本能寺の変1582 目次小 上総介信長 2富田聖徳寺 184~194 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次小 上総介信長 2富田聖徳寺 184~194
184 平手政秀が自害した。 『信長公記』
信長は、「上総介」を称していた。 『信長公記』
信長は、政秀寺を建立した。
185 道三と信長が富田聖徳寺で会見した。
道三からの、申し出であった。 『信長公記』
信長は、これを請けた。 『信長公記』
道三は、信長の風体を見定めようとした。 『信長公記』186 其の時、信長の御仕立。 『信長公記』
信長は、弓・鉄砲を五百挺持っていた。 『信長公記』
力こそ、正義。
187 たわけを態と御作り侯よ。 『信長公記』
道三、登場。 『信長公記』
であるか。 『信長公記』
程なく、会見は終わった。 『信長公記』
188 道三は、信長に感服した。 『信長公記』
三間々中柄の朱やり、五百本ばかり。 『信長公記』
たわけ人と云ふ事、申す人これなし。 『信長公記』
189 三好義賢の下剋上。 「足利季世記」
190 清洲城は、斯波氏の守護所である。
信長は、斯波義統を懐柔しようとしていた。
義統の家臣が、信長に通じた。 『信長公記』
信長は、清洲城を攻め倦ねていた。 『信長公記』
そうしている間に、義統の謀が漏れた。 『信長公記』191 清洲織田氏の実権は、小守護代坂井大膳の手に移っていた。
大膳は、嫡男義銀が川狩りに出かけた隙を狙った。 『信長公記』
大膳は、斯波義統を殺害した。 『信長公記』192 斯波義銀は、信長を頼った。 『信長公記』
信長は、大義名分を得た。
信長は、類い稀なる策謀家だった。 『信長公記』
信長は、義銀を手厚く保護した。 『信長公記』193 信長は、立派な戦国武将に成長していた。
光秀も、これに同じ。
194 信長は、清洲を攻めた。
中市場の合戦。 『信長公記』
信長の勝利である。 『信長公記』
天道、恐ろしき事どもなり。 『信長公記』
目次 1~317
目次大 1~317
目次大 上総介信長 177~228
目次中 上総介信長 177~228
目次小 上総介信長 177~228
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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