本能寺の変1582 【重史89】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史089】 「中島文書」③-1/④
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史089】 そ第25話①
この期に至り、織上(織田上総介)違変せしめ候、
「中島文書」③-1/④
永禄九年1566、八月~閏八月。
→【重史088】 そ24 公方様御入洛につきて、織田上「中島文書」①②/④
→【重史089】 そ25① この・・・織上、違変せしめ「中島文書」③-1/④
→【重史090】 そ25② 織上、天下の嘲弄、過ぐべか「中島文書」③-2/④
→【重史091】 そ26① 織上、・河野島へ執り入り候「中島文書」④-1/④
→【重史094】 そ27① ①風雨濃②織上、敗軍仕り候「中島文書」④-2/④
信長は、上洛を断念した。
同、二十二日。 →【重史086】 そ第23話
約束の日。
信長は、動かず。
「織上違変せしめ候」
細川藤孝、下向。
催促すれども、・・・・・。
一、織田、江州を罷り透(通)るべく、路次番等も相調ふの間、
参陣差し急ぎ候様にと、
細兵、重ねて、尾(尾張)へ下向候て、催促のところ、
この期に至り、織上(織田上総介)違変せしめ候、
信長は、疑い深い。
激動する時代。
先のことなど、誰にもわからない。
生きること、すなわち、「罠」に嵌まらぬこと。
信長は、用心深い。
斯くなることは、想定の内。
「美濃の龍興」
信長は、斎藤龍興を信用していない。
原因の全ては、そこにあった。
油断ならぬ人物、なのである。
義昭は、約束を反故にされた。
和睦を進めている最中に。
「案々、図り候条」
全く、思いもかけぬことであった。
「不時、新たに候」
義昭は、大きなショックをうけた。
「御無興」、「言語道断」、「御手を撃たるゝ」。
その衝撃は、計り知れない。
此方(斎藤義龍)には、兼ねて、案々図り候条(くだり)、
さらに、不事(時)新たに候、
公儀(義昭)、御無興、言語道断、御手を撃たるゝの由に候、
賢察、過ぐ候、
(「中島文書」③-1/④)
幕府の権威は、疾(と)うの昔に失せていた。
これが、戦国時代後半の真の姿=現実。
戦国大名にとって、幕府(将軍)とは、
「利用すれども」、「頼るべからず」、なのである。
信長は、見事に、これを実践した。
そして、本能寺に死す(49歳)。
義昭は、それに固執した。
後年、秀吉の御伽衆となる。
備後鞆(とも)にて、病没(61歳)。
これが、二人の生き方。
人の人生は、わからない。
⇒ 次へつづく