#20 音楽史⑮ 【1940年代】 音楽産業の再編成 - 入れ替わった音楽の「主役」
クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますので是非フォローしてください。今回は1940年代を取り上げてみます。
ASCAP vs BMI 著作権をめぐる対立 - 音楽産業の再編成
アメリカ音楽産業における"流行歌の製造元" ティン・パン・アレーは、もともと「楽譜出版社」の集合体としてスタートしており、その著作権管理団体といえるASCAPの設立時は楽譜の売り上げが大きな収入源だったのですが、その後のメディアの発達によって人々が楽譜を買わずにラジオを聴くようになり、収益が落ちてしまいました。
1920年代に映画業界からの楽曲使用料の徴収開始に成功したASCAPは、1930年代、音楽産業の中心となっていたラジオ業界に対しても楽曲使用料の請求を増大させていきました。ラジオ放送から得られる収益をアップすべく、1932年にはスポンサーからの総収益の2%を、33年は3%、34年は4%、そして35年からの5年間は5%をASCAPへ支払うようにCBS、NBC、ABCの各ネットワーク親会社と契約させました。
「実際の楽曲の使用数に関わらず局の収入に対して定率の使用料を支払う」というこの契約形態をブランケット方式(包括契約)といいます。1937年地点で、ASCAPの徴収した金額のうち62%が放送局から、21%が劇場や映画館から、そして残りがホテル、ダンスホール、ナイトクラブなどからの収入、というような割合になっていたそうです。
このように、ASCAPの収入におけるラジオ局の位置付けは非常に大きなものとなっており、この巨額の使用料と、ASCAPが演奏使用料を徴収する団体として独占企業である、という事から、ASCAPとラジオ局側とのあいだに大きな摩擦が生まれ始めていました。
1939年、ASCAPはさらなる著作権使用料の大幅引き上げを発表します。それまでの金額の倍以上にもなった極端な要求に対し、放送業界側は大きく反発しました。主要なラジオ局ネットワークすべてが結託し、新たな著作権代行機関が設立されることになります。それが BMI(Broadcast Music, Inc.)です。BMIの登場によってASCAPの独占状態は破られ、音楽利用者に選択肢が提示されることになりました。BMIは、ブランケット式の契約以外に、楽曲ごとのライセンスへの支払いも可能にしていきました。
1940年にASCAPとの契約期間が終了し、更新を迫られたラジオ局は、提示された使用料引き上げを断固拒否し、ASCAP管理下の曲の放送を禁止するストライキを実行しました。ラジオ局はボイコット当初、クラシック、民謡など著作権切れの曲を放送していましたが、次第にBMIに登録された楽曲の放送を増やしていきます。当時ASCAPでは、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、リチャード・ロジャースといったティン・パン・アレー系の大作曲家の作品をすべて管理していることで強力な体制を構えていました。これに対してBMIでは、ASCAPが管理を避けて無視していたローカルな音楽、ブルース、ヒルビリー、ブラックゴスペル、ラテン音楽、黒人系のジャズなどを積極的に引き受けていました。やがて、ASCAPの大作曲家優遇に不満を持つ若手作家もBMIに楽曲登録するようになります。
こうして、19世紀末以来、常にメインストリームを牽引してきたティン・パン・アレーの楽曲がしばらくの間ラジオから一切流れなくなってしまったのですが、何よりの「問題」は、ASCAP楽曲をボイコットしてもBMI楽曲によって問題なくラジオ放送が継続可能だったことです。
1941年、アメリカでは本格的なテレビ放送が開始され、中産階級の白人ブルジョワ層らのラジオ離れが進みました。こうした文化的な分断が加速する一方で、第二次世界大戦終戦後は放送に対する統制も緩まり、独立系のローカル放送局も多く生まれていきました。
「ラジオでの音楽文化」の種類が大幅に変わり、これがブルースやカントリーの発達、そしてその後のロックンロール誕生の土台となっていったのでした。
AFMの圧力 - 「実演」と「録音」をめぐる対立
音楽業界の抱えていた問題は他にもありました。
1927年のトーキー映画の誕生以降、映画館でサイレント映画に合わせて生演奏していた職業楽器奏者の仕事は激減していました。さらに、1930年代のスウィングジャズのブーム時には、ダンスホールやナイトクラブからの中継放送がはじまり、ラジオ局専属の演奏家の仕事も激減してしまいます。それまで音質面の問題でラジオ放送での音楽は基本的にレコード音源ではなく生演奏だったのですが、電気録音レコードの登場と、このような仕事の激減、さらに大恐慌が重なり、職業演奏家たちの賃金や待遇が悪化して不満が溜まっていました。
そこで、AFM(American Federation of Musicians = アメリカ音楽家連盟)というミュージシャンの労働組合が、生演奏の仕事を確保するために大手ラジオ局に対してレコード音源の放送をさせないように圧力をかけ、専属オーケストラの設置と生演奏実演の継続を約束させました。
半ば強硬手段で承諾させられた大手ラジオ局側は、採算をとるためにバンドの規模を縮小させるようになっていきました。(一方、AFMが重視していなかったようなローカルの小さなラジオ局では、レコードを用いた自由な放送がなされていました。これがラジオDJの台頭につながっていきます。)
さて、AFMの不満はまだ続いていました。〈レコード録音に参加することでライブ現場の演奏機会が減少する〉 という状態に対して不満を募らせていたのです。そこでAFMは、今度はレコード会社に対して「演奏家のギャラと印税を上げなければレコーディングをボイコットする」と主張をしはじめ、ついに1942〜1944年、AFM会長のジェイムズ・ペトリロによって半ば強引にレコーディング・ストライキが決行されました。これにより、AFMに所属していたミュージシャンはこの期間、レコーディングに参加できなくなってしまいました。
レコード会社は初め、この要求には応じず、未発表の備蓄音源などをリリースすることでつないでいたのですが、長期化するストライキに次第に限界が訪れます。結局、レコーディングの待遇改善の要求は承諾され、1944年に和解されましたが、一連の対立とボイコット期の録音の空白は、ASCAPとBMIの対立問題に加えて音楽の流行に多大な変化を与えてしまいました。
このAFMのボイコットには盲点があり、規則によりストライキは楽器奏者に限られていたので、ボーカリストはこの時期にもレコーディングが継続できたのでした。さらに、ハーモニカやオカリナなどの特殊な楽器も対象外だったため、こうした楽器やコーラスグループなどを使用して「歌モノ」の音源が多く作られたのです。
ここまでクラシックにしろビッグバンドジャズにしろ、「歌の無い器楽」と「歌のある声楽」は、両者同じように存在していて大衆に親しまれていましたが、ここにきて「歌モノ」の存在感が増し、人気が上昇していくことになります。一方で編成の縮小のあおりを受けてスウィングジャズは衰退してしまいました。バンドとしては小コンボ編成の音楽が主流の時代になっていきます。
レイスレコードからリズム・アンド・ブルースへ
ここで「ブルース」というジャンルにフォーカスしてここまでの状況をまとめてみます。
まず、ジャンルの発生から発展の流れをおさらいすると
こうした音楽が1940年代に急速に注目を浴びるようになったのでした。その背景には、先ほど書いた音楽産業の対立問題などが絡んでいたのですが、再度そのあたりをふまえてまとめてみますと
このような経緯で発達していった黒人音楽市場において、それまで「レイス・レコード」と呼ばれていたジャンル名が「リズム・アンド・ブルース」と呼ばれるようになりました。
(これを略して「R&B」ともいいますが、今日R&Bといえば1990年代以降の“コンテンポラリーR&B”を指すことのほうが多いため、僕はこの時代のものは区別して正式に「リズム・アンド・ブルース」と呼ぶほうがわかりやすいと思っています。)
また、1930年代から、ギターの音を電気増幅させる試みが進んでいっており、徐々にアコースティックギターからエレキギターへと進化の兆しが見えていました。このようなギターの音色もブルースを特徴づけていきました。
レイスレコードの登場により注目を浴びた原始的なフィーリングを持つ傾向の「ブルース」アーティストとしては、マディ・ウォーターズやB.B.キングが代表的です。
同時に、シティブルースやスウィングジャズの流れを持った小規模コンボ編成のバンドも人気となり、それらが包括して「リズムアンドブルース」と分類されるようになったのでした。ビルボードチャートに「リズム・アンド・ブルース」のジャンル分類が登場したのは1949年のことです。
政治性と結びついていった「フォーク」
1930年代は、原始的なブルースやヒルビリー(カントリー)が顕在化するとともに、アメリカのルーツミュージックを遡る調査も進み、「民謡(フォーク)」として、アメリカの歴史文化の体系が形成されていきつつありました。 地方のブルースやワークソング、エスニック文化、南部農村の調査によって、アメリカ民謡のアーカイブ化が進められた、こうしたルーズヴェルト政権下での公的な動きのほかに、一般市民の間でも民謡・フォークへの関心は高まっていきました。
そして第二次世界大戦の戦時中、さらに左翼的な政治性と結びついていくことになります。ここでは、ウディ・ガスリーが重要な働きをはたしました。各地を回りながら土着の古い民謡に新しい歌詞をつけて広めていったのです。労働運動にもかかわり、貧困をテーマにした曲も残しました。同じように政治運動、環境活動などに精力的に取り組みながら活動していたピート・シーガーとともに、アルマナック・シンガーズを結成し、「歌う新聞」として知られました。
このような「民謡」は、音楽的には、16世紀ごろのイギリスを起源とし、アメリカ植民とともに伝えられた民俗音楽から連なるものと考えられており、ヒルビリー(カントリー・ミュージック)と同じルーツであるといえますが、「フォーク」という場合の性質としては、社会問題を提起する政治的・左翼的な「プロテスト・ソング」の性格がより重視されました。
戦後、40年代後半~50年代前半、共産主義者を公職から追放する「赤狩り」が横行した時代には政治性はさらに先鋭化していきました。このような南部起源の民衆音楽がニューヨークに持ち込まれて流行したのが「アーバン・フォーク・ムーブメント」です。ピート・シーガーが中心となって1948年に結成したザ・ウィーバーズがその代表です。
米ソの冷戦構造の最中、ザ・ウィーヴァーズの面々は共産主義者として容疑をかけられ、音楽活動を制限されたりしまいます。アメリカ共産党に入党したピート・シーガーも活動の場を制限されてしまいました。しかし、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの音楽が、後に「フォークロック」を生み出すアーティストにとっての重要なルーツとして、大きな影響を与えたのでした。
カントリーミュージック
レイス・レコードによる黒人ブルースのジャンル化に対応するように、「白人の心のふるさと」として統合化されていったジャンル「ヒルビリー」もまた、同じく1940年代の音楽業界の対立と再編成の影響により、全米のラジオで流れるようになります。そして、ヒルビリーという語が差別的なニュアンスを含んでいたことから、「カントリーミュージック」と呼び変えられて注目されるようになりました。
「カントリー」は、黒人に対する否定性だけではなく、「フォーク」に対する否定性も含んでいきました。1930年代にはフォークミュージックは民衆の音楽として共産党に評価されており、第二次大戦後の冷戦開始で共産主義者に対して「赤狩り」が横行するようになると、メディアは共産主義と結びついた「フォーク」の語を避けて「カントリー」という言葉を流通させるようになったのです。
都市の音楽( =「ユダヤ人のティン・パン・アレー」「黒人のジャズやブルース」)や、「共産主義者のフォーク」に対して、「地方の白人こそ本来のアメリカ人である」という、愛国心、保守的価値観、ノスタルジーを内包していったのが「カントリー」となっていました。
カントリーは、ナッシュビルが中心地として注目され、ローカルラジオ「グランド・オール・オプリ」が成功して全国放送されるようになり、定着していきました。
アーティストとしてはハンク・ウィリアムズなどが登場し活躍したほか、作曲家としてはフレッド・ローズが多くのヒット曲を産み出しました。
さらに、カントリーミュージックのサブジャンルとして「ブルーグラス」という音楽も誕生しました。フィドル、マンドリン、ギター、ウッドベースなどの楽器による伝統的なバンドで、従来のヒルビリーよりもテンポが速く、楽器のソロ回しなどもなされ、難度の高い演奏が特徴です。ビル・モンローが創始者とされ、アール・スクラッグスもそれに続いて人気となりました。
ブラック・ゴスペルとコーラスグループの発生
1930年代に成立したブラックゴスペルはその後さらに発展していきました。特に、AFMのストライキによって楽器演奏録音の空白が起こり歌唱人気が起こったため、アカペラコーラスの文化が土壌として存在していたゴスペルは注目され、その後のコーラスグループの台頭と人気へ繋がっていきました。演奏面ではジャズやリズム&ブルースとの融合も起こっていました。
戦後はゴスペルの黄金時代と言われ、特にマヘリア・ジャクソンはゴスペルミュージック史の中で最も影響力を発揮したシンガーの1人です。コーラスグループとしてはゴールデン・ゲイト・カルテット、スワン・シルヴァートーンズ、ファイヴ・ブラインド・ボーイズなどが活躍しました。
ラテン ‐ キューバン音楽とブラジリアン音楽の命運
キューバ本国の重要な基幹音楽となったソン/ダンソンが1920~30年代に「ルンバ」としてアメリカへも入ってきた後、さらにキューバン音楽は発展していきました。1930年代末、ルンバ(ダンソン)にジャズを加える形でマンボが誕生します。オルケスト・アルカーニョ・イ・スス・マラビージャスというバンドが最初にマンボのスタイルを作ったとされています。ソン・モントゥーノのテンポが速くなり、アンサンブルセクションやティンバレスが加わり、華やかになりました。
その後マンボは1940~50年代にペレス・プラード楽団によって世界的に大流行しました。ホーン・セクションの強力さによってマンボNo.5などのヒット曲を数多く残しました。もちろん、ブルースなどと同じく、BMIによってラテン音楽もASCAP楽曲に代わって全米のラジオで数多く放送されたことも流行の一因でしょう。
このように華やかに発展していったキューバン・ミュージックとは対照的に、ブラジリアン・ミュージックの熱気は冷めていました。ブラジルで生まれていた音楽はサンバでしたが、この時代、ブラジルの若者にとって既にサンバは古く感じられ、アメリカのジャズやポップスのほうが人気となっていたのです。新たなブラジリアン音楽の登場までもう少し待つことになります。
モダン・ジャズのはじまり - 「ビバップ」
ニューオーリンズやシカゴでの黒人ブラスバンドから確立し、20年代にはティン・パン・アレーのポップスの流行も含めて「ジャズ・エイジ」と呼ばれるほどの人気となり、30年代にはダンスミュージックとしてスウィングジャズの全盛期となった「ジャズの歴史」は、40年代に大きな転換点となりました。
1940年頃、ダンスバンドとしての演奏に飽き足らなくなったミュージシャンたちは、お店でのお金になる「わかりやすいスウィングジャズ」のステージを終えた後に、その場だけのメンバーで即興演奏をする「ジャムセッション」というものを夜な夜な行うようになりました。そこでは、譜面に書かれたままの演奏をするのではなく、曲のメロディーはあくまで「合図」であり、そのコード進行をもとにして各奏者それぞれが競い合うように即興演奏を繰り広げるというものでした。聴きなれた曲でも恐ろしく速いテンポで演奏したり、別のキーで始めたり、同じ進行であっても置き換えられる別のコード(代理コード)を使うことで響きを複雑化させていくなど、ミュージシャン同士の激しい競争の場と化していたのでした。
このようなジャムセッションは、ニューヨークのハーレムにあった「ミントンズ・プレイハウス」というジャズクラブから発祥したといわれており、次第にいろいろなお店で終演後にジャム・セッションが盛んに行われるようになりました。白人主導の楽譜によるコマーシャルジャズに飽き飽きしていた黒人ミュージシャンたちは、欲求不満を発散するかのごとく、聴衆のことは関係なしの自分たちの思うままのプレイで、テクニックの極限に挑戦し、複雑な音楽を創り出す実験のような演奏が行われていきました。
このようにして生まれた音楽スタイルがビバップ(「ビー・バップ」や、単に「バップ」ともいわれる)と呼ばれるようになりました。ニューオーリンズジャズ~スウィングジャズまでの初期のジャズ(アーリージャズ)と区別し、この「ビバップの誕生」から1970年頃の電子楽器との融合までの期間をモダン・ジャズと呼びます。第二次大戦後、急速にポピュラリティを失ったスウィングに代わって、ビバップがジャズの主役になっていきました。
アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが「ビバップの創始者」「モダンジャズの父」「ジャズの革命児」などといわれています。チャーリー・パーカーとともにビバップを形作っていったプレイヤーには、ディジー・ガレスピー(Tp)、バド・パウエル(Pf)、ケニー・クラーク(Dr)、セロニアス・モンク(Pf)らが挙げられます。
当初、お客に向けたものではなく、終演後のミュージシャン同士のアンダーグラウンドな「スポーツ」であったことに加え、このビバップの黎明期(ジャズの過渡期)の時期にちょうどAFMボイコットが起こっており、最初期の録音はほとんど残っていません。その後の数年も、3~4分しか記録できないSPレコードしかなかったため、長々と行われた本来の演奏のようすは、長時間録音の可能なLPレコードが1948年に登場するまでは記録できていません。
「アンサンブル中心のビッグバンド」から「即興演奏中心の少人数のコンボ編成」へと変化したことで、
「踊るための音楽」から「座って鑑賞すべき音楽」へと変化し、
ジャズは「娯楽・芸能」という立ち位置から「芸術」としての地位へ
と変わっていきつつありました。
