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本能寺の変1582 第155話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第155話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前
◎「美濃の争乱」に見る土岐氏と朝倉氏の関係。
◎明智氏は、この争乱に巻き込まれた。
美濃の守護は、土岐氏。
明智氏は、その一族。
光秀の明智氏は、さらに、その庶流。
土岐氏の家臣だった。
土岐政房の代。
嫡男頼武と弟頼芸との間に、相続争いが起きた。
光秀の明智氏は、頼武に従ったものと思われる。
最初は、頼武方が勝った。
だが、頼芸方の反撃により、守護代斎藤利良(としなが)とともに
越前へ逃げた。
利良は、斎藤妙純の孫。
越前は、戦国大名朝倉氏の領国。
当主は、朝倉孝景。
孝景の母は、美濃の実力者斎藤妙純の女。
利良にとっては、叔母に当たる。
したがって、孝景と利良は従弟どうしの関係である。
その縁を頼ったのだろう。
【参照】9光秀という男 7美濃の争乱 小
第63話 1/2
永正十四年1517、美濃。
守護代斎藤利良は、嫡男頼武を守護に据えようとしていた。
守護土岐政房は、二男頼芸に跡目を継がせようと考えていた。
長井氏は、頼芸を支持した。
長井新左衛門には、野心があった。
美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。
十二月、戦いが勃発した。 「宣胤卿記」
美濃は、内乱状態に陥った。
初戦は、頼武方が勝った。
光秀の明智氏は、頼武方に与した。
永正十五年1518、再び戦いが起きた。 「宣胤卿記」
今度は、頼芸方が勝利した。
斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。
越前の守護は、朝倉氏である。
当主は、朝倉孝景。
孝景は、頼武を庇護した。 「御内書案」
◎土岐頼武は、朝倉孝景の妹を妻に迎えた。
◎光秀と越前の関係は、ここに原点があった。
土岐氏と朝倉氏は、縁戚関係になった。
両氏は、強い絆で結ばれた。
土岐政房、没。
頼武は、孝景の支援を受け、再び、美濃に入国。
頼芸勢を蹴散らし、守護に復帰。
美濃は、暫し、平穏がつづく。
【参照】9光秀という男 7美濃の争乱 小
第63話 2/2
頼武は、孝景の妹を妻とした。
光秀は、越前と関係が深い。
永正十六年1519、ここで、流れが変わった。
斎藤利良は、この機を逃さなかった。
朝倉孝景がこれを支援した。 「東寺過去帳」
斎藤利良は、美濃に帰国した。 「汾陽寺文書」
土岐頼武が美濃の守護になった。
暫し、平穏がつづく。
◎土岐頼純の誕生。
やがて、土岐頼武に嫡男頼純が生まれる。
母は、朝倉孝景の妹。
両氏の絆の結晶である。
ところが、平和は長続きせず。
美濃は、大乱となった。
結果、頼武方の大敗。
頼武は、行方不明。
斎藤利良は、戦死した。
この時、頼純は、まだ赤子だった。
【参照】9光秀という男 7美濃の争乱 小
第64話
大永四年1524、美濃。
土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。
大永五年1525、長井長弘と新左衛門が巻き返しを図った。
美濃は、大乱となった。
頼芸派が大勝した。
頼武は、行方知れず(没落)。
斎藤利良、死す。
長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。
長井新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。
土岐頼芸が美濃の守護に就いた。
新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。
新左衛門の野心は、止まることを知らず。
◎同じ頃、光秀、誕生。
光秀は、大永四年1524±四年頃の生れと考える。
【参照】11光秀の年齢 5結論 小
第77話
☆光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
◎光秀は、長じて後、この頼純の家臣となる。
光秀は、「土岐の随分衆なり」。
【参照】2立入宗継の証言 小
第53話
光秀は、土岐氏の家臣だった。 「立入左京亮入道隆佐記」
光秀は、随分衆だった。
⇒ 次へつづく 第156話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前