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小林秀雄 『批評家失格 新編初期論考集』 : 小林秀雄の〈見えないパンツ〉

書評:小林秀雄『批評家失格 新編初期論考集』(新潮文庫)

本書の帯に『批評とは愛情と感動である』という惹句が付されている。無論、小林秀雄自身の言葉ではない。

小林は、本書の中で「愛情を持って読む者が、最も正しい理解者である」という趣旨のことを書いているが、これは、生半可な「客観評価」などというものは、物事の表面を掻い撫でにする体のものでしかない、という彼の考え方の裏返された表現であって、阿呆なファンのお追従めいた絶賛が正しい評価だ、などという寝言では、無論ない。

そうした意味でも、俗ウケをねらったものでしかない、如上の惹句を小林本人が読めば、その嫌悪を隠さなかったであろうことは、容易に推察されよう。
しかし、小林秀雄の本を作ろうかという人たちが、そんなこともわからずに、こんな生ぬるくも馬鹿馬鹿しい惹句を奉って、小林の理解者づらをする。これこそが、今も昔も変わらぬ「知ったかぶり」たちのやることなのだ。

小林は本書で何と言っていたか。
自分の眼で見ることをせず、流行りの語り方をなぞるようなものは、批評ではない、ということだ。
なるほど、今どき小林秀雄が流行りだなどということはないけれども、すでに小林秀雄は「権威」となっており、言わば「固定化した流行り」だと言っても良いだろう。

その昔、マルクス主義批評が、流行りであり、権威を持っていた時代に、それに乗っかって、いい気になっていた阿呆と同じことしかできないのであれば、そんな者は、小林秀雄の理解者などではないし、小林に愛情を持っているとすら言えない。
そういう手合いは、小林秀雄に寄生し、小林の権威を利用しているに過ぎない。つまり、愛しているのは、他でもない自分自身なのだ。しかし、その自分にすら自信が無くて、他人の権威にすがるのだから、努力を知らない凡才とは、いかにも斯様に救いがたいものなのだ。

小林秀雄が「左翼イデオロギーを嫌った、保守評論家」であるという評価は、半分正しくて、半分は間違いだ。
前述のとおり、小林が嫌ったのは、「わが世の春を謳歌する」主流派であり、阿呆な多数派だ。それが、当時においては「左翼イデオロギー」であったに過ぎない。
だから、小林秀雄が、今の日本に生きていたなら、暢気な「保守」批評家ではあり得なかったであろう。まともに本を読むことも出来ない「ネトウヨ」など、往時の「左翼」以下であることは、言うまでもないからである。

小林秀雄にとって大切なものとは、物事をあるがままに「見る」ことである。そのためには、その眼が曇っていてはならないし、色眼鏡としての「イデオロギー」に捕われてはならない(保守であろうと革新であろうとだ)。
また、評価の対象となるものが、持っていて然るべきもの(評価に値する本質)とは、同様に「イデオロギー」に歪められた「出力」であってはならない。
たいがいの個人が持てる力とは、多寡が知れている。だからこそ、それを100パーセント発揮すべきなのであり、裸の捨て身においてこそ、人は自身の持てるものを最大限に発揮することもできる。そこには「覚悟」があるからだ。

小林秀雄が、志賀直哉の「冷酷な目」「画家の目」を無類に高く評価するのも、志賀がそういう「人非人」だからである。
志賀の場合は、「普通の人間」にはある「自分を装う」という「弱さ」を持っていない、かのようだ。
だからこそ、その妻を蔑ろにする不倫を「好きになってしまったものは仕方がない。これが本当の俺なのだから、それを偽ることなどしない」といった小説を、平然と書けるのだ。小林秀雄が評価する「無類の個人的資質であり本質」とは、このようなものなのだ。

このように、「ありのままの力」を無条件に肯定し、それを「直視するクリアな目」に価値を措く小林秀雄にとって、「イデオロギー」とは、100パーセントしかないものを、150にも300にも強化する「鎧のようなもの」と「勘違い」されたものに過ぎないし、実際には、逆に、その人の持てるものを矯めてしまうものでしかない。見る目を持つ者が見れば、鎧の奥の貧弱な「裸の姿」が容易に透けて見えてしまうからである。

しかし、小林秀雄のこうした「人間観」や「文学者観」といったものもまた、所詮は「イデオロギー」であり、一種の「信仰」にすぎない。

私に言わせれば、そもそも「裸の人間」などというものは存在しない。真に「裸」の人間など、単なる「猿」に過ぎないのだ。志賀直哉は、「猿」に近いから「非凡」であり「非人間的な力」を持つ、「人非人」なのだ。

言い変えれば、「人間」とは、多かれ少なかれ「パンツを履いた猿」でしかない。そのパンツが「薄手のブリーフ」が「宇宙服のごとき厚手の長ズボン」かの違いはあれ、人間とは「パンツ」を履いたからこそ「人間」になったのである。

だから、志賀直哉もパンツを履いているし、小林秀雄だってパンツを履いている。
ただ、そのパンツは「肌色の超ビキニパンツ」なので、弱い視力では見えないし、股肉に食い込んで、履いている本人でさえその存在を見失ってしまうのである。

小林秀雄の「弱さ」とは、人間が「パンツを履いた猿」でしかあり得ないことを、直視できなかったところにある。自身もまた、程度の差こそあれ、そうしたものでしかなかったことを凝視できなかったところにある。
だからこそ彼は、「人間の現実」から退却して、「骨董」に代表される、イデオロギーを持たない(パンツを履かない)「物」の美にまで退却しなければならなかった。

たしかに、それは美しいだろう。だが、それは、「保守」的な美意識でしかない。
小林のそれは、パンツを重ね履きする見苦しさを自身に強いてでも、「人間」であることの可能性に賭け、その限界に挑戦するという(革新的)態度を、むしろ嫌悪して、確実無難な「美」へと退却し、保証された「物」の中の「美」に立て籠る態度でしかない。

たしかに、すべては「対象をありのままに見る」ことから始めなければならないだろう。それができない人の方が多いというのも事実だろう。そうした「勘違い」した人たちの姿は、たしかにみっともなくて、見苦しいだろう。
だが、だからと言って、そうしたものから退却して、自らの「美」という巣の中に立て籠る態度は、「批評家」だの「文学者」だのといった「イデオロギー」においては正当化され得ても、「パンツを履いた猿」としての「人間」の現実においては、到底正当化され得ないし、そんな「御身大事」で、「人間」の問題は解消され得ないのだ。

それは、小林秀雄という一個の天才においても、例外ではあり得ないのである。

書評:2020年8月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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