるだろう。

第四章の「資本の野蛮化」は、資本主義が「新自由主義」へと発展した結果、ますます「資本」は、人々を豊かにするためのものではなくなり、完全に、一部の者の「際限のない貪欲」を肯定するものとなってしまった。
つまり「資本主義経済」は、「経済効率の追求とは、人道主義とは無関係だ」とする意識を、資本家たちの間に浸透させて、資本家たちを、非人間的な存在へと「野蛮化」してしまった、と論じている。
本来であれば「物理的に豊かになれば、心も豊かになる」はずなのに、実際の「資本主義経済」体制においては、そうはならず、むしろ「経済」に深く関わる人間ほど「野蛮化」してしまうという逆説が生じているのである。
例えば、第2次トランプ政権入りが決まっているらしい、実業家のイーロン・マスクなどは、そのわかりやすい実例なのではないだろうか。

 ○ ○ ○

さて、ここからは第二章「キャンセルカルチャー――誰が何をキャンセルするの」で語られる「キャンセルカルチャー」の問題に絞って論じたい。
この章での著者の主張は、上でその大筋を紹介しているので、以下では、私の目についたところを引用して、それに解説を加えるという形式を採りたいと思う。

『 とりわけフランスでは、キャンセルカルチャーは検閲や表現の自由の終焉、さらにひどい場合にはフランス社会の米国化などとすぐに結びつけられる。この語が英語のまま表記される点は、この新しいこけおどしが米国起源(つまり、外来の、清教徒的、モラリスト的なもの)であることを念頭に置く必要性を、十分に物語っている。昨日までポリティカリー・コレクトジェンダー議論に脅かされていたフランスは、今やキャンセルカルチャーの脅威に晒されている。最近この問題について質問された、非常にフランスびいきのジョディ・フォスターは、『テレラマ』誌にこう答えている。(※ 次の引用部を〈〉で括った)

〈フランス人は、このことにとてもこだわっている印象です。このテーマについては、慎重になったほうがよいと思います。なぜなら、私たちのところでは、キャンセルカルチャーに対する憤慨は、最悪の保守主義、右派の中の右派に転化しつつあるからです。私にとってこの実践は、明らかな不正を事後的に修復することを目的としたものです。実用的な実践なのです。〉

 「明らかな不正を事後的に修復する」。この論争の争点を、これ以上的確にまとめることは難しい。この提言の一語一語に、争点が凝縮されている。誰もが「修復」の必要性を感じているわけではない(なぜ?どうやって?)。ましてや、「明らか」であると判断された「不正」は(どのような基準で?)、一部の人々によってさらに「事後的」に単なる歴史の偶然や運命であるとみなされ、誤解を招く遡及裁判の行使に道を開いている。』(P64〜65)

要は、今の日本がそうであるように、フランスにおいても、「キャンセルカルチャー」に対して『検閲や表現の自由の終焉』といったことが心配されている(つまり「物言えば唇寒し」の状況が広がっているのではないかという懸念)、あるいは、その際にアメリカのような「(知的に単純で)極端な倫理観」が広がっているのではないかという不安が広がっている、という点を押さえておく必要がある、ということだ(ちなみに、フランスはカトリック国で、アメリカはプロテスタント国)。『昨日まで(※ アメリカ発の)ポリティカリー・コレクトとジェンダー議論に脅かされていたフランスは、今やキャンセルカルチャーの脅威に晒されている。』と、そうした不安にさらされている人が少なくないと、著者は説明した上で、アメリカの女優であるジョディ・フォスターの言葉を引用している。

そして、そこでジョディは至極シンプルに、フランスの人たちに「落ち着いて、慎重にいきしょう」と呼びかけている。
ジョディは『私たちのところ』アメリカでは、「キャンセルカルチャー」の進め方の無理が災いして、それが『最悪の保守主義、右派の中の右派(※ を惹起する事態)に転化しつつある』とする(ドナルド・トランプのことだろう)。もちろん、これは好ましくない社会の変化だから、フランスはその同じ轍を踏むべきではない、と助言しているのだ。
「キャンセルカルチャー」とは、本来『明らかな不正を事後的に修復することを目的としたもの』に過ぎず、世の中を完全に変えてしまうようなことを目的としたものではないのだから、熱狂的な急進主義ではなく、慎重さが必要だと、そう言っているのである。

だが、この的確な「助言」を受けて著者は、しかし『誰もが「修復」の必要性を感じているわけではない(なぜ?どうやって?)。ましてや、「明らか」であると判断された「不正」は(どのような基準で?)、一部の人々によってさらに「事後的」に単なる歴史の偶然や運命であるとみなされ、誤解を招く遡及裁判の行使に道を開いている。』という「難問」を、どう考えるべきなのかと、本論考における課題を、ここで示しているのである。

