鈴木幸夫編 『推理小説の詩学』 : かつて知識人は 〈本格ミステリ〉を愛好したのか?
書評:鈴木幸夫編『推理小説の詩学』(研究社)
本書は1976年の初刊で、1990年には新装版も刊行されているが、すでに絶版となっている。
本書の正篇にあたる『推理小説の美学』(H.ヘイクラフト編・鈴木幸夫訳)と合わせて、古いミステリマニアにはたいへん懐かしい本であり、私も30年以上前にいちど入手したが、その際には積読の山に埋もれさせてしまい、読むことがかなわなかった。
私は、綾辻行人のデビュー直前くらいにミステリファンになった人間なので、「新本格」以前のミステリ評論というのは、ほとんど読んでいない。江戸川乱歩の書いた評論や、乱歩の編んだ評論書を何冊か読んだと思うが、ミステリ評論として主に読んだのは、「新本格」以降の、主に笠井潔のものとその影響下にあった評論である。私が「新本格以前のミステリ評論」をほとんど読んでいないのは、いくつか読んだそれらが、あまりにもつまらなかったからだ。
笠井潔以前のミステリ評論というものは、「分類整理」を中心とした「研究」論文であって、「文芸評論」的な「解釈学的作品本質論」や「解釈学的ジャンル本質論」といったものがほとんど見当たらず、ミステリ作品を多読しているマニアには「当たり前」なことしか書かれていないものが多かった。
例えば「本格ミステリとは、論理の文学である」といった評価は、間違ってはいないが「当たり前」の話でしかなく、この手の「分類整理」的な評論には「目から鱗が落ちる」ような面白さは皆無だった。たしかに堅実な研究ではあったのだが、読み物として「知の喜び」を感じさせてくれるようなものではなかったのである。
そうした日本ミステリ界の「地味な評論」が、笠井潔の「参入」で、流れを変えていった。笠井は、思想哲学系の評論や純文学を始めとした幅広い文芸評論を書いていた人だが、「隠された本質を剔抉する」というタイプの批評を、日本のミステリ界に初めて本格的に導入した人だとも言えるだろう。
その代表が、有名な「本格ミステリにおける、大量死理論」で、これは「二つの大戦間において、英米で本格ミステリの黄金時代が開花したのは、第一次大戦における大量死の経験が、無意味な死を意味化する文学としての本格ミステリを、興隆させたのだ」と説く、じつに独創的な社会心理学的理論だった。
無論、こうした「読み」が本当に当たっているかどうかは、誰にもわからない。なにしろそれは「人々の無意識=時代の無意識」を言語化したものであり、フロイトの無意識論と同じく、「なるほど、そう言われればそうかも知れない」という面白さと説得力はあるものの、それが「唯一の正解」「客観的事実」であるという確証など、得られる性質のものではなかった。
文芸評論などにおける「本質論」とは、もともとそういう解釈学的な性質のものであって「そういう理屈も成立つが、それに確たる客観証拠はなく、どこまでも一つの解釈であるに過ぎない」などと文句を言うのは、およそお門違いというものであろう。もとより、人々が気づかなかった「斬新な視点」を提供するのが、そうした評論文の目的なのだから、「物証がない」「唯一の正解ではない」などと言うのは、妬みに発する的外れな難癖でしかないのだ。
そして、何故そうした「斬新な理論」を面白がれないのかと言えば、それは「名探偵が明かす意外な真相(についての推論)」に対し、地味な聴き込み・裏づけ捜査しかできなかった警部の「そんなもの、事実による裏づけを欠いた、面白いお話でしかない」という憎まれ口と大差のない、妬みに発するものだったからである。
そんなわけで、私は「新本格以前」「笠井潔以前」の日本のミステリ評論には、ほとんど興味がなかった。もちろん、権田萬治や『幻影城』評論新人賞の受賞者などは、文芸評論的な評論文を書いていたのであろうが、当時の私としては、そうした日本のミステリ評論を読むよりも、笠井潔に触発されて興味を持ち、価値を見いだした、柄谷行人をはじめとした文芸評論家や思想家・哲学者の本を読むことの方に忙しかったのである。
