【3000字無料】保守的な思想の終わり——『現代思想』の『君たちはどう生きるか』特集を読む(5)
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現代思想の『君たちはどう生きるか』特集について、紹介しつつ、特集についての感想&映画についての感想を喋ったダイアログです。
0〜5の全6回の記事に分けてお届けします。
(今回は第4回! この記事だけでも読めます!)
第0回『現代思想』とは?
第1回 自己模倣する宮崎駿
第2回 鳥と飛行機
第3回 『君たち』小説版とジブリ映画版の比較
第4回 『さみしい夜にはペンを持て』を『君たち』と読み比べると現代のことがわかる!?
第5回 保守的な思想の終わり(この記事です)
第1回・第2回・第3回・第4回はこちら
話している人
母不在の時代
八角 君が「『君たち』はそこまで不自由ではない」という言い方をするときに、「ラディカル・不安定・偶然・意味不明・ランダム」という描写にこだわっているのはわかりました。
しぶ ワラワラのいた下の世界の「不安定さ」について考えるには、河野真太郎さんの論考にもぜひ言及したい。
八角 「宮崎駿は、嘘をつく母になりたかった」というタイトルの論考。
しぶ 僕は、この河野さんの論考は、特集全体の中でも特に良いものだったと思うんですけど。
八角 この論考に言及するなら、文脈が複雑だから、先に1つ補足しておいたほうがいいでしょうね。
しぶ 何について?
八角 アニメーションなどの作品を作るにあたって、「男性の欲望を投影した仕方で作る」ことに対する批判が、1つ系譜としてあること。例えば「少年が美少女に救われる」とか、そういう描かれ方への批判には、長い歴史がある。
しぶ そうですね。アニメ一般に言ってもそうだし、宮崎駿に限っても、その歴史の中に強く組み込まれているのだろうね。例えば、ある作品に「こんな女の子、現実にはいない(理想の投影になっている)」という批判があったり。逆に、次の作品が「あの批判への応答か?」と解釈されたり。
八角 そうなんですよね。だからこれは先に言わないといけないなと思いました。
しぶ ありがとうございます。河野さんの議論は、その歴史をベースとして、もう1段先に行くものだと思う。
八角 そうそう、そうそう。
しぶ 論考の筋に沿って紹介すると、まず前提として、宮崎駿は「母」にこだわりがある。そして『君たち』も明らかに「母」にこだわっている。ここまではよくある話。さらに、最近の様々なアニメ作品にも「母の不在」というモチーフが頻出していることが指摘される。
八角 最近どころか、昔からアニメ作品には母が不在だと、私は思うけどね。
しぶ 実際に母がいないだけでなく、母不在そのものがモチーフとして強く意味を持つ時代ってことかなと思います。河野さんの論考、この時点でまず面白いのが、この「母不在」の話が単に事実の説明にとどまらず、「新自由主義とポストフェミニズム」という社会的背景と絡めて(河野さんの自著『戦う姫、働く少女』を参照しながら)説明されるところですね。
しぶ ここはまだ本題じゃないんですけど、単に宮崎が「母」好きだよって話だけじゃなくて、今の時代・社会の話に位置づけるというところがまず良いなと思いました。
八角 うん、そうだね。
しぶ というところまでを前提として、いよいよ『君たち』自体について論じるパートに行くわけなんだけど。
欠如を埋める母としてのアニメ
しぶ 河野さんの論考では、「アニメ」と「母」が結びつく仕方で論じられるんです。強調しておきたいのは、概念が丁寧に扱われているということ。ここがとても良いと思った。
八角 どう良いの?