この部分で、私が特に重要だと思うのは、「キャンセルカルチャー」を進める人が感じている『明かな不正』を、そうと感じていない人たちに対して、どう納得させうるのか、という問題である。
言い換えれば、立場が逆転して、自分が「全く問題がない」と感じていることについて「明かな不正」だと感じる人たちが出てきて、それを「キャンセル」しようとした時、それへどう対応するのが正しいのか、といった問題でもあるわけだ。一一要は、自分視点だけの「独善」では、党派主義的な過激な潰し合いにしかならず、それでは「望ましい未来は望めない」ということである。

だから、「キャンセルカルチャー」を進める方も、それに批判攻撃されている方も、共に「慎重に冷静」になる必要があるのだ。
そしてこれは、私自身が、いくつかのレビューで主張した「漸進主義」と、完全に一致するものだと考える。

『 ここに反省すべき点があるかもしれない。今日、モニュメントが持つ意味は何だろうか。擬人化されたモニュメント性の意味とは何か。ヒエラルキー、階層、崇拝が意味するところは何か。歴史が「英雄」たちの姿を取り去って久しいとき、歴史が階級、集団、ジャンル、風景、気候、文化、精神性、自我あるいはミクロヒストリーを考察してきたとき、歴史が国際的、世界的、グローバルになってきたときが、新しい歴史家や歴史の関心を公共空間に反映すべきときではないか。偉人崇拝や勝利した白人という義務的な形象にとどまるのではなく、もっと想像力をもってして、二一世紀に臨むべきではないか。そして、そうすることで、弁証法的な感覚を甦らせることができるのではないだろうか。
 一九五一年に発表された論文「歴史の責任(Les Responsabilites de I Histoire)」の中で、フェルナン・ブローデルは、「歴史が典型的な英雄の役割に恣意的に還元される」ことを嘆き、こう問うた。「新しい世界一一なぜ、新しい歴史はないのか」。新しい世界へ急ごうとするフランス革命は、この大きな問いに、当時としては壮大な発明で答えを出したと言えよう。一七九三年、ルーヴルに共和国中央芸術博物館が設立され、その二年後にはフランス記念物博物館が併設された。国家によるヴァンダリズム、略奪、王家のコレクションや聖職者、移民の財産の差し押さえは、それ以後、ミュージアムの制度化によって姿を変え、「一般公開される作品のコレクション」という近代的な定義を見出し、それによって、消滅の危機にある国家の記憶を救出することができたのである。
 現代のイコノクラスト(※ 聖像破壊)の波から必然的に生じる問題は、革命におけるミュージアムと同等のラディカルさを持ちながら、二一世紀のグローバル化した世界に特有の、高まる不安や要求に応えるために、どのような提案を想起できるのか、という点にある。これまでのさまざまな取り組みから判断する限り、答えはまだ出ていない。二〇二二年六月一六日、マティニョン協定を締結したジャン=マリー・チバウとジャック・ラフルールの握手を表す高さ二・五メートルの像は、「平和広場」と改名された広場の中央で、一八七八年にカナック族の首長アタイの率いる血なまぐさい反乱を鎮圧した、ニューカレドニア州知事のオルリー司令官の像に取り換えられる予定である。この取り組みがいかに評価できるものであっても、問題の本質は変わらないのではないだろうか。これは、一九世紀と同じ表象システム(英雄化、記念碑化、最も公式なテイストで演出された偉人たちなど)を尊重しており、植民地支配の称賛という問題を解決してはいない(オルリーの像は博物館の庭園に移動される予定である)。
 一般的な(入植者から独立派、白人から黒人、男性から女性といった)置き換えや混交の理論は、その伝記が必然的に影の部分を含む個々人へのオマージュと同様に、その素朴さにおいて、疑問視されるべきものである。有名な前例がある。一七九四年に行われた盛大な式典では、「鉄の戸棚」からルイ一六世との密約を示す書類が発見された、祀られたばかりのミラボーをパンテオンから追放し、代わって「民来の友」マラーを正面玄関から迎え入れたのだ。二〇二〇年には、ゲイ活動家でありながら小児性愛を推進し、強姦罪に反対したギィー・オッカンガムを称える、パリー四区のプレザンス通り四五番地に掲げられた記念プレートを急遽撤去せねばならず、パリ市役所はその費用負担を余儀なくされた。』(P74〜76)

ここで紹介されているのは、アメリカのリー将軍の銅像」撤去と同じく、ある歴史の一断面において「英雄化」された人物の偶像というものは、それが同時代においてはどんなに「非の打ちどころのない人物」だと思われていようと、その評価軸がグローバルに多角化して、多様な価値観から検討されるようになれば、「誰もが納得する、神の如き人物」にしておくことはできず、別の評価軸に立つ人たちからの「妥当な批判」は免れない、ということだ。

しかしまた、これが意味するのは、「今となっては問題がある偶像であっても、設立当時の人たちにとっては妥当性を持っていた」ということでもある。
だからこそ、単に「今の判断基準に合わない」から「廃棄抹消する」というのでは、それは「新しい価値観」を奉ずる人たちの「自己絶対化の愚行」だも言えるだろう。つまり、自分のことが見えていない。
さらに今より後の世の人たちにとっては「今は新しい価値観」も、「古い価値観」でしかなくなって、いま以前の「もっと古い価値観」に「似たり寄ったりだ」とか「どっちもどっち」だということにだってなりかねないというのが、見えていないということなのである。だが、少なくともその可能性にくらい配慮できるのが、知的な客観性であり謙虚さというものではないだろうか。

