書評:柄谷行人『柄谷行人対話篇 3 1989-2008』(講談社文芸文庫)
柄谷行人の、講談社文芸文庫版「対話篇」の3冊目である。
「目次」は、次のとおり。
それぞれに、思想哲学、文学、社会運動などをテーマとした対談であり、それぞれに興味深いのだが、当然のことながら、それぞれは別個に独立したものではなく、柄谷行人の中にあって「密接につながっている」というよりも「ひと続きのもの」であると言ったほうがいいだろう。
そして、そうしたことの根底にあるのは、柄谷行人という人の「人間」観であろうし、本集の中でも特にそれがハッキリと出たものとして、富岡多惠子との対談「友愛論 夏目漱石・中勘助・中上健次」はきわめて感動的なもので、不覚にも私は、落涙さえしてしまった。
言うまでもないことだが、柄谷行人の文章を読んでいて、「感心」したり「感動」したことなら何度もある。
「う〜ん、そうか。なるほどなあ…」「流石だなあ」「この人は、やっぱり本物だ」といったような感想にともなう、「感心」や「感動」のことだ。
しかし、富岡多惠子との対談で、私が感動したのは、柄谷行人の、人としての「素」の部分に直接触れ得たからで、それがこの対談もおいて可能だったのは、柄谷の親友であった中上健次が早逝した直後であり、また富岡多惠子という人の「力強い優しさ」があったからに他ならない。
この対談を読んでいた時に、私の脳裏に浮かんがのは、次のような「情景」であった。
「少年」と「年上の(親戚の?)お姉さん」が、テーブルをはさみ、向き合って座っている。「少年」は、うつむき加減だ。
「少年」はつい最近、親友を失って落ち込んでいた。本当なら、誰とも話なんかしたくないのだが、これも浮世の義理で仕方ないから、不承不承「対談」の場に出てきたのだ。それに、この「お姉さん」については、さっぱりした気性の人でもあり、決して嫌いではないから、その意味では、多少なりとも気が楽であったとは言えるだろう。
一方「お姉さん」の方から見れば、「少年」が落ち込んでいるのは、一目瞭然。
「少年」が、これも仕事だからとやむなくこの場に出てきたというのは明らかで、彼としては「普通」にやろうとしているのだろうが、その落ち込んだ様子は隠すべくもない。
やや低い調子で口重く話すその言葉には、いつもの力はまったくない。とてもわかりやすく落ち込んだ様子で、「少年」自身は気づいていないのだろうが、その両手は、何かに堪えるように、ぎゅっと強く握り締められたままである。
「お姉さん」は、「少年」の、その「親友」のことも知らないわけではなかったが、特にどうということはなく、ただ、その「権太くれめいた外見にも似合わず、意外に繊細な神経の持ち主」であることを知っており、だから、けっこう言いたい放題の「少年」とも仲良くできたのだろうと感じていた。
どちらも、少年らしい「純粋さとまっすぐさ」を持っており、それがしばしば「辛辣な言葉」や「荒っぽい行動」となって表現されるのだというのを知っていたから、「お姉さん」にとっての彼らは、所詮、いささかツッパリ気味の「可愛い男の子」という感じだったのだ。
だが、そんな「少年」が、親友を失って落ち込んでいる。泣きたいのを我慢して、必死にこの場をやり過ごそうとしているのが手に取るようにわかるのがあまりにも健気で痛ましく、可哀想である。だから、なんとか励ましてやりたいと思うけれど、しかし、この「頑固な少年」は、決して同情的な言葉など欲っしはしないだろう。自分の最も柔かいところへ、直接手を突っ込んでくるような無神経さを、彼は許さないからである。
だから、「お姉さん」は、いつもと変わらぬ軽い調子で、少年が「胸のうちに溜め込んだ言葉」を吐き出すように仕向けていく。冗談めいた、ちょっとからかうような調子で、悲しみのために頑なになっている「少年」の頬を、指でつつくようにして「ほら、そんなむずかしい顔をしていないで、顔をあげなさい。男の子でしょ」と挑発する。
