
本能寺の変1582 【重史96】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史096】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史096】 そ第28話
①稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守、申し合せ侯て、
②信長公へ御身方に参ずべく侯間、
『信長公記』
永禄十年1567、秋。
斎藤氏は、内側から崩れた。
同年、八月。
美濃三人衆が寝返った。
一、八月朔日、美濃三人衆、
稲葉伊予守(良通)・氏家卜全(直元)・安東伊賀守(安藤守就)、
申し合せ侯て、
信長公へ御身方に参ずべく侯間、人質を御請取り侯へと、
申し越し侯。
信長は、この時を待っていた。
「出陣」
先ずは、瑞龍寺山へ上り様子を窺った。
稲葉山城は、目と鼻の先。
山つづきで、北東へ約半里2km。
そして、城下に放火。
城を丸裸にした。
然る間、村井民部丞・島田所之助、人質を請取りに、
西美濃へさし遣はされ、
未だ人質も参らず侯に、俄かに御人数出だされ、
井口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ侯。
是れは如何に、敵か味方かと申すところに、
早、町に火をかけ、即時に生(はだ)か城になされ侯。
其の日、以外に風吹き侯。
信長は、稲葉山を包囲した。
兵糧攻めの姿勢を見せた。
龍興は、孤立無援。
後詰は、ない。
翌日、御普請くばり(分担)仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまはし、
取り籠(こ)めをかせられ侯。
美濃三人衆は、信長のやり方に驚いた。
左侯ところへ、美濃三人衆も参り、肝を消し、御礼申し上げられ侯。
信長は、何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ侯なり。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく