本能寺の変1582 【重史91】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史091】 「中島文書」④-1/④
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史091】 そ第26話①
織上、当国境目へ出張候、・・・河野島へ執り入り候、
「中島文書」④-1/④
永禄九年1566、八月~閏八月。
→【重史088】 そ24 公方様御入洛につきて、織田上「中島文書」①②/④
→【重史089】 そ25① この・・・織上、違変せしめ「中島文書」③-1/④
→【重史090】 そ25② 織上、天下の嘲弄、過ぐべか「中島文書」③-2/④
→【重史091】 そ26① 織上、・河野島へ執り入り候「中島文書」④-1/④
→【重史094】 そ27① ①風雨濃②織上、敗軍仕り候「中島文書」④-2/④
信長は、再び、美濃を攻めた。
同(永禄九年八月)二十九日。
和睦など、出来ようはずはない。
突如、越境。
美濃に、攻め入った。
一、去月廿九日、織上、当国境目へ出張候、
その時分、以っての外、水迫り候て、河表(おもて)打ち渡り、
河野島へ執り入り候、
即時に、竜興、懸かり向かひ候、
これにより、織上引き退き、川縁に居陣候、
国の者ども、堺(境)川を限り、詰め陣を取り続け、相守り候、
(「中島文書」④-1/④)
木曽川は、美濃の山中を駆けぬけると、犬山城の付近で、濃尾平野に流れ
出る。
当時、その流路は、今とは、大きく異なっていた。
本流は、航空自衛隊岐阜基地(各務原市)の南側、前渡を過ぎた辺りから、
北西へと進路を変え、三井山の南・各務原ICの北・名鉄各務原線の南側を
通って、現在の境川(美濃・尾張の国境)となるルートを流れていた。
本流からは、多くの支流が生れ、それらが、互いに、入り組み合いなが
ら、北から、南へ向かって流れ下る、というような状況だった。
つまり、一帯は、広大な川の中に、大小さまざまな島々(中洲)が、数多
く、浮かんで(混在して)いるような状況だった。
河野島も、その様な中洲の中の一つだった。
これで、和睦は、消滅した。
生きるか、死ぬか。
「信長」と「龍興」。
共存など、あり得ぬ話だった。
義昭は、甘かった。
現実を直視できず。
期待だけが先走った。
結局は、時期尚早。
「無理」を、夢見ただけのこと。
結果、「元の木阿弥」。
これまでの苦労は、全て、水泡に帰した。
義昭は、失望した。
最早、信長を信用せず。
細川藤孝は、判断を誤った。
結果としては、そうなる。
「大手柄」は、一瞬にして、「大失態」に転じた。
主君の命とはいえ、・・・・・。
責は、己に有り。
藤孝の受けた衝撃もまた、相当、強烈なものであった。
期待が大きければ大きいほど、その反動も大きい。
細川藤孝は、面目を失った。
否、窮地に追い込まれた。
自信喪失。
人間不信。
これ以後、暫くの間。
沈黙の時がつづく。
⇒ 次へつづく
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