無論「少年」は、それが、この「お姉さん」特有の優しさの表現であり、彼を励まそうとしてくれているのがわかるから、つい「お姉さん」に甘えてしまう。この人になら、今の弱った自分の「素の顔」を見せてもいいと、そう思えるようになっていくのである。
○ ○ ○
富岡多恵子とのこの対談が掲載されたのは『文学界』誌の1993年3月号だから、対談自体はその数ヶ月前に行われたものと思われる。中上健次が癌で亡くなったのが、その前年の1992年8月であったから、中上が亡くなって半年ほどの時期に行われた対談だ。
当対談集には、その前に行われた、文芸評論家・川村二郎との対談も収録されているが、こちらは『群像』誌の1992年10月号掲載だから、まさに中上の死の直後、葬儀が終わって間もない頃のものだが、この対談の冒頭で、柄谷は、いきなり宣言するかのように語り出している。
川村二郎も、中上健次とは面識があり、作家として高く評価してはいた。しかしそれは、個人的なつきあいではなく、「文芸評論家と小説家」という関係を一歩も出るものではなかったから、川村の中上評というのは、あくまでも「作品を通しての中上健次」であるか、何度か直接会った際に感じた「好印象」でしかないのは、やむを得ないところであった。
したがって、川村は自身のそんな「中上評」を柄谷に向けて語るのだが、柄谷の反応はパッとしない。
あからさまに否定するわけではないのだが、柄谷の応答には「それが中上健次という男の、すべてではない」というニュアンスがついてまわる。この対談で柄谷が語る中上評とは、「こうである」というものではなく、「そうではない」「それとは違う」「それがすべてではない」という「反語的な肯定」に終始している印象がある。
川村の方も、柄谷が落ち込んでいるというのは、ハッキリとわかっているから、強くは主張せず、この対談自体は、全体に「対話的盛り上がりに欠ける」ものだったと言えるだろう。
つまり、柄谷がこのとき言いたかったのは、結局のところ「作家・中上健次についての評価なんて、つまらない」ということだったのではないだろうか。
中上がガンだと知り、余命が短いものであると知らされた時に、柄谷は親友として、なんとか「作家・中上健次」の偉大さを、世に伝え残したいと考えて、頭の中であれこれと「追悼文」を書かないではいられなかった。
「中上はこんなやつなんだ」「中上文学は、こんなにすごいんだ」ということを語るための、あれこれのエピソードが浮かんできて、それらを「中上健次論」としての「追悼文」へと組み立ていく。どうすれば、その「追悼文」で、中上を「永遠の存在」にすることができるだろうかと、柄谷は、頭の中で必死に「追悼文」を書いていたのであろう。
けれども『いざ死んでみると、そんなことは全然言いたくなくなっている』ことに、柄谷は気づいてしまう。
中上本人がもはや存在しないこの世界に、中上を讃嘆する言葉を残すことなど、実につまらないことであり、虚しいことのように思う。
なんで「世の中に、中上の素晴らしさを、知ってもらわなければならないのか。中上の素晴らしさは、誰よりも俺が知っている。それだけで十分じゃないか」と、そんな感じになったのではないだろうか。
後の富岡多惠子との対談でも出てくるけれども、本当に大切な人を失った時には、人は「この世」的な価値の儚さを実感することになるのではないか。
「この世」が意味を持つのは、愛するあの人やこの人が生きているからであって、抽象的な「この世」になんか、少なくとも自分にとっては何の意味もないということに、柄谷は気づかされたのである。
○ ○ ○
富岡多惠子との対談は、「中勘助と夏目漱石の関係」というところから始まる。