しぶ 例えば「自然」「母」などの概念を、複雑な内実を持った概念として扱っているところが良いなと思った。つまり、「それって自然だよね」「それって母だよね」と便利に使うのではなくて、「その『自然』『母』は、一般のイメージより複雑だよね」と細やかに注目しているのが良い。
八角 ああ、宮崎監督の描く戦争は本当に「戦争」なのか?(→(2)参照)という話と同じような問題だね。
しぶ そう、「宮崎駿って母が好きだよね〜」という話で終えず、その「母」の内実を細かく考えるというのは重要だと思った。
八角 「母」の内実は、どう論じられているんですか? そこが本題だよね。
しぶ 河野さんは、宮崎駿の描く「母」は「理想化」と「リアリズム化」の間をずっと揺れ動いてきたのだ、と言う。
八角 私たちの言い方で言えば「悪になりきらず、美しくもなりきらず」生きろ、ということに関係するかもね。
しぶ さらに、宮崎駿の作品もまた、母が揺れ動くのと似たような仕方で、理想と現実の間を揺れ動いているのだそうです。
八角 どうして?
しぶ 河野さんの解釈に従うと……。まず宮崎駿の世界観では、人間は生まれた時点で、制約を受けていて、可能性を失った状態にある。この「可能性」を取り戻したいという、人間の「理想主義」的な憧れを、宮崎駿は描こうとする。
八角 そこからどう揺れ動くの?
しぶ 彼の作品では、理想主義に向かうだけでなく、現実によって挫折するという要素も出てくるということですね。結果的に、〈理想主義的な郷愁(救済)〉と〈リアリズムによる挫折(救済の否定)〉の間を揺れ動く。そして、作品がこの理想と現実の間に留まることを可能にするのが、宮崎駿にとっての「アニメ」というもの。
八角 「救済」と「救済の否定」の間に作品を留まらせるものが、「アニメ」なんだね。
しぶ だから、宮崎駿にとって「アニメ」とは「極端な理想主義へのワクチン」なのだ、と河野さんはいう。つまり、極端な理想主義という救済に向かうのは危険だから、そうではない中間的なところに留まる必要があって、それを可能にしているのがアニメなわけだ。
八角 なるほどね。
しぶ さっきの、「母不在」の話がそこで回収される。宮崎駿においてそれは世界を支えるものがない不安に対応している。アニメというフィクションは、この「母不在」という欠如を埋めようとする。
八角 ふーむ。
しぶ この世界は何かが欠如している。その欠如を埋めたい。埋めたくてアニメを作る。だからアニメは母と重なる。これって、ここだけ聞くと、素朴な「母なる大地=自然=フィクション作品」、つまり「全てを包み込みますよ」という静的なイメージにも聞こえる。だけど、全然そうではない。この「そうではない」を、河野さんは、細かく具体的に説明する。だから情報量がある議論だと思う。
八角 確かに。面白いね。
しぶ これを踏まえてもう一度ワラワラのシーンを考えると、意味深い感じがするんだよね。下の世界はこの世界を支えるけど、支え方は不安定。どっしり根拠として「生まれる前の世界」があるのではない。あるのは、ただ、よくわからない世界。
八角 なるほどね。
しぶ この世界を支えている根底が、不安定なものとして描かれているということが大事なんじゃないかと思う。というのは、少し前の話だけど(→(3)参照)君は、『君たち』は「抽象的」にゲームの条件・設定のようなものを決めて、その中で「どう生きるか」と問うてくるので、とても不自由な感じがする、と言ったよね。
八角 そうだったね。
しぶ 「この中で君たちはどう生きるか」という最終結論が不自由なのは事実。でもその最終結論に至るまでに、彼は試行錯誤した。つまり、彼は「このただ1つの現実」の外部に行こうとアニメを作ったし、理想と現実のバランスには動的な揺れ動きがあった。
八角 なるほどね。
しぶ 揺れ動いた結果出てきた「まあ、結局この理想と現実のバランスのこの辺りで生きるしかない」という最終結論は、確かに不自由。だけど、試行錯誤そのものには可能性があったと思うし、その残滓が、あのワラワラのシーンのカオスに残っていたのだと思う。
八角 それはいい話だね。
保守的な思想の終わりとしての『君たち』
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