中野美代子 『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』 : 楽しく果てしない「学問」
書評:中野美代子『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』(福武文庫・岩波現代文庫ほか)
中国文学者・中野美代子は、私の大好きな作家だ。
翻訳書や共著を除くと、40冊にも及ぶ著作を持つ作家だが、たぶん私は、そのすべてを所蔵している。しかしながら、そのうちで読んだものは、ごく限られている。
一一という話は、中野の小説集『契丹伝奇集』についてのレビューで、2年弱前にも書いている。
さて、そんなわけで、今回は『孫悟空の誕生』に続く、『西遊記』研究の2冊目にあたる本書を読むことになった。
上にも記したとおり、『孫悟空の誕生』は、さほど楽しめなかったというよりは、内容がまったく記憶に残っていない。読書ノートをつけていたから読んだというのは、確認してわかったが、でなければ、読んだかどうかすら記憶に残らなかっただろう。
ちなみに、『西遊記の誕生』を読んだのは、平成元年(1989年)の1月で、元号が変わった直後。すでに30年以上前のことで、私も二十代後半で若かった。
だが、だからこそ、当時は楽しめなかったものでも、今なら楽しめるのではないかという自信が少なからずある。なにしろ、当時と今とでは、教養が違うのだ。
当時の私が、この私の文章を読めば腹を立てるのかも知れないが、私も伊達に、あれから30年以上生きてきたわけではないので、当時の私が、今の私と互角に渡り合うことなど、所詮、無理な話なのである。「まあ、今後も、しっかりと本を読みたまえよ」てなもんである。
ただまあ、本書を楽しみにしていたのは、何も私に教養がついたというだけが理由ではない。
本書『西遊記の秘密』のサブタイトルは「タオと煉丹術のシンボリズム」で、もともと私の好きな「オカルティズム」や「中華幻想」を扱った作品であり、しかも30数年前とは違って今の私は、澁澤龍彦的な「趣味のオカルティズム」に興味があるだけではなく、その後に、キリスト教を中心とした「宗教」を、関連書でかなり学んだので、「文学趣味」的な側面だけではなく、「人間学」的な側面においても、本書を楽しむことができるはずだと、そう考えたのだ。
西欧においてキリスト教が広く信じられ、日本では仏教や神道が広く信じられたのと同様、中国では仏教と同時に「道教」が庶民の生活に深く溶け込んで、大きな影響を今も残している。
そうした点で、『西遊記』に秘められた、「タオ(道)」を中心的概念とした「道教」、そしてそこに含まれる長命術として始まった「錬丹術」の錬金術的神秘思想の影響を読み解こうとする本書は、ある意味では、人間に普遍的な「神秘指向」や「アナロジー思考」を剔抉するものとして、『西遊記』や「中国文学」といった話に限定されない、人間学的な深みを持った研究書なのである。
単に「中国人は、変なことを考えるなあ」といって楽しむだけではなく、しかし、そこには私たちが今なお持っている「根源的発想」が、形式を変えたかたちで表れているのだ。
だから、「道教」であれ「錬丹術」であれ、それ自体としては、私を含む多くの日本人には馴染みのないものだが、だからこそ興味深いのと同時に、しかし、その「精神誌」的なものまで読み込むならば、それは、「キリスト教」や「キリスト教神秘主義」や、あるいは「仏教」や「神道」とその「密教」的なものにまで通じていき、それらに秘められた「人間的な本質」を探ることも可能なのである。
本書で探求されるのは、『西遊記』に秘められた「道教」のシンボリズムといったことであり、それは「今の日本の大学」では「役に立たない(金儲けにならない)学問」として退けられがちなものなのしれないが、しかしながら、一見「無駄」と思える「文化研究」を通して、その奥にある、人間の「普遍性」を探るという意味では、実のところ本書は「学問らしい学問」の精華であり、今どき珍しい「贅沢な学問」だと言えよう。だから、これを楽しまない手はないのである。
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それにしても、本書を読んで、まず「面白い」と感じたのは、中野美代子の「人柄」である。
じつのところ、私はこれまで、中野美代子という人が、よく分かっていなった。
前記『契丹伝奇集』のレビューに、
と書いたように、私にとっての中野美代子は、まず「澁澤龍彦周辺の人」という認識だったのだが、ある時、中野が、ジャーナリスト「本多勝一」に関する研究書『本多勝一を解説する』(晩声社 1992年)の、編者代表を務めているという「意外な事実」を知った。
「本多勝一」のことを知っている人なら、この人が「澁澤龍彦」とはおよそ縁遠い世界の住人だというのを、容易にご理解いただけよう。
つまり、激動の70年代、朝日新聞記者として、世界の「現場」に赴いて、生々しいルポルタージュを書いて評判となり、それまでは一般に知られなかった「南京大虐殺」の問題を「被害者である中国の側(殺される側)」の視点から初めて日本に紹介し、今に続く論争をまき起こして、左翼リベラルのスターと呼んで良い存在となった人である。
したがって、「サド裁判」で、国家に楯突いたこともある反体制派ではあれ、「世事」や「政治」とは一線を画した澁澤龍彦とはほとんど交わることのない、「世俗社会の政治問題」の世界で活躍したのが本多勝一なのだが、そんな本多を、中国文学の研究者であり「澁澤龍彦周辺の人物」で、要は「ブッキッシュ(書物的)」な世界に生きている人だと、私がそう思い込んでいた中野が、ほとんど「畑違い」という印象のある本多勝一についての、肯定的な評論集の「編者代表」だと知った時には、流石にこれは「同名異人」だろうとさえ疑ったほどだったのである。
