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本能寺の変1582 【重史101】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史101】 『日本史』 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史101】 そ第30話①

①彼(光秀)はもとより高貴の出ではなく、

②信長の治世の初期には、

③公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していた

                        『日本史』

 永禄十年1567、冬。
 光秀は、細川藤孝へ近づいた。
 
 
信長が、義昭を擁して上洛するのが、翌永禄十一年1568の秋。
 七月~九月頃である。
 冬は、雪のため、国境が閉ざされる(十二~二月頃か)。
 また、準備・摺合せ等の時間も必要だったであろう。 
 これらを考慮すれば、
 光秀は、遅くとも、永禄十年1567 十一月頃までには、細川藤孝に出会
 っていた、と、いうことになる。
 摺り合わせ等、準備期間を含めれば、この辺りが、ギリギリのタイミング
 になるのではないだろうか。

 おそらく、それより、もう少し、早い時期。
 義昭が、まだ、敦賀にいた時。
 かつ、信長が、稲葉山を攻略した頃。 →そ第28話
 その、直後のあたりか、・・・・・。

 光秀は、細川藤孝に仕えた。
 後に、幕臣(足軽)になり、信長の家臣になることを考えれば、藤孝の家臣
 というよりも、もっとフリーな立場、食客・協力者とも言うべき存在だっ
 たのではないか。

 光秀は、細川藤孝と密接な関係にあった。
 藤孝が、苦境に陥っていた時期。
 信長が、美濃を制圧。
 そして、「天下布武」。
 これすなわち、準備完了の意。
 信長の意思表示である。
 「上洛」
 正に、ベストタイミング。
 ならば、「交渉再開」か、・・・・・。 

 ところが、あいにく、季節は、冬。
 となれば、来たる春。
 光秀は、細川藤孝と、表裏一体となって、信長との交渉に当たった。
 その様な、流れだったのでは、ないだろうか。
 そう、推測するが、如何だろうか。

 フロイスの証言。
 「信長の治世の初期」とあるから、この頃のことである。
 なお、これは本能寺の変後に記述された。

   信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。   
   彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、
   公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していたのであるが、

 光秀は、出来る男。
 光秀は、優れた能力の持主だった。
 フロイスは、そのことを次の様に表現している。

 信長は、イエズス会の庇護者。
 光秀は、その信長を殺害した男(天正十年六月二日)。
 彼らは、光秀に対して悪感情をいだいていた。

  その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
  主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
                            (『日本史』)


  【引用】そ第30話① ◎第30話 第30話



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