「働く」ことが正義になってしまう人々。
力を入れて取り組んだことは、どれもこれもがうまくいかない。最初は楽しくてやりがいを感じ取り組めてとてもいい。だが、いつしかどうしたか分からないが、自分の『やりたいこと』と、求められることがそぐわなくなっていく。
企業で勤めるとは、その企業が求めていることをこなさなければならない。求められることを懸命にやっていると、スムーズにこなせるようになり、やがて新しいことをプラスで任されるようになる。こうして与えられる業務が徐々に増加して行き、いつのまにか新しいことをいくつもこなしていた。また、どういったことか期待されればその分だけ、応えたいと思ってしまう習性があった。人の役に立てるのが嬉しかったのだろう。そしてその「期待」といった業務は日を追うごとに足されていき、それをどうにかやりくりするうちに、どれだけ与えられてもそれを「どうにかやりこなせる」ようになっていく。それがいいことに求められる、与えられるとも言うのかもしれない「期待」の顔をした業務はうなぎ登りに上がっていく。伴って勝手に周りからの「当たり前」の基準は簡単に上がる。少しはこなせないフリでもしておけばよかったな、なんて思う頃には「任せれば大丈夫」なポジションにまで上り詰めていた。他者からの期待を自分の生きがいと捉えてしまう程、働くことしかしていなかった。休日出勤をしたり持ち帰りで残業をこなしていた。本当は生きるために働くのに、働くために生きるといった逆転現象が何食わぬ顔で起こり得る。手段が目的と化して、目的が手段に成り下がる。こんな時間は永遠に続くわけがなく、体や精神に支障をきたし、その時初めて「働く」ことをやめられるのだ。そういったルートに乗って日々を過ごしている人は過去の私以外にも、すごく沢山居ることだと思う。
「社畜」や「仕事人間」と呼ばれる程に、働くことを生きがいとし、生活の軸に据えて人生を生きている。正しくは人生を生きてるんじゃなくて、仕事に生きているのだ。
人間は、「頑張る」「努力」ベクトルの方向性を間違えたまま、健康に生きられるようには設計されていない。
「頑なに」「張る」ことは分けて読んでみればとても不自然な状態であるし、力みが抜けない。
「努」は分解すると「女」「又」「力」となる。女が股に力を入れる。つまりは、出産や子育ての時に発揮すべきものなんじゃないのだろうか?
言葉はたいへん面白い。しっかりと見てみればいつも答えをくれている。そこから人間の『本来』や『自然』にとって合っているのか、外れているのかはすぐに読み解くことが可能である。
また、「働くこと」が通常な日常すぎて、休みの日は何をしたら良いのか分からない人がいるらしい。『なにもしない』をすれば良いだけなのだが、つい何かをしていないと気が済まない程、「動くこと」が全てになっている人がとても多い。
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