そして、今もそうした「日本の古い(分類学的)ミステリ評論」に興味はないのだが、今回、懐かしい『推理小説の詩学』を読もうと思ったのは、笠井潔がある評論文の中で紹介していた、W.H.オーデンのミステリ評論「罪の牧師館 一一探偵小説についてのノート」が、本書に収められていたことに、最近気づいたからである。
言うまでもなく、オーデンはミステリプロパーの人ではなく、『20世紀最大の詩人の一人』とまでみなされた著名な詩人であり評論家なのだが、20世紀前半のミステリの開花期には、当時一流と目されていた少なからぬ数の知識人が、通俗小説の一種と蔑まれがちだったミステリを愛好し、その地位を高らしめるという現象が見られ、オーデンもそうした知識人の一人だったのだ。
そしてそうした「ミステリを愛好する知識人」には、当時、英米の知識層の重要な一角をなしていた「キリスト教神学者」や「護教家」がいたことは、じつに興味深い事実だと言えよう。
その代表選手は、もちろん「ブラウン神父」シリーズの著者であるG.K.チェスタトンで、彼は(カトリック的な要素の強いプロテスタントである)英国国教会からカトリックに改宗した、カトリックの護教家であった。
当時、英国では、国教会からカトリックに改宗する知識人が大勢出て、そのなかには『指輪物語』のJ.R.R.トールキンや『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスなどもいて、ルイスは護教家としても有名であった。
また、ミステリ関係では、『陸橋殺人事件』の著者として知られるロナルド・ノックスがおり、彼は英国国教会の牧師の息子として生まれるが、後にカトリックに改宗して聖職者となり、その退職時の位階は大司教で、カトリックでは英国第2位の高位にまで上り詰めた人である。
話をオーデンに戻すと、祖国イギリスからアメリカに移住した彼の場合は、もとは『桃色の自由主義者』(つまり、左翼が少し入った自由主義者)を自認したが、後には『正統的イギリス国教会の会員』になった人である。
つまり、チェスタトンやトールキン、ルイス、ノックスがカトリックに改宗して「正統保守」になったのに対し、オーデンの場合は、祖国の伝統として信仰に回帰した人だったわけであり、そのためにこの評論のタイトルも、「罪の神父館」ではなく、「罪の牧師館」となっているのである。
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さて、これでやっと本書『推理小説の詩学』の内容になるわけだが、私が本書でいちばん面白かったのは、当時著名な英文学教授であったマージョリー・ニコルソンの論文「教授と探偵」である。
オーデンの評論文「罪の牧師館」も、ミステリプロパーの人のものではない、視野の広い「ミステリ本質論」として興味深くはあったが、しかし、いま読んで特別に新しいものではなく、むしろ信仰的な視点を重視している部分の方が、今となってはユニークで、興味深く感じられたくらいだった。
したがって、いま読んで、最も興味深かったのは、マージョリー・ニコルソンの論文「教授と探偵」の方であり、これは「ミステリ評論」と言うよりも、「ミステリ読者論」であって、そこにこそ面白さがあったのだ。
彼女はこの論文で、「なぜ知識人は(本格)ミステリ魅せられるのか?」という問題を論じており、それは世間の人が思うような、通常業務である学問的研究への反動としての「息抜き」や「気散じ」などではなく、むしろ当時、世界を席巻した「実存主義」ブームなどの「主観主義」の「自由さ=気まぐれさ=非構築性」に、多くの知識人が辟易させられていたために、その真逆である「形式論理的思考」を体現した「本格ミステリ=知的な論理ゲームとしてのミステリ」に惹かれたのだ、と主張するものであった。
「現実逃避」ではなく、それは、世間の「主観主義・実感主義」に抗う積極的な「理性」主義的選択行動だった、と主張していたのである。
しかし、だとすれば、どうして、その極端な「理性主義」の象徴たる「本格ミステリ」を、チェスタトンやノックスといった「カトリック信者」が、進んで楽しんだのだろうか?
