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本能寺の変1582 【重史79】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史079】 『信長公記』 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史079】 そ第20話①            

①二男御舎弟南都一乗院義昭、

②或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、

③和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、

                       『信長公記』

 永禄八年1565
 義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。
 覚慶は、一乗院に幽閉された。
 以後、彼の人生は、時代の波に大きく翻弄される。

  然うして、二男御舎弟南都一乗院義昭、当寺(興福寺)御相続の間、
  御身(義昭)に対し、聊(いささ)か以て野心御座なきの旨、
  三好修理大夫・松永弾正かたより宥(ゆる)し申され侯。

  尤(もっと)もの由仰せられ侯て、暫(しばらく)、御在寺なさる。
 
 この覚慶こそ、後の足利義昭である。 【 人物 】
 義昭は、天文六年1537の生れ。
 信長の三つ下。
 この時、29歳。
 父は、室町幕府第十二代将軍・足利義晴。
 母は、関白・近衛尚通の娘(慶寿院)である。
 義輝は、一つ上。
 同腹の兄。
 幼くして、母方の叔父にあたる時の関白近衛稙家の猶子となり、
 奈良興福寺の一乗院に入って、「覚慶」と名乗った。
 永禄五年1562、一乗院門跡を嗣ぐ。

 義昭(覚慶)は、奈良を脱出した。
 義昭は、夜陰に紛れて姿を消した。
 甲賀の和田惟政の館へ入った。

  或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、
  和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、
                          (『信長公記』)


 【引用】そ第20話① ◎第20話 第20話



 ⇒ 次へつづく

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