【歴史小説・中編】北風の賦(5)
この小説について
この小説は、現在の神戸港に当たる、兵庫津を舞台にしています。
その地には、南北朝時代以来、「北風家」という商家がありました。
明治維新に至って、その財力で大いに尊攘の志士を助けたものの、ついには身代を傾け、倒産・絶家してしまったといいます。
しかし初めから商人だったわけではなく、そもそも武士として立身し、それに挫折したことで、やむなく商売を始めた、ということのようです。
室町時代の半ばに、北風家は二流に分かれました。
一方は「嫡家」、もう一方は「宗家」を名乗り、相当激しく対立していたようです。
しかし、その二流の北風が、全てを失うことで、再び手を取り合うきっかけになった出来事があります。
それが天正六年の「荒木村重の乱」です。
この作品が一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
どうぞよろしくお願いします。
本編(5)
「おれたちは、織田右府を叩き潰す」
瓦林加介の音声は、断固として迷いがなかった。
「お主ら一人ひとりの働きが、津の行く末を左右する。何としても心一つにして、事へ当たらなあかんぞ」
直垂の胸紐を突き出し、あくまで大きく構えている。それが隠れ家へ集まった者たちの間に、ホウッと一息つかせるような心強さを与えていた。
「せやけどよ、越後のだんな」
水手衆の顔役で鳴らす蛸八が、手無の腕毛にたかる虱を潰しながら胴間声を上げた。
「織田は、尾張美濃の田舎なんぞから京まで上ってきて、今や畿内を丸呑みにしようかっちゅう勢いや。そんな空恐ろしいくらいの武将を、おれらみたいなもんが束になったとこで、ほんまに叩き潰せるもんかいね」
「むろん、我ら一人ひとりの力は極めて小さい。しかしな、梢の一本一本がなければ、喬木にも大輪の花は咲かんぞ」
若い時分には、鼻息荒く奈良坊主どもをぶん殴っていたくせに、今やどうしてなかなか、ご立派なことを仰る加介である。
「ようぞ聞け。今までに織田の軍勢がまともにぶつかって、勝てんかった相手は二つある。
一つは、一向宗の本願寺。
もう一つは、中国の毛利。
しかもこの二つは、裏でがっしりと手を結び合っておる。
一昨年の木津川口の船軍で、毛利の警固衆は、織田方の大船を焼き払ってことごとく沈めた。
一向宗もまた、敵将の原田備中を討ち取り、難攻不落の大坂御坊に立て籠もって、織田方の主力をズウッと引き受け続けとる」
芋虫のような太い指を、膝元に広げた絵図のあちこちへ這い回らせている。
「何よりも重いのは、右府に放逐された足利公方が毛利を頼り、鞆津へ移座しとることじゃ。
それを聞きつけた越後の上杉、甲斐の武田、但馬の山名、丹波の波多野、備前の宇喜多、播磨の別所なんぞは、軒並み将軍家の旗を掲げとる。
織田は戦を続ける大義名分を失い、東西から攻め手を受け、いずれ一息に崩れ落ちるは必定よ」
「あんた、ウソをついとうな」
賭場を取り仕切っている片目の金兵衛が、耳横の垂れ髪をいじりながら口を挟んだ。
「ウソじゃと?」
「黙って聞いとったら、なんや、波多野に宇喜多に別所やと、とんだ田舎ざむらいどもやないけ。越前朝倉、近江六角に浅井、伊勢北畠、大和松永、そういう本物の大名連中は、一体どこへ行ってもうたんや。ええ? みいんな織田ひとりに平らげられ、攻め滅ぼされてしもうたんやないか。今さら残りカスどもが力を合わせたかて、大勢を覆すことなんぞできるもんかい」
加介は、据わった目つきでジイッとそちらを見返していた。
「ならばお主は、織田がこのままどこまでも力を伸ばし、いずれ日の本の全てを平らげると思うのか。どこかで大きな力が、それを食い止めることはないと思うのか」
