本能寺の変1582 【重史80】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史080】 「多聞院日記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史080】 そ第20話①
①廿八日夜、一乗院覚慶 僧都廿十九才、寺を御離れおわんぬ、
②甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
「多聞院日記」
永禄八年1565
こちらは、多聞院英俊の記録。
廿八日夜、一乗院覚慶 僧都(そうず=僧正の次位)、廿十九才、
寺を御離れおわんぬ、
御落所、翌日にもしれず、
甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
去る五月十九日、将軍御生害、三十歳、
御舎弟、鹿苑院殿、同上、廿一歳、
(「多聞院日記」永禄八年七月二十八日条)
義昭は、幕府再興へ動き出した。
和田館に入って、わずか数日。 →そ第20話②
義昭(覚慶)は、己の意思を表明した。
すなわち、上洛。
なれど、その道のりは、遠し。
光秀は、後に、この義昭に仕えることになる。
そして、「歴史」に登場する。
⇒ 次へつづく