見出し画像

本能寺の変1582 【重史83】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史083】 「東京大学史料編纂所蔵」 

はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←  
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史083】 そ第21話            

①御入洛の儀に就いて、重ねて、御内書を成し下され候、

②上意次第、不日なりとも御供奉の儀、無二その覚悟に候、

                 「東京大学史料編纂所蔵」

 永禄八年1565
 義昭は、近隣諸国の大小名へも、御内書を送った。
 謙信ばかりでは、なかった。
 当然、信長へも、家康へも 。
 「御内書」
 義昭は、支援を要請した。

 信長との交渉は、すでに始まっていた。
 同年(永禄八年)、十二月。
 御内書に対する信長の返書である。
 「重ねて」、とある。
 すでに、「複数回」送られていた。
 かなり、積極的である。 

  御入洛の儀に就いて、重ねて、御内書を成し下され候、
  謹みて、拝閲致し候、 

 信長は、義昭への協力を約束した。
 「度々」、とある。
 信長は、「複数回」、応諾の返事を伝えてあった。
 義昭の期待が膨らんでいく。 

  度々、御請け申し上げ候如く、
  上意次第、不日なりとも御供奉の儀、無二その覚悟に候、 

 行うは、難し。
 義昭は、越前の朝倉義景・若狭の武田義統にも、協力を要請していた。
 なれど、両者は、動かず。
 いや、動けず。
 ・・・・・。
 それぞれが、それぞれの事情を抱えていた。 

  然らば、越前・若州、早速、仰せ出だされ、
  尤もに、存じ奉り候、

 細川藤孝が、信長の窓口だった。
 信長と藤孝の交流は、この年から始まった。
 
  猶、大草大和守(公広)・和田伊賀守(惟政)、申し上げらるべきの旨、
  御取り成し仰ぐ所に候、
  恐々敬白、

   十二月五日           信長(花押)
    細川兵部太輔殿
                    (「東京大学史料編纂所蔵」)

 藤孝は、次第に、信長へ、のめり込んでいく。
 その延長線上に、光秀と藤孝の出会いがあった。
 そして、このことが、光秀と信長の邂逅へと繋がる。
 
すなわち、細川藤孝が、二人の接点となった。


 【引用】そ第21話 ◎第21話 第21話



 ⇒ 次へつづく


いいなと思ったら応援しよう!