飛浩隆 『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』 : 〈ムラ宇宙〉からの脱出速度は?
書評:飛浩隆『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』(河出文庫)
飛浩隆は、若くして作家デビューしたものの、自身の個性を踏まえて、専業作家にはならず、勤め人をしながら、その傍らマイペースで作品を執筆発表してきた「日曜作家」である。しかしその彼も、一昨年の定年退職で、晴れて「専業作家」となった。
年齢のこともあるので、急に執筆ペースが上がるということもないだろうが、今後の一層の活躍が期待されるところであるから、私は期待している。している(繰り返し)。
なお、飛が定年退職した「職業」とは、本書所収のエッセイ「マザーボードへの手紙」に『私はこの三十年のあいだ、小説を書くかたわら、貧困や障がい福祉、精神保健の分野に携わる仕事をしてもきました。』(P294)とあるとおりであった。
さて、本書は、2018年に刊行された『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』のうち、非フィクションの第二部と第三部をベースに、親本にはなかった文章を加えた、オリジナル文庫版である。
したがって、本書のタイトル『SFにさよならをいう方法』というのは、今回新たにつけたれたものであり、同タイトルの収録作があるというわけではなく、著者も「あとがき」にあたる「ノート」の冒頭で、
と、少々おどけ気味に書いているとおりだ。
しかし、当然のことながら、作者のこのような言葉を真に受けるようでは、読書家を名乗る資格はないだろう。
作者が『SFにさよならをいう方法』などという、いささか挑発的なタイトルを、あえてつけた以上、当然そこには、明確か否かは別にして、何らかの「意図」はあったに違いない。
だから、作者がその意図を明確に「語れない」あるいは「語ろうとしない」のであれば、それを読み解くことこそが、作者から読者に与えられて「使命」でもあれば、「挑戦状」だとも言えるだろう。
作者から手袋を投げつけられながら、それに気づかないというのでは、あまりにも間抜けではないか。
当然、目の開いた読者であれば、この挑戦を堂々と受けて立ち、むしろ返り討ちにすべきであろう。SFファンの多くは「開きメクラ」なのだと作者が舐めていようと、「俺は、そんな奴らとは一味違うぜ」というところを見せるのが、「読める読者」の矜持というものなのだ。
しかしまた、その「読み」とは、単に「作者が、読者の目を惹くために、あえて挑発的に逆説的なタイトルを考案したのだろう」なんていった「マーケティング」レベルの回答では、つまらない。
飛浩隆の読者なのであれば、「作中人物」として恥じない「読み」の世界を開くべきなのだ。仮に、作者が「マーケティング」レベルのことしか考えていなかったとしても、私たちは、そんな作者の無意識にまでサイコ・ダイブして、その無自覚な欲望とその意志を、無理やりにでもサルベージして見せるべきなのである。
(名曲「さよなら人類」を歌ったバンド「たま」)
よって、このレビューは、飛浩隆自身が自覚しないところまで読み解くものとなり、場合によっては、飛にとって不本意な「読み」となるかもしれないが、そこは進んで「テキスト」を公開し、まな板の上に乗った魚として、覚悟していただくしかないだろう。私は、飛浩隆の中に秘められた「SFにさよならをいう方法」を、出刃包丁を使ってでもサルベージ(腑分け)するのである。したがって、これは「でっち上げ」などではない。
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さて、脅しはこれくらいにして「読み」に移ろう。
本書には、心から共感できる意見を、いくつも見いだすことができる。
それは、飛浩隆という作家の個性や思考形式が、基本的に私の趣味と合致しているからで、その「小説作法」において同じような「文学観」を持つのも、ごく自然なことだと思う。
しかしながら、私は「小説」が書けない人間だし、本書は「評論随筆集」ということなので、ここでは「批評家としての飛浩隆」について考えてみたい。
まず、飛浩隆という人は、じつに真っ当な「大人」である。ダテに、世間に揉まれながら「職業人」として定年まで勤め上げたわけではないようだ。