「知るかいや、んなこたあ。おれらは武士と違うんや。誰が天下を握ろうが、そいつとそこそこにやっていけたら、別に構わんのじゃ。あんたが織田みたいなバケモンとやり合いたいっちゅうんなら、一人で勝手にやってくれや。おれら兵庫津の地下もんを、あんたのヤケクソに巻き込まんといてくれや」
金兵衛はツイと腰を上げ、穴ぼこの空いた板敷きから、土間の方へ草鞋の足を下ろそうとした。
「ならばなぜ、お主はここまでやってきた。今のおのれに不足を感じとるからやないのか。自分の生き様が、このままで良いはずがないと思ったからやないのか」
「一丁噛む値打ちがあるんか、話を聞きに来たっただけや。そやけど肝心の中身が、人任せの博打を打つばっかしではのう」
金兵衛は渋面を作りつつ、今にも立ち去らんという挙動である。
「おいッ、お主らの中で、他にも同じように感じとる者がおるんなら、今のうちにこの場から去ねや」
加介が一座を見回して言い渡すと、水手の親分蛸八が、薄汚れた膝頭を伸ばして立ち上がった。
小首を振り振り、加介の方へ冷たい一瞥をくれながら、一言も発さず金兵衛のあとへ追随しようとする。
「オイ、北風の。ちいとそこをどけや」
荘左衛門は腕を組み、戸口の柱にもたれかかったまま、一部始終を見守っていた。
朽ちかけた舞良戸の桟へ、斜めに脚を突っ張っているので、そのままでは誰も外へ出てゆけない。
「オウ、お前、何様のつもりや」
金兵衛は、手底でこちらの肩をグイと押してきた。
荘左衛門は上目で薄笑いを浮かべると、腰に差した打刀を素早く抜き上げた。
切っ先がまぶしく閃き、軽く小回りする。
ヘヘッ、と空笑いが聞こえたかと思うと、鎖骨の間から天井高く血潮が噴き上がり、金兵衛はうつ伏せにドウと倒れ込んだ。
誰もがあっけに取られ、声一つ立てられなかった。その間に、荘左衛門は蛸八の胸元まで歩み寄ると、落ち着き払った所作で、相手の土手ッ腹の真ん中を刺し貫いた。
「おごおッ」
蛸八は眼を真ん丸にし、唇の先からしとどに血糊を吐き出した。必死にこちらへすがりつこうと腕を伸ばしてきたが、軽く振り払っただけで、力なく足元へくずおれていった。
草履の裏でドン臭い体を蹴り押して刃を引き抜いた。桑染めの小袖に赤い指の跡が刷かれていた。
音もなく染み広がっていく血溜まりの真ん中で、抜き身の得物をぶら下げたまま、荘左衛門は平然と立ち尽くしていた。
「人から金を受け取り、ここまで話に深入りしときながら、ただ黙って帰ろうなんちゅうのは、えらい都合よくできたドタマをしとうらしいな」
蒸し暑い廃屋に、嫌気のさす生臭さが立ちこめてきた。加介は板の上に袴の片膝を立て、額の皺一つ動かさないでいる。
「北風の申すとおりよ」
十人ばかり残った者たちの間に、不思議と動揺は広がらなかった。ここからは、覚悟の一線が引かれているのだ。とっくに肝は座っている。どんなことに手を染めても、先の見えない境涯を振り捨て、男一匹のし上がってくれる。つまりは一等奥底のところで野心を共にした、危険なまでの同志連である。
「立ち去らなんだお主らには、これからの段取りを伝えておこう。
今や、織田方の佐久間出羽介は大坂へ釘付けになり、羽柴筑前は播磨、惟任日向は丹波へ軍を進めとる。
我らが摂津は連中の背後に当たり、ここが丸たまクルリと裏返れば、織田の諸将は敵中で孤立し、目の前に対峙しとる相手によって、てんでばらばらに打ち破られてゆく」
パン、パンと音を立てながら、絵図に記された名前を指先で弾いていった。
「この冬、荒木摂津守様は、織田右府に対して義戦の兵を挙げられる。むろん足利公方、本願寺、毛利、上杉、武田などと同調してのことじゃ。
