白井智之 『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』 : 「宗教という特殊設定」の 現実的普遍性
書評:白井智之『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』(新潮社)
昨年(2022年)度の「本格ミステリ」を代表する作品の一つである。
恒例の「ベスト投票」の結果は、次のとおり(いずれも国内作品のランキング)。
著者の作品を読むのは、2015年の第2長編『東京結合人間』以来の2冊目で、ずいぶんひさしぶり。言い換えれば、この第2長編は、さほど高く評価できなかったということになる。
本書著者の、初期の特徴は、端的に言えば「ゲテモノ(悪趣味)本格ミステリ」。
ちなみに、第3長編のタイトルは『おやすみ人面瘡』(2016年)、第4長編は『少女を殺す100の方法』(2018年)、第5長編は『お前の彼女は二階で茹で死に』(2018年)というのだから、その「悪趣味」ぶりを容易にご理解いただけよう。
だが、私は、その「悪趣味」を責めているのではない。
そもそも、「本格ミステリ」というものは、基本的には、殺人事件などを「ゲーム化」して楽しむ文学なのだから、その意味で「悪趣味」というのはもとからの話。本作著者は、それをいささか露悪的なまでに極端化したにすぎないとも言えよう。
また、私自身「極端なもの」が好きだからこそ、先に引用した「綾辻行人の推薦」に釣られて、第2作『東京連結人間』を読んだのである。
さて、この『東京連結人間』の内容はほとんど忘れてしまったが、たしかこの作品は、海外のカルトホラー映画として話題になった『ムカデ人間』(2010年・トム・シックス監督)の影響を受けた作品だったように記憶する。
私は、この『ムカデ人間』の方は観ていないのだが、要は、マッドサイエンティストが、人間の尻と口をどんどんつないでいって、「ムカデ人間」を作るというお話だ。
尾籠な話になって恐縮だが、要は「四つん這いになった人間の肛門と口唇が縫い合わされ、生きたまま縦にどんどん繋いでいき、前の人間の排泄物を後の人間が食べることで、一匹のムカデのごとき、異形の多足生物を作る」という、そんなお話である。
無論、そんなものを作ったって、生き続けることなどできるわけがないのだが、なにしろそれをやるのは「マッドサイエンティスト」なんだから、そこに現実性を求めても仕方がない。このなんとも「悪趣味な妄想ファンタジー」を、面白いと思えるような人が観るための映画であったようだ。
で、肝心の『東京連結人間』の方はどうなのかというと、たしか「ムカデ人間」ほど極端な「連結」ではなかったし、「スカトロ」要素は無かったと記憶するが、要は「奇形(フリーク)趣味」を生かした「特殊設定」によって、初めて成立する「本格ミステリ」作品であったはずだ。
そして、結論はと言えば、単なる「ゲテモノ小説」ではないから、その点では「不徹底」であり、「特殊設定ミステリ」の「意外性」としては「まあまあ」という感じで、タイトルや設定のインパクトの割には、作品自体には、特別に「突き抜けたところがなかった」ため、ほとんど印象に残らず、同じ作者の作品を続けて読もうとも思わなかった、ということであったと思う。
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さて、今作『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』(以下『人民教会殺人事件』と略記)は、ひさしぶりに際立って評判の高い作品だったし、しかも、どうやら初期の「鬼畜系=ゲテモノ=悪趣味」を薄めて、普通の人でも安心して読める、オーソドックスな「本格ミステリ」に仕上げられた作品、らしい。
言い換えれば、自分の「個性」を抑えて、それでも、これほどの高評価を得たのだから、「本格ミステリ」として「よほど良く出来ているのだろう」と思ったので、ひさしぶりに読んでみることにしたのである。一一そしてその結果は、どうであったか?