飛の言葉は、きわめて率直でまっすぐなものが多く、つまらない「職業作家的レトリック」に逃げるようなことはしていないようである(樋口くん、読んでるか?)。
いきなり、本質的な問題に踏み込んできたが、この文章は「2012年」発表のものである。
「バブル崩壊」後の長い長いデフレが続く中で、私たちはその出口に到達できるという希望を見出せないまま、経済的な「中流」の没落によって、一部の金持ちと多くの貧乏人に二分される格差社会の到来に直面し、おのずと「憤り」や「妬み」を抱え込むことになった。
飛がここで言及しているのは、人気お笑い芸人の親が「生活保護」を受けていたということに対して、経済的に親の面倒を見ていなかった、息子であるお笑い芸人が、世間からの手酷いバッシングを受けたという事件である。
言うまでもないことだが、親から独立して別世帯を持った子供が、親の経済的面倒を見なければならない「義務」などない。親は親、成人した子供は子供でなのである。
無論、お互いに助け合うことが望ましいのは言うまでもないことだが、「望ましい」こととは、すなわち「理想」であって、「義務」ではない。見知らぬ「あかの他人」でも、困っている人がいれば助けてあげるのが「望ましい」のは言うまでもないが、それは「義務」ではないので、多くの人は、そこまではしないだろう。私だってしない。そんなことを個人的にしていたらきりがないので、どこで線引きするかは、個々が個人的な事情を自分なりに勘案して、自分で決めるしかないことであり、何の責任も負う気のない「あかの他人」が、とやかく言うことではないのである。
したがって、このお笑い芸人の件だって、同じなのだ。
この芸人さんを責めた人たちが、では、この芸人さんに代わって、その「可哀想な親」の面倒を見てやるのかといえば、無論そんなことは考えてもみなかったはずだ。要は、その程度の人たちなのである。
それに、私たちは、ダテに「税金」を払っているわけではない。いろんな理由で食い詰めれば、最後は「国」が国民を救うと言うのは、それこそ「義務」であり「使命」なのだ。つまり「生活保護」は、「国」の義務なのであって、それが出来ていないのなら、責められるべきは、子供である芸人さんではなく、「保護責任者」である「国」の方なのである。
だが、なぜ「国」ではなく、「息子であるお笑い芸人」が責められたのかと言えば、「彼が、人気芸人であり、金儲けをしているだろう」ということで「妬まれた」からだ。想像力貧困な人には、到底「国」は「妬み」の対象にはならないのだ。
つまり、彼の芸人さんを「責めた」人たちは、「親孝行的な人間倫理」において彼を責めたつもりなのだろうが、じつのところそれは、貧乏人の「妬み」でしかなかったのである。だから、飛浩隆はここで『貧すりゃ鈍すとはこういうことかとしみじみ理解した。』と書いていたのだ。
(大友克洋『さよならにっぽん』)
そんなわけで「金持ち」や「有名人」というのは、庶民から妬まれがちだ。
しかし、それは彼らが、その「カネ」や「有名性」を得るに値する「仕事=社会貢献」をしていない、と思われているからでもあろう。相応の努力が認められているのであれば、妬まれることもないだろうからである。
無論、その無知ゆえに、他人の「努力」を知らず、盲滅法に「妬む」ような馬鹿も多いが、そういう馬鹿は適切に反批判されて泣きを見させるべきであり、ここではそういう低レベルの人間は問題にしない。
問題なのは、批判されてしかるべき「汚い金持ち」や「汚い有名人」の方であり、私たちは、そういう輩を適切に「批判」しなければならない。批判するべき相手を間違えることによって、「批判すること」それ自体が間違いだと勘違いされるような状況を惹起すべきではないのである。
しかし、適切な「批評」「批判」というものは、そう簡単なものではない。
具体的に言えば、「批評」「批判」に当たっての「最低限のマナー」とは、反論に対する応答責任を果たすという「フェアプレイ精神」で、これがなくては話にならない。「斬れば、斬り返される。その覚悟で斬れ」ということだ。
だから、「匿名の陰に隠れて」批判したり、「公場対決」を挑まれた途端に逃げ出すとか、「そんなつもりはなかった」などという泣き言を言うような輩は許してはならない。そういう輩こそ、「見せしめ」にでも、斬り殺さなければならないのである。