この摂津一国、挙げて荒木様とともに立ち上がり、織田が招こうとしている暴虐の世を防がねばならん。既に下郡の郷民らは、この越後守の説得に応じ、一斉に蜂起しようと支度を進めとる」
孤立した無謀な企てではない。事後の身の振り方はとかく捨て置き、ひたすら大将首だけをつけ狙うような、吉野朝ぶりの手立てではない。
みなの郷土、摂津一国のための戦なのだ。ましてや、あらゆる栄典の源たる足利公方が背後に控えておれば、立派に花も実もある戦と呼べる。素ッ首並べたならず者どもに、そう信じさせるだけのものはあった。
「織田右府の旗印は、永楽銭じゃ」
加介は朗々と詠うように続けた。
「あの者の願いは、この天下の隅々に至るまで、銭っちゅうもんを流すことよ。銭を押し流していく力によって、おのれを天の高みにまで運ばせることよ。
その他には何もない。礼もなければ義もなく、知恵もなければ技もない。あとに残るのは、ただ力と恐怖ばかりよ。もろびとの意気地を押し潰し、ただ一色に染め上げて、人間を扱い易い道具へ変えようとするなど、断じて許されはせん。
我らは、この国の将来のために立ち上がるのじゃ」
晩秋の夕陽が焼け落ちるように沈み、焦げ色の雲を透かしながら、遠い波間にきらきらと光の粒を揉ませている。
輪田岬が南の沖へ突き出し、その東側で巻物を広げたような形の経ヶ島とともに、海の端くれを掻き抱いている。
会下山の切り立った崖のふちから、荘左衛門と加介は、兵庫の浦を見下ろしていた。
この山には、かつて北風の先祖が住みついていたが、平相国(平清盛)の経ヶ島造営の際に浜方へ移ったという。湊川の合戦においては楠木正成が陣を敷き、九州から迫り来る足利の大船団を遠望していたはずである。
今は、廻船の筵帆が音もなく行き交わし、湊に裸木の林のような艢が立ち並んでいる。寺院の瓦屋根が点々と輝く街筋のあわいを、松並木に縁取られた湊川の流れが縫っている。
「ああは言ったもののな」
加介は、思いのほかか細い声でつぶやいた。
「おれは本当は、先祖が築いた越水の城と、本貫の土地を取り戻したいだけなんじゃ」
褐色の直垂の腕を組みながら、朱に染まる海原のかなたへ、遠い眼差しを投げていた。
「国盗り、人取りを事とする連中からしてみれば、大した願いでもないはずや。なのに自分がそれにすら値せんとは、どうしても信じられへんのじゃ。だがあれこれ考え込んどるうちに、もう四十の坂を越えてもうた」
「織田信長ちうんは、そんなに空恐ろしい大将なんかい」
荘左衛門はしつこい鼻毛を抜き抜き、涙目で吹きやって潮風に乗せつつ、生返事をした。
「あれの才覚は、天下諸将の内でも群を抜いとろう。田楽狭間や天王寺での戦いぶりは項羽のようでもあり、津島の貨殖をもって一軍を養えば簫何のようでもあり、帷幕にあって謀を巡らせば陳平のようでもある」
どうも、いっぱしのサムライぶって古ぼけた漢籍の知識をひけらかすのが、加介の悪い癖である。
「しかしあれは、要するにただの病人や。平常の頭では到底なし得ん思い切りを繰り返し、たまたま賽の目を当て続けてきただけの者や。ありていに言えば、劉邦の万分の一の徳もない。足利尊氏の千分の一もなければ、三好長慶の百分の一もないやろう。いずれは必ず剣に斃れる者や。そして、それが現実になる時こそ、まさに今なんじゃ」
「ナニがありていなんか、さっぱりわからんが、まあどうでも構わんわ。お前が勝ち目ありッつうんなら、きっとあるんやろう。もうずいぶんと高くハられとうんやから、間違っても途中でおれらを切り捨てるんと違うぞ」
荘左衛門は手庇を作り、真っ向から照り返してくる西日の海を、きつく睨みつけていた。
〜(6)へ続く