だから、現在の「キャンセルカルチャー」による「イコノクラスト(聖像破壊)」が「ヴァンダリズム(野蛮な破壊主義)」であってはならない。

(16世紀の宗教改革時に起こった聖像破壊運動によって顔面を破壊された教会の彫刻)
2001年、タリバンによって破壊された、バーミアンの石仏。その前と後)

「キャンセルカルチャー」などよりはるかにラディカルであった「フランス革命」においてすら、「歴史(記憶)の更新」という難問に対し、その一つの解決策として「博物館(への収蔵)」というシステムを編み出した。
「誤った歴史記憶」とされるものを消去抹消するのではなく、「誤ったとされる歴史認識」自体を「歴史化」する装置だ。「消去抹消」するのではなく、「枠付けして遺す」ことで、「かつては、この人物が神のごとき存在として英雄視されたのだ」と示し、そのことで、そうした「評価認識」の妥当性を、後の世の人たちまで含めた、見る者の判断に委ねたのである。

だから、現代の私たちにも、多少とも「歴史的な知恵」があるというのであれば、フランス革命における「博物館」システムの発明に匹敵する、「歴史の更新」問題に対処する装置を提案する必要がある。
単に「あれは間違っていたから、廃棄すれば良いのだ」などというのは、あまりにも感情的であり野蛮であろう。文字どおりの「向こう見ず」である。

しかしながら、今の「キャンセルカルチャー」においては、そうした「適切な提案」がいまだ見出されてはおらず、現在進行形の課題として残されたままなのである。

もちろん、こうした問題について「適切な対応」を考えようとしている人がいないというわけではない。この論文の著者は、そうした実例を、次のような具合に紹介している。

『 近年の一連の像の毀損より前から、破壊行為と植民地時代の過去との関係について考察しているアーティストたちもいる。例えば(略)。
 その他にも、多かれ少なかれ空想的な提案がなされてきた。例えば(略)。しかし、これらはどれも、この動きがまだ黎明期であることを示すものばかりである。

 植民地主義のカリカチュア(※ 誇張歪曲単純化された描像)が、公の場で許容されなくなり、この現象が国家によって考慮されるようになった一方で、反奴隷制度主義者、反ナチ、奴隷解放の推進者など、以前は議論を免れていた人々が、今では物議をかもしている。このような、逆もまた然りといったボーダーラインの例が増えていることに対して、私たちは何を語ることができるだろうか。それは、過度な批評に巻き込まれた、キャンセルカルチャーの行き過ぎた兆候なのか、それとも避けられない歴史的再評価の論理的な帰結なのだろうか。これを考えるには、以下の三つの事例で充分であろう。』(P78〜79)

『反奴隷制度主義者、反ナチ、奴隷解放の推進者など、以前は議論を免れていた人々が、今では物議をかもしている。』というのは、要はそうした側面においては「立派な行いをした人」だと考えられてきた人たちさえも、その言動が公私にわたって詳細に検討されるようになれば、神ならぬ身である以上、いろいろとボロも出てくるというわけである。
例えば、「外では立派な人だったが、家のなかでは暴君だった男性」とか、「女性の権利のために闘うフェミニストを自称していながら、その一方では、その権威的な肩書きのおいて、口封じのネットリンチを扇動していたインフルエンサー」とかである。
一一例えば、現在私が批判している、「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストの北村紗衣なども、そうした「再評価」を免れ得なくなってきているのだ。

ともあれ、先の引用文の中で示された、「アーティストたちの提案」や「以下の三つの事例」については個々に本書に当たってもらうとして、本論考著者の結論としては、当然のことながら「いずれも満足な解決策の提示にはなっていない」ということになる。

しかしまた、だからと言って「それも仕方がない」で済まされることではないのは明かだからこそ、この論文の結語は次のようになっているのだ。

『 この議論を煽り、公式な歴史に疑問を呈し、その否定と修正をし続け、ヒエラルキーに挑み、昨日と今日は何からできているのかを理解するため、より明晰になるよう駆りたてることは、少なくとも、キャンセルカルチャーの功績ではないのである。』(P87)

そう、歴史の再検証という「真摯な知的営為」は、「報復心」を煽られたが如き「キャンセルカルチャー」の「功績」でなど、あり得ないのだ。

現代の私たちは、「フランス革命」時の知識人たちよりも、むしろ退化して「感情的」になり、「野蛮化」してさえいるとも言えるだろう。
そして、このことの背景として、「資本主義経済の貪欲(新自由主義的な価値観=価値の独占=自分さえ良ければいい)」という、きわめて現代的な「差別的価値観」と決して無縁ではないと、私にはそう感じられるのである。


(2025年1月11日)


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○






















 ○ ○ ○






(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


 ● ● ●

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集