(ちなみにこのころクラシックの流れを持つ「現代音楽」は、もはや聴衆を相手にしなくなった「実験音楽」の段階に入っているので、アメリカにおいて「芸術的な鑑賞」を志向する聴衆層はモダンジャズへと移行していったのではないかとも考えられます)
実は、スウィングを引き継ぎ、規模縮小されながらも小コンボ編成にてダンス・エンタメ路線のジャズバンドは継続していたといいます。そのようなバンドはブルースのフィーリングを強めており、「リズムアンドブルース」として多くの黒人聴衆もむしろそちらを好んで聴いていたようですが、「スウィングジャズからモダンジャズへ」という革新的な進化のストーリーを前に「ジャズ史」の記述からは忘却されていきました。
こういった、一方向のストーリーになぞらえて選択された歴史の記述によって生じた、その基準に当てはまらない音楽への「蔑視」や「忘却」の問題は、これまでの記事でさんざん指摘してきた「ドイツ中心のストーリーになぞらえられて推し進められてしまったクラシック史」や、「原始的ブルースとシティブルースの時系列のズレを産んだブルース史」の記述に起こったことと非常に似ていると思いませんか。
これらからわかるのは、「音楽がどのように進化したのか」という物語をある一分野の視点で書くということは、それ自体がある種「音楽の選別=優劣を決める行為」を含んでいるという点です。こういった積み重ねが、こんにちのジャンル間の価値観の壁の構築に繋がっているのだと僕は考えています。こうやって音楽史の記事をnoteに記述している時点で、この指摘はブーメランで僕にも当てはまってしまうのですが、このnoteではなるべく同時代現象を区切って多分野を書く、という方法でそれを克服しようとしています。
また、「未来にどのような音楽史の視点・ストーリーを残すか」という意味で、現在進行形の音楽を取り扱う「音楽評論」は非常に重要な存在であるといえますし、デリケートでシビアな諸刃の剣であるともいえるのではないでしょうか。
ともあれ、大衆路線を捨てたジャズはこのあと独自発展していき、「ジャズ史」的にこのあとの時代のほうが最盛期となります。しかし、現在のポピュラー音楽史の主流の視点である「ロック史」からはそこまで言及されることはなく、スウィングまでの大衆ジャズをもって、ジャズというジャンルそのものがブルースやゴスペルとともに「ロックの誕生のマエフリ」という位置づけに収まってしまっています。このズレが、現在においてもジャズとロックの価値観の差となっているのではないでしょうか。
独自の道を歩むことになったミュージカル
さて、スウィングジャズと同じく、音楽史のメインストリームからは退いてしまったティン・パン・アレー系の音楽ですが、なにも別にブロードウェイの劇場が滅びたわけではもちろん無く、クラシックのオペレッタから発達した「ミュージカル」としては独自発展していきます。
オスカー・ハマスタイン、レナード・バーンスタイン、フレデリック・ロウなどによって数多くの名作ミュージカルが産み出されていきました。
こういった場で生み出された音楽は、それまでと同じくスタンダード曲としても残っていき、セッション曲の題材としても引用されていきました。また、映画界でも「ミュージカル映画」は一つの人気ジャンルとして継続しており、その存在と影響力は決して滅んでいません。
映画音楽
ミュージカルでなくとも、映画主題歌がヒットし、スタンダードとして残るようになったケースは引き続き存在します。特にヴィクター・ヤングは数々の映画主題歌を提供し、ヒットを量産しました。これらの楽曲もやはり、モダンジャズのセッション曲のスタンダードとしても引用されていきました。
また、マーラーなどオーストリア・ウィーンのロマン派の本格的クラシックルーツを直接引き継いだといえるハリウッド映画のサウンドトラックも、たとえクラシック史に記述されることは無くとも滅びることなく独自発展していきます。その作曲家としては、ヒューゴー・フリードホーファー、アレックス・ノース、バーナード・ハーマン、デイヴィッド・ラクシン、フランツ・ワックスマンらが牽引していました。
「現代音楽」は音の管理法を研究する時代へ
さて、こういった映画音楽などの「下等音楽」には目もくれない正統な「西洋音楽史」はというと、シェーンベルクがもたらした調性の否定によって「現代音楽」という “音楽史の終着点” に到達したという段階です。
20世紀前半、その終着点を見定めつつ、ブゾーニやストラヴィンスキーらは「新古典主義」という変則技を使って、ロマン派ではない形で調性音楽の可能性を汲みつくそうとし、一時期の繁栄(延命)をもたらすことができました。しかし、ソビエトやナチスの出現によって多くの音楽家(特にユダヤ人)が亡命し、ラヴェルやレスピーギは戦時中に物故。コープランドやヒンデミット、ストラヴィンスキーは急進的な作風に転じ、バルトークも1945年に亡くなりました。主要な引き継ぎ手がいないまま、調性音楽は前衛主義の陰に隠れ、芸術運動としての終焉を迎えることになりました。
