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本能寺の変1852 その一因 2(3)光秀の嫡男 そ第11話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2光秀と光慶 (3)光秀の嫡男 そ第11話③ 

はじめに ←目次 ←その一因 目次大 概説 目次中 ←
2光秀と光慶 
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 ← 
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

(3)光秀の嫡男 そ第11話③

 【参照】テ第6話 ◎第6話 第6話
 【参照】テ第7話 ◎第7話 第7話
 【参照】     ◎第9話 第9話

 【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 第10~15話 ◎小   小
          ◎第10話① ◎小10① 第10話①  小
          ✓           第10話②  小 
          ◎第11話  ◎小11  第11話   小
          ◎第12話  ◎小12  第12話   小
     テ第13話 ◎第13話  ◎小13  第13話   小
          ◎第14話  ◎小14  第14話   小
          ◎第15話  ◎小15  第15話   小

 【参照】2光秀と光慶 ← (3)光秀の嫡男 ←
  1信長の後継者 そ第5話① そ第5話② そ第5話③
          そ第6話①
  2光秀の後継者 そ第6話②
  
        そ第7話① そ第7話② そ第7話③ そ第7話④
          そ第7話⑤ そ第7話⑥ そ第7話⑦ そ第7話⑧
          そ第7話⑨ そ第7話⑩ そ第7話⑪ そ第7話⑫
          そ第7話⑬ そ第7話⑭ そ第7話⑮ そ第7話⑯
          そ第7話⑰ そ第7話⑱ そ第7話⑲ そ第7話⑳
          そ第7話㉑ そ第7話㉒ そ第7話㉓
          そ第11話① そ第11話② そ第11話③ そ第11話④

2光秀の後継者 3光秀は、明智の将来に不安を感じていた。

③光秀は、粛清を怖れていた。

21石山本願寺は、西国攻めの要の地。
       →◎第11話 第11話
  目の前は、海。
  瀬戸内海は、中国・四国・九州へとつづく「海の道」。
  石山本願寺は、これら三海道の出発点。
  これすなわち、西国攻めの要の地。

  先ずは、中国、毛利。
  そのための九州。
  信長は、大友氏と島津氏に停戦を命じた。
  「大友と島津と干戈の段」、とある。
  両者は、九州の覇権を巡って戦っていた。

  八月十二日(天正八年)
  すなわち、「和睦」。
  仲裁役は、前関白 近衛前久。
  大役である。
  以下は、信長が、前久に、その旨を命じたもの。

   連々、面拝を以って申し入るる如くに、大友と嶋津と干戈の段、
   然るべからず存じ候、
   所詮、和睦せしめて尤に候、

  信長は、自身が毛利攻めに出陣すると言っている。   →そ第11話①
  

   大坂落着の条、来年は出馬、毛利追伐せしむべく候、

   其の段(きざみ)、双方、別して粉骨、天下に対し大忠たるべく候、
   其の御心得をなされ、
   伊勢因幡守に仰せ含められ、差し下さるべき事専一に候、
   恐惶謹言
    八月十二日          信長
    「 近衛殿    信長 」
            (「島津家文書」「織田信長文書の研究」885)

  近衛前久は、天文五年1536の生れ。         →【 人物 】
  信長の二つ下。
  天正三年1575以降、信長と、親交が深い。
  父は、関白 近衛稙家。
  稙家の妹(叔母)が足利義昭の母 慶寿院。
  したがって、前久と義昭は、従弟の関係になる。

  信長は、石山本願寺を、西国攻めの本陣にしようとしていた。
  以下は、この二年後、天正十年1582五月七日、信長が、三男信孝
  に、四国への出陣を命じたもの。
  この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。
  すなわち、信長は、西国攻めの総指揮官として、自らが出陣し、
  淡路島に本陣を置いて、そこから、中国・四国・九州方面を見据える
  つもりだった。

  石山本願寺の時(二年前)と、同じ発想である。

  なお、この頃、秀吉は、中国備中にて、高松城水攻めの最中。
  秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
  おそらく、連日のように、報告が入っていたものと思われる。
  信長に、出陣のタイミングを報せる書状が届くのは、この数日後。
  五月十七日、光秀に、出陣命令が下る。
 
   今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
 
   一、讃岐国の儀、
     一円、其方に申し付くべき事、

   一、阿波国の儀、
     一円、三好山城守に申し付くべき事、

   一、其外両国の儀、
     信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事
 
   右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
   国人等の忠否を相糺(ただ)し、
   立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
   政道以下、堅く申し付くべし、

   万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
   忠節たるべく候、
   能々(よくよく)、其意を成すべく候也
 
     天正十年五月七日     (朱印)
       三七郎殿 
      (「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究下1052」)



 ⇒ 次へつづく

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