本能寺の変1582 【重史84】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史084】 「和田家文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史084】 そ第22話
信長参洛の事、別儀なきの由、喜び入り候、
「和田家文書」
永禄九年1566、春。
細川藤孝は、尾張にいた。
和田惟政と一緒だった。
「参洛の事」
信長と交渉を進めていた。
「誓紙」、とある。
最終段階に入っていた。
義昭の期待は、大きかった。
同年、四月。
義昭は、近江矢島にいた(滋賀県守山市矢島町)。
以下は、尾張の藤孝・惟政へ送った書状である。
「何時比、参洛候哉」
「帰参、待ち入り候」
すべて、順調。
期待は、膨らむばかり。
義昭は、吉報を待っていた。
長々在国、辛労に候、
信長参洛の事、別儀なきの由、喜び入り候、
然れば、治定(決定)、何時比(いつころ)、参洛候哉、
能々(よくよく)、相究め、信長誓紙申し調(ととの)へ、
帰参、待ち入り候、
長引くようであれば、一人でもいいから、先ず、帰って様子を報告
するように。
由断ある間敷く候へども、若し相延ぶ候はゞ、
一人なりとも、先ず其方の様躰、
上国せしめ、言上肝要に候なり、
(義秋)
卯月十八日、 (花押)
(宛名ウハ書)
「(墨引)
細川兵部大輔とのへ
和田伊賀守とのへ 」
(「和田家文書」)
藤孝は、信長に入れ込んだ。
生年も同じ。
波長も合う。
勢いがあった。
だが、やはり、信長自身の姿勢がそうさせたのだろう。
その時までは、・・・・・。
結果、義昭の家中に二つ流れが生じた。
すなわち、斯くの如し。
一、越後の上杉。
名家、名門。
大覚寺義俊がこれを推した。
謂わば、保守派。
一、尾張の織田。
成り上がりの俄か大名
これには、細川藤孝・和田惟政。
となれば、こちらは革新派となる。
家中に、微妙な空気が漂い始めた。
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