本作の帯には、次のような惹句が踊っている。
良くも悪くも「この通りの内容」である。
良く言えば「てんこ盛り」、悪く言えば「物量作戦」。
つまり、いろいろやってくれていて、その意味ではサービス満点の作品なのだが、「本格ミステリ」を読み慣れている者にとっては、個々のネタにはあまり「新味」が感じられないし、このパターンには慣れているから、特にどうということもない。
四転五転する作品だが、物語半ばで語られる推理は、当然のことながら、後でひっくり返される「前座推理」でしかなく、その出来も悪くはないが、特にどうということもないという程度に止まるものでしかない。
つまり、正直なところ、ミステリマニアにとっては、『畳みかけるどんでん返し』とか『多重解決』なんてものは「もういらない」から、「最後に一発、前例のないかたちでの、大どんでん返しをやって、驚かせてくれよ」という感じになるのだが、四転五転するような作品では、おのずとそこまでの「最後の大どんでん返し」も不可能で、「頑張って作った力作だなあ」とは思っても、「すれっからし」には、これで驚いたり、感動したりは出来ない作品なのだ。
言うなれば、本作は「本格ミステリ中級者以下」向けの作品であったと言えよう。
また、念のため付け加えておくならば、もちろん本作は、「文学」としてどうこういうような作品ではなく、後半での「泣かせ」で感動できる人は、きわめてナイーブな若者に限定されるだろう。
本作は、「本格ミステリ」として、以上のような作品である。
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ミステリとしての評価を済ませた上で、以下に私が書きたいのは、本作で扱われる「宗教(信仰)の論理」というものについてである。
さらに言うなら、レビュータイトルの「「宗教という特殊設定」の現実的普遍性」という、いささかねじれた問題についてだ。
本作における「特殊条件(状況)」とは、要は「信仰の論理」であり、本作のポイントとは「それが支配する特殊世界」でしか成立し得ない「犯罪」であり「推理」の面白さである。
例えば、日本における「特殊状況ミステリ」の始祖的傑作である、山口雅也の『生ける屍の死』では「死者が蘇る世界」での「殺人の意味」が問われたが、本作では、「人民寺院」をモデルにした「人民教会」の教祖が引き起こす「奇跡の治癒」を信じる人たちの世界でのみ起こりうる「犯罪」が描かれている。
したがって、この「設定」を聞いただけで、古参のマニアだと、本作の基本的な方向性はおおよそ見当がついてしまい、具体的にどのような推理が展開されるのかまでを予測することは出来ないまでも、推理を聞かされれば「なるほどね」というくらいの印象しかなく、「意表を突かれて感動」とまではいかない。
設定の範囲内で、「良く考えられているな」とは思うものの、最初から「意外性」は期待し得ない「状況設定」だということである。
だから、本作では、単に「宗教の論理って、トチ狂っているよね」というに止めず、いちおう「しかし、こういう歪んだロジックというは、実のところ、ごく一般的なものであり、それが多くの人に該当するものであるにも関わらず、たいがいはその自覚を持たれていない(から、少しは我が事として考えるべきであろう)」というところまでは、いちおう語られている。
そのくらいにことは物語っておかないと、天城一の傑作短編「高天原の犯罪」を引き合いに出すまでもなく、新味のない「本格ミステリ長編」として、あまりにも陳腐だからだ。
しかし、そこまでやってもまだ、本作で語られたようなこと「正論」は、私のようにリアルで「宗教批判」をやってきたような人間には、なんとも通り一遍で、生ぬるいものとしか感じられない。この程度では、「文学」としての「主張」や「テーマ」にまではなり得ていない、としか評価できないのだ。
そもそも「作者自身が、自分のそれ(信仰)をどの程度、意識化できているの?」と、そう問い返したい程度のものでしかなかったのである。
だから、この問題について、もう少し「リアル」に考えてもらえるための事例を、ここで紹介することをお許し願いたい。
本作中にも、私が心から共感し得た言葉が、いくつかはあった。いずれも作中人物の言葉だ。
この二つの言葉が示すのは、「信仰の論理」に支配されている「信仰者」たちだとはいっても、そのさらに根底には、人間的な「自己正当化の論理」が働いている、ということだ。
つまり、「信仰者」は、「一般人=非信仰者」とは「違った価値観」を持っている(信奉している)とは言っても、「自分は正しい道を選んで、それを生きてきた」と考えたい点、そして、それが「間違っていた」と気づきかけても、それを素直に反省して「軌道修正する」のではなく、無理な言い訳を重ね(自己正当化の論理を捏造し)、自己の現状をそのまま肯定しようと(観念的自己回復)しがちだという点では、普通の人間とまったく「何も変わらない」ということである。
彼らも、決して「神の前に従順な(無私な)私」などではありえない場合が、ほとんどなのだ。
それに、「一般人=非信仰者」と言っても、人それぞれに「信奉している価値(偶像)」があって、例えばそれは、「正義」であったり「カネ」であったり「家族」であったり「国家」であったり「名声」であったりするわけで、決して「無色透明で中立的な存在」などではない。
