本能寺の変1582 第166話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第166話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長は、京にいた。
同年、四月。
信長の上洛は、二月三十日。
以来、すでに、一(ひと)月が過ぎた。
光秀も、京にいた。
その間。
光秀は、信長と、頻繁に、接触を重ねたものと思う。
「四月、中(なか)」
斯くして、出陣の時が定まった。
信長にとって、光秀は、実に重宝な男だった。
光秀は、義昭の家臣。
美濃の出であり、越前の諸事情に精通している。
頭脳明晰。
頭の回転が速く、話の呑み込みが早い。
文武、ともに、素養があり。
行動力・実行力があった。
万事につき、卒がなく。
出来る男だった。
信長は、大いに気に入った。
「打てば響く」
ピタリと息が合った。
「同じ穴の狢」
決行の日が近づいていた。
信長にとって、光秀は、越前侵攻作戦の切り札だった。
戦うだけならば、軍勢さえあれば出来よう。
だが、信長には、大義名分が必要だった。
そのための、将軍足利義昭。
そこで、光秀の出番となった。
光秀は、見事、その期待に応えた。
となれば、次は、幕府軍の編成。
それも、無事、終了した。
そして、今。
粛々と、その時を待つ。
光秀は、この作戦に、なくてはならない男。
信長が最も頼りとした人物だった。
そう、言えるのではないだろうか。
光秀は、若狭へ向け出陣した。
同、十八日。
おそらく、この日だろう。
先遣隊として、出陣。
若狭へ向った。
越前に、あらず。
表向きは、そうなっていたのだろう。
両三日以前より、直ちに若州へ罷り越す、
(「言継卿記」四月二十日条)
光秀は、若狭熊川にいた。
同、二十日。
光秀は、細川藤孝へ書状を送った。
義昭への状況報告である。
藤孝は、参陣せず。
京に残っていた。
書中から、光秀の地位の高さを感ずる。
態(わざ)と啓上せしめ候、
仍って、今日、午の刻、熊川に至り着し仕り候、
此の表、相替わる儀御座なく候、
武田家老中、当地まで罷り出で候、
信長、越境、迎えとして、此の如くに候、
越州口幷(ならび)に北郡(近江)、何れも以って別条の子細これなく候、
珍説これ在るに於いては、夜中に寄らず申し上ぐべく候、
此れらの趣、宜しく御披露に預かり候、
恐々謹言、
(永禄十三年) 明智十兵衛慰
卯月廿日 光秀(花押)
細川兵部太輔(藤孝)殿
飯川肥後守(信堅)殿
曽我兵庫頭(助乗)殿
(「永青文庫所蔵文書」「明智光秀史料で読む戦国史」)
光秀は、浅井長政の動向を警戒していた。
余程、不安だったのだろう。
「幷に北郡」、とある。
光秀は、長政を警戒していた。
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