「十二音技法」以前の作曲家は既に過去のものと断じられ、まだ健在だった「フランス六人組」も前衛音楽を前に「時代遅れ」と見なされるようになっていました。「新しい音楽」が声高に議論されるようになった中で、「新古典主義」は無調のインパクトに勝てず、消滅していきました。バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、シェーンベルクに至る「ドイツ音楽の歴史を前へ前へと進めていかなければならない」という進歩主義的歴史観(その「進歩」の基準が実は和声法などの作曲技法にあることが暗黙の了解であった)が、メロディーやハーモニーを排除、疎外するに至ったのでした。
このような芸術音楽史が学問としてまともに論じられているわけですが、まさか人類の音楽すべてが「無調・前衛」に走ったわけではありません。紹介してきたとおり、既にこの段階でアメリカ大衆音楽はレコードやラジオの発達とともに隆盛を極め、人々にとっての公式文化は「ポピュラー音楽」になっていました。メロディ・リズム・ハーモニーという音楽の三大要素は人類の音楽史から疎外されたわけでは無く、むしろ「大衆音楽」として強化され、新しいメディアによって世界的に伝播したと言っていいわけです。
しかし、それが逆にクラシックの創作界から見ると、
という論理に凝り固まっていったのです。
(ナチスや社会主義リアリズムにおいて前衛音楽が「退廃的」と弾圧され、わかりやすさが称揚されていったことへの反動もあったのでしょう。)
そもそも西洋の芸術音楽は当初より、少数のエリート階級のための音楽でしたが、それは教会や王侯貴族、そして19世紀はブルジョワ階級や教養市民といった後ろ盾を持っていました。長らくのパトロンだった教会と王侯貴族は、フランス革命を機に音楽史の表舞台からは撤退していきましたが、その後を継いだ19世紀ヨーロッパのブルジョワ社会もまた、二度の大戦を通じて消滅してしまったのです。公衆を失った「芸術音楽」は人々の「公式文化」ではなくなり、完全に覇権を失ったヨーロッパ大陸で「研究」をつづけた音楽家や、アメリカへ亡命し「学問」として引き継いだ「楽壇(学者)」のためのアングラ音楽の一種として、「現代音楽」が展開していきます。
ドイツ哲学において「テーゼとアンチテーゼをぶつけ合わせて上の段階へと発展させていく」というヘーゲルによる弁証法を受け継いだ「唯物史観」とを前提としてマルクスが推し進めた「共産主義革命」が、「旧体制」を破壊して制約のない平等社会を作ろうとしたにもかかわらず、「新たな権威」「新たな呪縛」を生んでしまったのと同じように、
ヘーゲルと同い年であるベートーヴェン由来のドイツ音楽美学の進歩主義を受け継いでシェーンベルクが推し進めた「調性の破壊」は、伝統の呪縛を壊して新しい自由な音楽を作ろうとしたにもかかわらず
という「新たな呪縛」を産み出してしまったといえます。
戦後の“現代音楽”の系譜は「トータル・セリエリズム(総音列主義)」から始まります。これは、十二音技法をさらに追及していった理論で、音程のみならず、音価(音の長さ)、音色、強弱までもを十二音技法のように数学的に均一に「音列化」し、管理するという技法です。
メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ルイジ・ノーノ らが代表的な作曲家です。
このように、「いかに新しい方法で音を管理するか」が表現の主眼に置かれていた状況に対し、「作品」や「楽音」の概念を根底から問う実験を始めたのがジョン・ケージです。シェーンベルクに学んでいたジョン・ケージは、初期の作品では音列処理やリズム処理のあるものが多数を占めていましたが、1940年代に、グランドピアノの弦に異物(ゴム、木片、ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案します。他に、居間にあるすべての物体を叩く「居間の音楽」や、ピアノの蓋を閉める指示のある譜面など、アイデア最優先の発明作品が増えていきます。
根底の概念を問うアイデア発明の傾向は1950年代に入りさらに強まっていきます。そして、例の有名な「あの作品」を産み出すことで西洋音楽史最後の巨匠として名を遺すことになるのでした・・・。
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