彼らは「神の奇跡」を認め「聖母マリアの処女懐胎」を認め「イエスの死後3日目の復活」を認めるカトリック信者なのである。そして「反近代」を主張する「保守派キリスト教徒」なのだ。それが「知性の文学」である「本格ミステリ」を愛好するというのは、矛盾ではないのだろうか。
「正統派プロテスタント」のオーデンが「本格ミステリ」を愛好するというのはわかりやすい。なぜならば、英国国教会がプロテスタントの中では保守的だとは言え、当時「人間の理性の限界」を言上げして、その傲慢を批判したカトリック教会に比べれば、プロテスタントは遥かに「反中世・反スコラ学としての近代主義=啓蒙主義」に好意的だったからである。
では、なぜカトリックであり「反近代=反啓蒙主義」だったチェスタトンやノックスなどが、「理性の文学」たる「本格ミステリ」を愛好したのか。
一一思うにそれは、彼らが「カトリックの信仰は、理性と矛盾するものではなく、むしろ真に知性的なものだ」と考えていたからではないか。彼らは「真の知性主義」を示すものの一つとして「本格ミステリ」を愛好してみせたのではないだろうか。
つまり、マージョリー・ニコルソンが「知識人の本格ミステリ愛好は、決して現実逃避ではない」と主張したのと同じ意味で、彼らは「知的なカトリック信者が、論理的な本格ミステリを愛好するのは、決して矛盾ではない」と考えたのではないだろうか。
これは、わかりやすい心理である。
「宗教家は、非理性的である」というのは、非宗教家の「宗教家」認識であり見方であって、宗教家自身の自己認識ではない。むしろ宗教家自身は「宗教家こそが、真の理性(知性)に目覚めた人間だ」と考えている。つまり「正しい信仰」に目覚めていない人というのは、「理性」が「迷妄に曇っている(眠っている)」状態であり、非理性的であり反知性的なのは「むしろ非宗教家の方だ」というのが、宗教家側の認識だったのである。
だからこそ「信仰と本格ミステリ愛好は、矛盾しない」と。
彼らがこのように感じる背景には、じつは「大量死」の問題が、重大な影を落としていた。
第一次大戦での「機関銃の登場と塹壕戦」という「悲惨な大量死経験」をするまでの西欧世界は、開明主義的な「進歩」の思想が力を持っていた。人間は知的に進歩し、新たな技術を手にして、どんどん発展していくだろうという「楽天的な理性主義的進歩史観」に満ちて、そのために保守的なカトリック教会は苦境に立たされ、進歩主義に共感的であったリベラルなプロテスタンティズムが勢力を増していた。
ところが、「新技術」のもたらした「悲惨な大量死」の現実を目の当たりにして、人々はそれまでの「楽天的な理性主義的進歩史観」に疑いを持ちはじめ、旧来の「精神性」への回帰傾向である、保守化という「反動」が表れた。
そして、そうしたもののひとつが、それまで英国国教会に所属していた知識人の、伝統回帰としてのカトリックへの改宗ブームだったのである。
つまり、チェスタトンに代表される知識人信仰者たちは、「近代的な理性偏重主義は、知性の迷妄である」と考え、当時のローマ法王庁(バチカン)の掲げた「反近代主義」に歩調を合わせた。「真の知性とは、信仰の光のもとにあってこそなのだ」というのが、彼らの考え方だったのである。
これは、アメリカ人や日本人が「原子爆弾の脅威」を目の当たりにして初めて味わった「盲目的な理性主義的進歩主義への懐疑」を先取りしたものだったと言えば、わかりやすいかもしれない。
ともあれ、このようなわけで、当時の西欧の「知識人」は「信仰と理性は、矛盾するものではない」と考えた。むしろ、その「両輪」がそろって初めて「真の知性」なのだと考えた。だから「キリスト教信仰と本格ミステリ愛好」は、決して矛盾するものではなかったのである。
