天正8年(1580)1月17日は羽柴秀吉が別所長治の籠る播磨の三木城を兵糧攻めで攻略した日。信長の中国攻略に協力した長治が天正6年2月に突如として毛利に内応して籠城。三木の干殺しと呼ばれる2年弱に及ぶ包囲戦は城兵の助命を条件に長治が自刃し終結。東播磨を抑えた秀吉は西へ進むことに。
永禄12年(1569)1月6日は将軍足利義昭の仮御所の本圀寺を囲んだ三好三人衆を撃退した日。前日から攻め寄せた敵を明智光秀らが防ぐと細川藤孝・池田勝正・荒木村重など畿内の諸将が駆け付け撃退した。岐阜の信長は大雪の中を僅かな供を連れ急ぎ出立すると到着したときには数人の凍死者が出た。
天正14年(1586)5月4は信長に反旗を翻した後に茶人となった荒木村重が死去した日。信長に従い摂津国を任されたが突如有岡城に籠城。1年徹底抗戦するも毛利家の援軍が現れず城を脱出。残された一族郎党は信長に処刑された。後に亡命先の毛利家から堺へ移って茶人となり秀吉にも起用された。
天正6年(1578)10月17日は摂津・有岡城の荒木村重が毛利・本願寺と通じて信長に背いた日。村重は一年近く籠城して抵抗するも城を脱出し一族を見殺しに。自らの非道を自覚し道糞(後に秀吉が道薫に改めさせた)と名乗り秀吉に仕える茶人に。後悔し自分を責めても遅い事はいろいろありますね。
きょう買い物と昼食で訪れた伊丹で 荒木村重にちなむ地産品を見て テレビの歴史番組を思い出しました 織田信長と袂をわかち三年近く 有岡城や伊丹城で耐えた籠城戦がすごい 妻子臣下を見殺しに敵前逃亡した卑怯者とは信長側の歴史で 領民から慕われ生き延びた村重こそ勝者だったとも