本能寺の変1582 【重史86】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史086】 「多聞院日記」
はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史086】 そ第23話
①来月二十二日、織田尾張守参陣致し、御動座御供申すべき由
②大覚寺殿、一圓(円)、虚説なり、
「多聞院日記」
永禄九年1566、七~八月。
細川藤孝は、信長から、言質を得た。
藤孝から、直ぐに、義昭へ。
義昭の家中は、沸き立った。
上洛の日が、決まった。
「来月二十二日」
信長、これに供奉。
「織田尾張守参陣致し、御動座御供申すべき由に候」
義昭は、各所へ、御内書を送ろうとしていた。
「則ち、御内書成さるゝの通り」
義昭の心は、すでに京へ。
「幕府再興」
今、一歩。
「成る」
そう、思っていたのだろう。
「上洛」、家臣の誰もが、そう思った。
大覚寺義俊から、大和の十市氏へ。
一、今度、将軍御入洛あるべきの由につき、
高田為成より、遮りて(=わざわざ)、
十兵(十市兵部少輔)の儀、大覚寺殿をして申し入られ、
(和睦が)相調ひ、
義昭の気持ちは、高揚していた。
則ち、御内書成せらるゝの通り、
信長は、確かに、約束した。
「一寸先は闇」
何が起きても、おかしくない時代だった。
なれど、用心深い。
それ故、ここまで、生き延びた。
状に、曰く、
御出張の儀に就きて、御内書成され候、
来月二十二日、織田尾張守参陣致し、
御動座、御供申すべき由に候、
家康も、参陣する。
「三州(三河)」、とある。
其れにつき、三州・濃州・勢州四ヶ国出勢必定に候、
此の砌(みぎり)、忠節抽んでらるべくば、神妙たるべき由
申し入るべき旨に候、
猶、(高田)為成演説あるべく候間、再筆能わず候なり、
穴賢(かしこ)々々、
七月十七日 御判在之
十市兵部少輔殿
多聞院英俊が、これを書き写した。
英俊は、多方面に、情報網を張り巡らしていた。
以上、大覚寺殿小文にこれあり、
写すなり、
別帋(かみ=紙)にも日の下にも御判ばかりこれあり、
名はこれなし、
しかし、糠喜びに過ぎなかった。
そして、次の一文がつづく。
有る如しと雖(いえど)も、此の御内書は、到来せず、
大覚寺殿、一圓(円)、虚説なり、
(「多聞院日記」永禄九年八月二十四日条)
⇒ 次へつづく