そして、ここで現代の私たちが考えなければならないのは、この当時に形成された「本格ミステリは、知識人の文学である」という認識が、はたして今でも通用するのか、ということである。
無論、その答は「通用しない」ということになる。
チェスタトンの当時は「楽観的な進歩主義に対する失望」が「信仰的理性」への反動を正当化したからこそ「本格ミステリは、真に理性的な、知識人の文学である」という認識をもたらし得たが、そうした「信仰への信頼」を持たない現代の私たちが、このような歴史的経緯を知らないまま「本格ミステリは、知識人の文学である」などと言うのは、「無知」に由来する「愚かな自己賛美」にしかならないからである。
むしろ私たちが、今よくよく考えなければならないのは、「本格ミステリにおける形式論理的な知性」というものは「宗教信仰」と相性が悪くない、という「意外な真実」の方である。
「本格ミステリにおける形式論理」あるいは「名探偵のアクロバティックな論理(的謎解き)」というのは、じつのところ「キリスト教神学」の論理と、とても似ているのだ。
それは「経験的には不自然な現象理解を、理詰めで説明する説得術(レトリック)」だとでも言えばいいだろうか。そこでは「現実」そのものは問題とならず、「説得力」がすべてになってしまう、極めて「観念的」で「倒錯的」な世界なのである。
無論、それが「本格ミステリ」という「フィクションの世界」での話であるという「明晰な自覚(現実認識)」が保たれていれば、問題はない。しかし、人は得てして「理屈」に憑かれ、「現実」を見失ってしまう。
事実、多くの人は「死者の魂」だとか「先祖供養」だとかいったフィクションに憑かれて、葬式だの先祖供養だのという「非理性的行為」を、当たり前のように今も大真面目に行なっているし、時には「イデオロギー」に憑かれて人殺しや戦争をしたりもする。それが「人間理性」の実態なのだ。
だから「自分は本格ミステリを愛する、真に理性的な人間である」などというのは、「歴史」に無知な、あまりにも楽観的な「誤った自己認識」だと断じても良いだろう。そんなものは「真の理性」ではないのである。
では「真の理性」とはどのようなものなのか。
チェスタトンたちが考えた「信仰の光に正しく照らされた理性」なのだろうか。
無論、ちがう。
歴史経験的に言うならば、「真の理性」というのは、「真の理性」などという「わかりやすいかたち」では、金輪際あたえられることがないと自覚する、(メタ)理性なのだと言えよう。つまり「自己懐疑的な理性」である。
しかし、それは単なる「自己懐疑」ではなく、「自己懐疑的ではあるが、理性に絶望しない理性主義」だとも言えるだろう。「人間理性」は完璧なものではないけれど、しかし私たちはもはや、チェスタトンたちのように「信仰」に助けを求めることもできないという現実を知ってしまったのだから、私たちにできるのは、この「理性」という不完全な道具を、それでも謙虚かつ慎重に研ぎすまして利用するしかない。私たちに残された道は、それしかないのである。
私たちミステリファンが「本格ミステリは、知識人の文学」だという、チェスタトンの時代に形成された「誤った自己規定」を、そのままのかたちで受け継ぐことは許されない。
わたしたちが、歴史から学んで採るべき態度とは、楽観的な理性主義がもはや通用しない時代において「本格ミステリは、娯楽以上の何ものかであり得るのか」という真摯な問いを、問いつづけるということなのではないだろうか。それが「願望充足的迷妄」に陥らないための、理性的な態度であると、私は斯様に考えるのである。
初出:2020年4月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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