全く同感である。
「世界は、私の頭の中にしかない」というのは、一面の「科学的事実」ではあるのだが、それは「一面の事実」でしかない。例えば、私が飛浩隆をいきなり殴って「これは、あなたの頭の中でのことだ。したがって、殴られたと思っているのは、あなたの主観であって、私には関係のない話だ」では済まない。「済ませられるものなら、済ませてみろ」って、わけだ。
私は、荒巻義雄の「時計台ギャラリー」で絵を買ったこともあるけれど、これも「脳内現象」ではなく、代金は、ちゃんと荒巻さんのところにも入ったはずである。
ことほど左様に、私は、わかりやすく親切な「他者」なのであるから、感謝して欲しいくらいなのだ。
そうなのだ。
残念ながら、人間というものは、すぐに「ムラの論理」に染まってしまうもので、それが当たり前になって「ムラの論理」が見えなくなってしまう。それが、自身の可能性を限界づける「柵」になっていても、そこまで行ったら、無意識に「回れ右をして帰ってくる」自分を、まったく認識できないようになってしまうのである。
だから、私たちは意識して「ムラの境界」を侵犯し、大いに顰蹙を買いつつ、ムラに貢献しなければならない。
いとうせいこうの『解体屋外伝』風に言えば「アンジノソトニデロ…オレタチニハミライガアル」というわけで、私は「デプログラマー(解錠屋)」なのである。
私はよく「厳しい批判論文」を書くから、昔は「そんな言い方をしなくても」とか「もっと穏便に書けないか」というような助言をしてくれる人もいた。しかし、その人は、まったく分かっていない。
要は「あんたみたいな鈍感な人が多いから、ここまで書かなければならないのだ。ここまで書いても、まだあんたは、この批判が、あなた自身のことだと分かっていないようだが」ということなのである。
まったく、同感である。
だから、私は子供を作らなかった。結婚はしなくても、子供なら欲しいような気もするが、この先の世界を考えれば、無責任に子供など作れるものではない。
世間では、まともに子供を育てられない馬鹿夫婦が、セックスばかりしては、子供をポコポコ作っていたりするが、子供にとっては良い迷惑。「親ガチャ」という言葉が流行るのも当然である。
私に言わせれば「ボーッと子供を作ってんじゃねえよ!」ってことになるが、それでも作ってしまったのであれば、せめて自分個人の生活努力とともに、今の日本の政治について、さらには地球の未来についても、責任を持って行動する義務があると思う。なにより自分の子供の未来のためにだ。
これは、要は「未来の自分への手紙」ということであろう。しかし、問題はそんなことではない。
なぜなら、飛浩隆はすでに「変節」しているからで、それを「今」問わずして、「未来」に先送りしているのでは、そんなものはクソの役にも立たない、保身のための「アリバイ工作」にしかないからである。
例えば、こないだ私がぶっ叩いた、樋口恭介の『異常論文』の問題であるとか、「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」なんかも、飛浩隆は、比較的、樋口に近い「大森望グループ」の一人(みたいなもん)なんだから、公に一言あっても良いのではないか?
身近な問題になると、いきなり口を噤むというのであれば、批評なんか辞めちまえ、ということにしかならない。
無論、実際問題として色々あるだろうが、作家というのは、書いてナンボなのだ。
どうせ「SFにさよなら」する気などないのだから、せめて、どうなったら嫌でも「SFにさよなら」しなければならないのか、その時にはどうするのか、そのくらいのことを「書いておく」べきではないか。そしてそれこそが「SFにさよならをいう方法」なのだ。SFという「見えない柵」を乗り越えていく方法なのである。
(小松左京原作の映画『さよならジュピター』)
本書の「解説」で、東浩紀が、次のように書いている。
まさに、そのとおり。
「批評家」は、柵をぶち壊して(いや、可能なら解錠しよう)、世界を開くのが、その使命なのである。
そんなわけで、最後に、茨木のり子の有名な詩「自分の感受性ぐらい」からの引用を、期待すべき「専業作家」である飛浩隆に贈りたいと思う。
(2021年12月27日)
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