本能寺の変1582 【重史93】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史093】 「多聞院日記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史093】 そ第26話②
①上意様は、矢島を御退座、若州に御動座しおわんぬ。
②若狭も、武田殿父子、取り合いに及び、乱逆と云々、
「多聞院日記」
永禄九年1566、八月~閏八月。
若狭は、内乱状態にあった。
同三日。
若狭は、武田義統が守護の国。 →【 人物 】
だが、義統は、すでに実権を失っていた。
父子反目、国人割拠。
義昭を庇護する余裕などなかった。
以下は、奈良、多聞院英俊の記録。
正に、「地獄耳」。
貴重な史料である。
閏八月
三日、大雨、昼夜降り止まざりおわんぬ、月待ち、曇りて拝し奉らず、
一、去る二十九日夜、
上意様は、矢島を御退座、若州に御動座しおわんぬ。
三人衆、六角方と申し合わせ謀叛の故と云々、
浅猿(あさまし)〃〃、
若狭も、武田殿父子、取り合いに及び、乱逆と云々、
いかが成り行くべき哉、
(「多聞院日記」)
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