「カネ」のためなら、「正義」は無論、「家族」も「国家」も「名声」も犠牲にできる人など、いくらでもいる。また「正義」のためなら、「名声」は無論、「家族」や「国家」を犠牲にできる人もいる。あるいは、「名声」に固執して、「家族」も「カネ」も「地位」だって捨てられる人もいる。
キリスト教では、「拝金主義者」を「マモンの神に仕える者」と呼んで批難するのだが、ここで言う「マモンの神」とは、要は「カネ」のことであり、その意味では、資本主義社会の中で、成り上がろうとする人間とは、多かれ少なかれ、悪しき「マモンの神の崇拝者(偶像崇拝者)」だということになるわけだ。
そんなわけで、どんなものを自身の「神(中心的価値)」として崇拝するかの違いはあっても、すべての人間は「なんらかの価値観」を「崇拝」しており、それに固執して生きていると、そう言っても過言ではない。
そして、誰しも「わが神」が最も尊いと言い張って、他の神と比較検討してみる労さえ惜しむのだ。
いわく「最も大切なのは、もちろん正義だ」「いや、家族だ」「最後は、カネだろう」「私が欲しいのは、人のうらやむ名声(社会的承認)だ」と言った具合である。
実際、今のネット社会では「承認欲求」が、かつてなく広範に肥大しており、誰も彼もが「人から注目されたい」「イイねが欲しい」「より多くの人に好かれよう」と必死になっているというのは、もはや周知の事実であろう。一一つまり、君や貴方も「名声という名の神の信者」だということである。
したがって、「宗教信仰者」だけが、何も「信仰者」なのではない。
すべての人が、ある意味では「信仰者」であり、そこで問われるべきは、「信仰者か否か」ではなく、「何を信仰しているか」「どのように信仰しているか」といった「その中身や姿勢」なのだ。
だから、前述のように、「宗教の論理って、トチ狂っているよね」などと、他人事のように言っている人というのは、自分の「信仰」がまったく見えていない、あまり頭の良くない人と言うべきだし、本作でいちおう語られた「しかし、こういう歪んだロジックというは、実のところ、ごく一般的なものであり、それが多くの人に該当するものであるにも関わらず、たいがいはその自覚を持たれていない(から、少しは我が事として考えるべきであろう)」といった議論も、たしかに「正論」ではあるけれども、言うなれば「当たり前の話」でしかない、ということになるのである。
だが、繰り返すが、このことに気づいている人は、きわめて少ない。
例えば、カトリック神父の書いた本についてのレビューで、私が著者の「浅薄な独りよがり」を批判した際、「キリスト教プロテスタント神学者の卵」を名乗る方が、同記事のコメント欄にコメントを寄せてくれ、少々やりとりをしたことがある。
この人は、「自己紹介」文として次のように書いており、言うなれば、非常に優秀で、将来は「神学者として本でも書こうかというような人」だと言えるだろう。
この人個人を批判する気はないから、ここでは名前は伏せておくが、下に「やりとりの全文」をそのまま紹介しておこう。
以上のやりとりの意味するところを、解説しよう。
(A)で「神学生」氏が言っているのは、私が批判したカトリックの神父さんが「浅はか」に見えるのは、「同信者」の内輪だけで物事を考えているから(内輪の論理=ムラの論理だから)であり、プロテスタントにもそのような反省点はあったけれども、少なくとも今のプロテスタントには、そして自分には、外に開かれていなければならない、苦しくとも「学問的な客観性」を持たなければならない、という意識はある。いずれにしろ、そのカトリック神父さん個人の資質に還元するのではなく、キリスト教(信徒)全般の問題と考えるべきだ。一一と、そういう趣旨のことである。
なぜ「神学生」氏が「こういう書き方」をしたのかというと、カトリックというのは「正統教会の権威」にあぐらをかいて、「反近代」的なスタンスを長らく捨てられないでいる「教派」であり、だから、神父にもそういう「独りよがり」な「浅はか」さに止まっている人も多いかもしれないが、その点、プロテスタントは「啓蒙主義」や「科学的進歩主義」という「(信仰の)外部」にも開かれてきた歴史があり、だからこそ「聖書学」などをはじめとした「キリスト教神学」を「学問」として発展させてきたという歴史的実績がある。
したがって、いちカトリック神父の「狭隘さ」を見て、まるごと「だからキリスト教は」なんて思われたくないし、思わないで欲しいと、「本音」としては、そういうことだ。
(B)では、私は、しかし、かのカトリック神父が「独りよがり」で「浅はか」なのは、「反近代」や「反科学」を標榜したカトリック特有のものだということではなく、単に「キリスト教の小さな世界」の中で「先生」になってしまっているからにすぎない、という「常識的」反論である。
言い換えれば、そこに、カトリックもプロテスタントもない、「人間的な問題」であると。
現に、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、その「タコツボ」の中で「地位や名声」を得る(特別扱いされる=社会的承認を得る)ことで、わかりやすく「先生=天狗」になってしまうと、仮に「(内心では)教義に疑問を覚えた」としても、キリスト教内部で、それまでに得た「地位や名誉」や「人間関係」を捨てる勇気の持てる人なんか、ほぼいないだろう。
