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上間陽子 『海をあげる』 : 私は、他人を十分に思いやれる人間などではない。

書評:上間陽子『海をあげる』(筑摩書房)

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は、沖縄という父権社会の弊害から様々な理由で若年出産し、夜の街の仕事につきながら子育てをしている少女たちへのインタビューをまとめた、記録報告的なエッセイ集だったが、単著の2冊目となる本書には、そうした明確なテーマはなく、幼い娘の成長する姿を描きつつ、著者がその時々に考えたことを綴ったものとなっている。

なお、本書の再版用の帯には、

「yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞2021」
「第7回沖縄書店大賞 沖縄部門大賞」
「第14回(池田昌子記念)わたくし、つまりNobody賞」

などと列挙されており、本書の評判の良さが窺われるが、本書を読了した後だと、かえって何とも言えない、虚しい気持ちになってしまう。

というのも、本書が、こうした賞を受賞したのは、きっと本書が「より多く感動消費された本」だからだというのが、透けて見えるからだ。

例えば、Amazonカスタマーレビューに、レビュアー「冬山をかり」氏は沖縄についてより深く考えるきっかけに。」というタイトルで、

『自分の事としての沖縄を考える良いきっかけになったと思います。風花さんが大人になる頃には何か少しでも良い方向に進んでいるように、そのために自分に何が出来るのか考え、実行し続けたいと思いました。』

と書き、レビュアー「山下宏」氏は、「皆に読んで欲しいです。」というタイトルで、

『自分の事として、考えて欲しい。』

と書いているが、具体的に何をするかは、これから考えるようで、ここには何も書かれていない。

もちろん、このお二方は、まったく誠実な読者なのだと思うのだが、しかし、お二方自身が書かれているとおり、物事を「自分の事として」考えるとしたら、沖縄県人以外は、それぞれに、沖縄のこと以外にも「考えねばならないこと」が、山ほどあることに気づくはずだ。

例えば、今なら「ウクライナ戦争」の問題もある。それに伴う「防衛費の増額」の問題もある。「ヘイト」問題もあれば、「外国人労働者の奴隷労働」の問題もある、「入管」問題もある。あれもある、これもある。一一これらはすべて、日本人として、無視していい問題ではない。

そこへ、本土人としては、米軍基地を長らく沖縄に押しつけたままにしているという現在進行形の事実から、決して、普天間基地の辺野古沖移設計画の問題だって無視できない、という負い目がある。だから私も、高橋哲哉の提案に賛成して「米軍基地の本土移設」案を支持している。

だが、無名の私が、それをしたところで何になる、という無力感は禁じ得ない。
しかし、だからこそ私は、多くの「問題」への関心を持続させ続け、せめてもの「痛み」と「負い目」を持ち続けようと努力している。
気休めだとわかっていても、いまだに「パレスチナ問題」関係の本を読んだりするのは、忘れてしまいたくないと思うからだ。

本書には、次のような、象徴的な出来事が紹介されている。

『 一九九五年に沖縄で、女の子が米兵に強姦された事件のときもそうだった。隣接する街で、買い物にでかけた小学生が四人の米兵に拉致されたこと、あまりにも幼いという理由で一人の米兵は強姦に加わらなかったものの、残りの三人は浜辺でその子を強姦したこと、沖縄では八万五〇〇〇人のひとびとが集まる抗議集会が開かれたこと。東京でも連日のように、この事件は報道された。
 東京の報道はひどかった。ワイドショーでは、被害のあった女の子の家が探し出され、その子の家も映された。その映像をみれば、私が暮らしていた狭い島では、被害にあったのがだれなのかはっきりわかる。
 被害にあったのはこの子だけじゃない。手のひらに、草を握りしめたまま強姦されて殺された女の子の母親は、腐敗した娘の服さえ捨てられなかったと聞いている。
 あの子は最期に何をみたのだろう? 娘の手のひらをひろげて草をとりだした母親は、いまどうしているだろう?
 抗議集会が終わったころ、(※ 上間の)指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問いかえした。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね、八万五〇〇〇は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。
 そのころ東京と沖縄の航空チケットは往復で六万円近くかかり、私にとって沖縄は、「行けばよかった」と言える場所ではなかった。でも私は黙りこんだのは、沖縄に気軽に行ける彼の財力ではなく、その言葉に強い怒りを感じたからだ。あの子の身体の温かさと沖縄の過去の事件を重ね合わせながら、引き裂かれるような思いでいる沖縄のひとびとの沈黙と、たったいま私が聞いた言葉はなんと遠く離れているのだろう。
 それから折に触れて、あのとき私はなんと言えばよかったのかと考えた。私が言うべきだった言葉は、ならば、あなたの暮らす東京で抗議集会をやれ、である。沖縄に基地を押しつけているのは誰なのか。三人の米兵に強姦された女の子に詫びなくてはならない加害者のひとりは誰なのか。
 沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係を表していると私は彼に言うべきだった。言わなかったから、その言葉は私のなかに沈んだ。その言葉は、いまも私の中に残っている。

