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本能寺の変1582 【重史85】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史085】 「和田家文書」 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史085】 そ第22話

①早々、先々、尾州へ下国の事肝要に候、

②急度、織田参洛候様、馳走、此の節に候、

③如何様にも、出勢の事、急ぎ申し度く候、

                      「和田家文書」

 永禄九年1566、六月。
 藤孝は、尾張に、踏みとどまっていた。
 
交渉は、いよいよ、「詰めの段階」に入った。

 惟政の方は、先に、帰っていたようである。

 ところが、状況が変わった。
 藤孝は、急ぎ、義昭へ、和田惟政の派遣を要請した。

 以下は、義昭が、和田惟政に送った書状である。
 これだけでは、まだ、よくわからない。      

  尾州より、兵部大輔申し上げ候、

  早々、惟政、罷り下るべくの由、申し候間、
  明日にも、小者一人にてなりとも、罷り下るべき事、頼み入り候、

 信長は、迷っていた。
 長引くのには、理由があった。
 何事かを言ったらしい。

  尾張守(信長)申すに付き、

 義昭は、惟政に命じた。
 上洛の事。
 必ず、成し遂げねばならぬ。 
 とにかく、尾張へ、急げ。

  子細の由候へども、
  我々、此の分、申し付くる由にて、
  早々、先々、尾州へ下国の事肝要に候、

  急度、織田参洛候様、馳走、此の節に候、

 義昭は、不安だった。 
 
信長こそ、頼みの綱。
 断られれば、すべてが水泡に帰す。

 
 存じ申し上げ候如く、方々調略の子細候間、連々候ては如何候旨、
  如何様にも、出勢の事、急ぎ申し度く候、

  呉々、先々、明日にも下国頼み入り候、
  かしく、
                      (義秋)
     六月十一日、           (花押)

  (宛名ウハ書)
  「
              和田伊賀守とのへ 」
                         (「和田家文書」)


 【引用】そ第22話 第22話



 ⇒ 次へつづく

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