それは「貴方だって、そうなのではないのか?」という、これは「信仰を捨てる捨てない以前」の、きわめて「人間的な」部分での問いであり、まさに本書『人民教会殺人事件』における、引用文(1)に対応する、「人間一般(信仰の有無に関わりない)」についての問題なのである。
つまり、「平信徒」などではなく、「神父」や「牧師」や「神学者」などの「肩書き」的な「名声(社会的承認)」を得て、キリスト教の「タコツボ」社会の中で「先生」と呼ばれる立場になってしまうと、仮に「教義」に疑いを持ち「もしかすると、神なんて存在しないのかも?」という「当たり前の疑い」を持ったとしても、信仰者として、その「疑い」を正直に突き詰め、結果として必要とあらば、その「地位と名声」を捨てる、といった覚悟(人間的な誠実さ)など、たいがいの「神父」や「牧師」や「神学者」は、持ってはいないのではないですかと、これはそういう問いなのである。
しかし、私の言葉のこうした意味を、「神学生」氏は理解できない。つまり、
(C)で、「神学生」氏は『その通りだと思いますが、それは宗教だからでしょうか?』と反問するわけで、その意味するところは「地位や名声にとらわれるのは、何も宗教(信仰者)だけではないでしょう。宗教(信仰者)だけが責められる謂れはないはずだ」と、そう言いたいのである。
そこで、(D)で私は『いいえ、違います。所詮は、人間だからです。』と応えるのだが、その意味するところは、「所詮、信仰者だ、自分たちは神を持っているから、非信仰者とはちょっと違うんだ、とか言ったところで、実際には、人間的な誠実さよりも、地位や名声に固執してしまう、ただの人間(俗物)ばかりじゃないか」ということであり、要は「信仰なんて、(多くの場合)エリート願望(自分たちだけは真理を知っており、だから救われるという選民意識)に発する、幻想でしかない」という批判なのである。
「神学生」氏としては、もちろん私に「地位や名声に固執するのは、信仰者だけではない(から、当たり前のことだ)」と言って欲しかったのだろう。だが、私の『人間だからです。』というのは、信仰者を、非信仰者一般と同列に扱って「免責する」ものではなく、「信仰者は特別なものに非らず」ということであり、要は「信仰は幻想であり無力」であるという、批判であった。
だから、「神学生」氏はその「否定しがたい批判」に気づいて、そこでやりとりを打ち切らざるを得なかったのである。
つまり、「日本におけるプロテスタント神学の最高学府」である『東京基督教大学』に通って「神学者」になろうかというような人であっても、「信仰的(あるいは、人間的)誠実」よりも「現在の地位や名声」を守るのを優先する『引くに引けない状態に陥って』いる、というのが「偽らざる現実」であり、彼らも所詮は「人間的(欲望の)現実」に生きている「ただの人」でしかない、ということなのだ。
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そして、このような「リアルな信仰批判」の現場からすれば、本書『人民教会殺人事件』で語られるような「正論」など、所詮は「娯楽小説内での綺麗事」でしかなく、それが文学的なテーマとして、読者の胸に染み入ることなど金輪際ないだろう、ということなる。
もちろん、私のこうした仮借のない「本質的信仰批判」で傷ついた人(信仰者)は、大勢いるだろう。
だが、それでも、人間の歴史を見るならば、「宗教・信仰」の問題は、決して「好きな人がやればいい」で済まされ得るような「お易い問題」ではないというのは、「宗教戦争」や「魔女裁判」などの持ち出さずとも、先の「統一教会・自民党癒着問題」などにも明らかだ。
「権力は必ず腐敗する」などと言われるが、同じ意味で、批判がなければ「宗教(という権威)も必ず腐敗する」のであり、プロテスタントが、それまでのキリスト教会(今のカトリック教会)の中から生まれてきたのは、「教会」が権力と癒着して腐敗したからに他ならない(ルターは、その教会批判のせいで破門され、殺されかけた)。
だから私は、「信仰的(人間的)誠実」よりも、世俗的な「地位や名声」あるいは「権力」に固執するような「宗教」を批判するし、そんな宗教は「信仰」の名に値しない、単なる「俗情」でしかない、と考える。
その意味で私の「信仰批判」は「俗情批判」であり、信仰が真に「口ほどのもの」なのであれば、何も厳しく批判したりはしないのだ。
したがって、「宗教批判」は、時に、その「信者」を傷つけることになってでも、やはり、なされなければならない。それは、「加害」ではなく「批評」であり、要は「信仰のための苦言」なのだ。
だから、批判者が『加害者になりうることを自覚すべき』といった程度のことなら、遠の昔に自覚している。
私の批判が「当たっていすぎて」その人が傷ついたというのであれば、その傷はその人が、自らの「信仰」において「当然負うべき傷」であり、言うなれば「神から与えられた傷(ステグマ)」だと考えるべきなのだ。
そして、こうした態度こそが、私の「神」への「信仰(献身)」なのである。
(2023年5月11日)
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