代表作のタイトルが『銀の匙』ということからもわかるとおり、もともと「甘やかされて育ったお坊ちゃん」の中勘助は、経済的に逼迫したギリギリの状態で、自分の幼年時代を描いた自伝的小説『銀の匙』を書き上げて、当時すでに人気作家であり、多くの弟子を持っていた夏目漱石を頼って、この作品を持ち込んだ。
漱石とは縁もゆかりもなかった中勘助だったのだが、漱石は若い作家たちに対して面倒見の良い先輩であり、だからこそ、漱石の作家としての力量は無論、その人柄を慕って若い作家が集まっていたのだから、漱石は自身を頼ってきた中勘助に対しても親切であり、わざわざ、この無名の人の作品を読んでやった。そして、これは素晴らしいと思ったから、出版の労までとってやった。その結果として、中勘助という作家は誕生したのである。
しかし、漱石が死んだ後、中勘助が、恩人・漱石について書いた文章は、必ずしも好意的なものではなかった。
漱石の弟子たちが、しばしば師の人格を熱心に讃嘆し、懐古するのとは違って、中勘助のそれは、愛想がないと思えるほどに、つれないものであった。世間的な言い方でいえば、それはいささか「恩知らず」なものであり、客観的な評価とすら呼べないものであったのだ。
こうした、漱石と中勘助の関係について、柄谷と富岡は、結局、漱石は、自身の不遇な幼少時代のこともあって、それとは真逆の中勘助の幼少期を描いた作品に、深く惹かれることがあたため、やや過大評価の気味があったのだろう、と推測している。
漱石にとっては、中勘助その人には、さほどの興味がなく、ただ、若い人に対して公平に親切であった漱石は、中勘助に対しても同じように接しただけであり、『銀の匙』については、自分には無かったもの、そして、自分では書けないものとして絶賛したのであろう、ということだ。
一方、中勘助にとっての漱石は、「人気作家」ということではあっても、個人的な「尊敬の的」ということでは無かったのだろう。ただ、漱石が認めてくれれば、自分の作品を世に出せるし、自分の作品は、漱石だって認めざるを得ない傑作であるはずだから、漱石に認めてもらうんだ、くらいの感覚だったのではないだろうか。
だから、中勘助にとっては、言うなれば漱石は「当たり前のことを、当たり前にしただけ」であって、特別なことをしたわけではない、くらいの感覚だったのではないいだろうか。
自尊心の強い「ナルシスト」であった中勘助にとっては、本音のところでは「夏目漱石が、どれほどのものだというのか」というくらいの自尊心もあったのだが、経済的に行き詰まっていたため、やむなく「世評の高い夏目漱石」に、方便的に頭を下げて、作品を読んでもらっただけだと、そんな感覚ではなかったか、というのが、柄谷と富岡の「中勘助」評価である。
だから、夏目漱石という人に「共感」する柄谷行人としては、中勘助なんてやつは、じつにくだらない勘違い野郎の俗物であり、その代表作である『銀の匙』も、「ナルシストが喜ぶナルシスト小説」でしかなく、「文学的な深みに欠けた小説」である、といった評価のようだ。
それが、夏目漱石が評価した作品であったとしても、そうした評価は譲れない。さすがの漱石の、不遇な育ちの呪縛からは、生涯、完全に自由になることはできなかったからだと、柄谷は、そのように判断したのである。
そして、この時、柄谷は、夏目漱石の「人の良さ」に、腹を立てていた。
「どうして、あんな奴に、そこまでしてやるのか」「あんな、ナルシスト野郎、相手にしなければよかったのに、誰彼かまわず、いや、たぶん中勘助があんな奴だと勘づいていながら、しかし、あなた(漱石)は、それでも同じように分け隔てなくかまってやったのだろう。なんて、お人良しなんだ」と。
そして、こうした「夏目漱石と中勘助」論議のあとに、「中上健次と柄谷行人」の関係へと、話はずれ込んでいく。
「少年」と「お姉さん」は、にっこりと笑い合って、この対談を終えたのである。
(2023年6月16日)
○ ○ ○
○ ○ ○