     ✳︎

 それから私は仕事を得て、沖縄に帰ることになった。暮らす場所は、普天間基地に隣接している地域にしなくてはならないと思った。
 東京で接したひとたち一一沖縄は良いところだと一方的に賞賛するひとたち、沖縄の基地問題に関心を示しながら基地を押し付けたことを問わずに過ごすひとたちのなかで暮らしてきて、沖縄の厳しい状況のひとつに身を置いて生活しないといけないと、私はあのとき頑なにそう考えていたのだと思う。
 それでも沖縄に暮らすようになってからは、沖縄で基地と暮らすひとびとの語らなさの方が目についた。
 二〇一二年から沖縄の若い女性たちの調査をはじめたけれど、調査で出会った女性たちもまた、隣接する基地や米兵について語らない。
 この前、話を聞いた女性は、二〇一六年にウォーキング途中に元米兵に強姦され殺された、二〇歳の女性のアパートの近所に住んでいた。
 長いインタビューの最後になって、「外人に殺された子は、私が毎日歩いていたウォーキングの道で拉致された」と彼女は言った。それから、「私はその日、体調が悪くて、たまたまウォーキングを休んでいた。事件のあとは怖くてあの道は歩いていない。あのコンビニにも行っていない」と彼女は言った。
 殺された女性と同じアパートに住んでいた女性も、同じようなことを話していた。あの子がいなくなったあと、なんども警察が家にやってきた。事件を知ったあとで、こんな怖い場所で暮らすのは嫌だと思い、アパートを引き払って実家に帰ったと彼女は言った。
 殺された女性のことや基地への苛立ちは、最後まで語られなかった。語られたのは、事件が怖いと思ったこと、だから自分で自衛したという話だ。』
(P233〜236)

上間のここでの苛立ちは、手に取るようにわかる。

どうして人々は、そうも「他人事」なのか。
「怖い」とか「すごい」とか、どうして「感動」しかない、のか。
どうして、その事実を「自分の事として」考え、当事者に思いを致すことができないのか。思いを致して、苛立つことにならないのか。

どうして、この本に、麗々しく、

「yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞2021」
「第7回沖縄書店大賞 沖縄部門大賞」
「第14回(池田昌子記念)わたくし、つまりNobody賞」

なんて「帯」を巻けるのか?

一一無論それは、所詮は「他人事」だからだ。

この本を読んでいながら、この本が語っていることをまったく理解しないまま「感動消費」するだけの人が多いからだし、そんなお客さんが大勢いることが、商売としてありがたいと、そう本気で思っている人、そのことにしか興味のない「良い人」が多いからである。

こんな世の中に絶望して自殺した、マーク・フィッシャーの気持ちが、痛いほどわかる。
だから、上間と同じように、そんな世間に向けて、毒を吐きたくなる。

無論「そう言っている、お前自身はどうなんだ? 所詮は、われわれと同じ穴のムジナではないのか?」と反問されて、そんなことはないと、自信を持って言い返せない自分であることも、わかっている。

だが、だからこそ、そのように言われる立場に立ち続けることで、私は「当事者」の痛みを、少しでも感じていたいと思うのだ。

単に「正論」を語るだけなら、上間に「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と言った、無神経な指導教官にだって、殊勝な「正論」が語れるだろう。「私たちは、自分の事として考えなければならない。そして行動しなければならない」と。

少なくとも私は、この指導教官のような、無神経な言葉を発するような人間にはなりたくない。
そんなものになるくらいなら、「本土の人間として言わせてもらいますが、本土人の9割はクソですし、沖縄人の9割もクソなんですよ、残念ながら。そして、この世の中は、クソのなすりつけ方が上手で、ウケの良い言葉を、あるいは感動的なエピソードを、臆面もなく語れるような図太い人の方が、出世するようにできているんです。だから、私は出世できなかったでしょうね」といった、挑発的な「憎まれ口」を発している方が、まだしもマシだと感じられるのだ。こんな言葉は、いまどき、決して「商売」になどならないのだから。

(美辞麗句の裏返しが、ひろゆきのコレだ)
(本土人の、クソの一例)


(2022年12月21日)

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