本能寺の変1582 【重史95】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史095】 「歴代古案」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
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そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史095】 そ第27話②
①去る八日、越州敦賀に至り退座候、
②義景(朝倉)馳走に候、
「歴代古案」
永禄九年1566、九月。
義昭は、若狭から越前敦賀へ移った。
同年(永禄九年)、九月。
義昭は、立ち直った。
「越州敦賀に至り退座候」
再び、越後に目を向けた。
頼みの綱は、やはり、上杉。
朝倉義景がこれを支援した。
義昭は、越前敦賀の金ヶ崎城に入った。
「義景馳走に候」
一年ほど、ここに滞在。
上杉謙信の出陣を期待した。
義景は、信長の一つ年上。 →【 人物 】
朝倉孝景の嫡男。
天文2年1533の生まれ。
信長と同世代の人物である。
幕府の有力大名の一人。
一乗谷を本拠とした。
やがて、信長の宿敵となる。
義昭は、信長から上杉謙信へ、大きく舵を切った。
以下は、謙信へ送った御内書である。
「是非とも参陣、偏に頼み入り候」
他に、頼りとする者はいない。
義昭は、必死だった。
条数を以って言上の旨、懇志の至り、喜び入り候、
京表の儀、織田尾張守出勢、相違ふ故、
江州矢島の儀、
弥(いよいよ)、三好(義継)・松永(久秀)、策有るの間、
安座成り難く候の条(くだ)り、
若州へ相越し、
去る八日、越州敦賀に至り退座候、
義景(朝倉)馳走に候、
義昭は、上杉と北条の和睦を推し進めた。
これが、その見返り条件である。
仍って、東国の儀、大覚寺門跡御下向、
北条(氏康)と和与の段、申し調(ととの)ふべく候条り、
是非とも参陣、偏に頼み入り候、
となれば、当然、上杉派の発言力が増大する。
大覚寺義俊が越後へ向かった。
一書の趣、重ねて使者を差し下すべく候、
毎事、身上任せ置き候、
大方、東蔵坊に申し含め候、
猶、大覚寺門跡演説有るべく候なり、
九月十三日 義昭御印
上杉弾正少弼殿
(「足利義昭御内書」「歴代古案」)
細川藤孝は、肩身の狭い状況に追い込まれた。
藤孝は、信長派。
長い冬の時代に突入した。
同じ頃、光秀も、越前にいた。
光秀、雌伏の時代。
おそらく、称念寺の門前に。
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