ところが、本書を読んでみると、中野が「本多勝一」を支持するというのは、「十分あり得る」ことだというのがわかった。
どういうところかというと、中野美代子という人は、一言でいうと「男前な性格」の女性なのである(喩えて言えば、イメージとして、女優の天海祐希みたいな人だと言えば、わかりやすいだろうか)。
つまり、良いことは良い、ダメなことはダメだと、キッパリと言い切って臆するところのない、さっぱりした性格の人なのである。だからこそ、基本的には「反権威」であり「反体制」派だ。
それに、先日読んだ、澁澤龍彦の評伝『龍彦親王航海記』(磯崎純一)によると、中野は澁澤に直接会ったことがないそうだ。
澁澤の方が中野の著作(『カニバリズム論』)を評価した立場なのだから、中野にその気があれば、澁澤と「お近づきになる」ことは、容易だったはずだ。だが、そういう「有名人の取り巻き」的な世俗的関係を必要としなかったのが、中野美代子という人なのであろう。本書を読めば、中野美代子という人の「学問愛」がひしひしと伝わってきて、澁澤の「文学的ディレッタンティズム」とは、質的に違うものが感じられるはずである。
そしてそんな「学者」であるからこそ、誠実な研究に対しては、誰よりも「敬意」を忘れない人なのだが、その一方で中野は、違うものは違うと言い切ってそれを実行し、やはり、学者社会の序列的なものに妥協して馴れ合うような人ではなかった。
例えば、次のような、幾つもの箇所(引用箇所)に、中野のそうした性格が、とてもよく表れているはずである。(※ なお、原文傍点部分はゴシックで表記し、ルビはあとカッコで記した。ページ数は、福武文庫のものである)
「こじつけ」に傍点が付されているように、中野にとっては『五行や八卦、さらには錬丹術』といったものは、「信じるもの」でも「真に受けるもの」ものでもなく、「多くの人(庶民)が信じたもの」としての「事実」であった、ということだ。だから、肝心なのは「彼らの信じたことを信じる」のではなく「彼らはどのように信じたのか」という事実を探ることなのである。
彼らが信じたことは「非合理」の「非現実」ではあったけれども、彼ら自身は、それを無理にでも「合理的な現実法則」を語るものとして信じていたのであり、そこに「人間というものの不思議」があるからである。
学問が「厳密」でなければならないというのは、当然の話である。しかし「厳密」であることと「しかつめらしい」ことは、決して同じではない。
「厳密」なればこそ、深く「楽しめる」ということがあるし、逆に、真面目そうな顔で、ルーチンを退屈にこなしているだけの研究者というのも少なくない。
そして、「学問」の世界では、時に「中身の真面目さ」よりも「見かけ上の真面目さ」が重視されたりする。「退屈な事実の羅列だから、真面目な研究だ」などと評価されてしまうことが、案外少なくない(特に「象牙の塔」の時代は)。
なぜそうなるのかといえば、そうした「中身(質)」を問わない、「見掛け(形式)」の方が、誰にでも評価が容易だからであるし、物事の本質を問わない分、上の人には「扱いやすい」からである。
例えば、ミステリー小説でもSF小説でもいいが、作品中のトリックやアイデアについて「これは、前例のあるトリック(アイデア)だ」という指摘なら、「オタク」にだってできる。
しかし「この作品における(この作者における)、このアイデアの必然性とは何か?」といった本質的な問いは、知識が豊富なだけの「オタク」(的な学者)には不可能だ、というのと同じことであり、また、権威に盲従せず「本質を問う」者は、体制側には危険な存在なのだ。
ここで語られていることは、キリスト教で言うならば、「三位一体論」と同じことだと言えるだろう。
つまり「もっともらしい体裁」を整えるために、後付けで、いろんな概念を「でっちあげ」ているだけなのだが、表面的なところで魅惑されている人には、「でっちあげの非事実」でさえ「深い神秘」だと感じられてしまうということだ。
そして、そのことは、何も中国人やキリスト教徒に限られる話ではない。
多くの日本人もまた同様に、「原始人」的なのである。
『位業図』には、道教神のヒエラルヒーが、わかりやすく表現されている。しかし、だからそれで『すっきりわかるかといえば、そうはいかない。』。
なぜなら、「道教神」というのは、そもそも実在しない「フィクション」だからで、人によって、いろいろな位置付け配列がなされており、そのヒエラルヒーに「正解」など、もとから存在しないためである。
したがって、そんなものをいくら深く研究しても、「道教神のヒエラルヒー」に関しては、決して「正解」は得られない。得られるのは「人間って、存在しないものに、ここまで執着できる、不思議な生き物なのだなあ」という、事実の重さである。
しかしまた、そうした研究も、それはそれで学問的には意味がある。「不毛な事実」を徹底的に研究するからこそ、その「不毛さ」の重さを深く感じとることもできる。
けれどもまた、「不毛さの研究」というのは、よほど好きな人にしかできないものだというのも、言うまでもない事実なのだ。
『最高神ばかり出て』くるのは、そもそも「神」が実在しないから「どうとでも表現できる」ということに他ならないのだが、だからこそ、いくら文献に当たっても、「どの説が、一般的なものなのか」は分かりにくいので、実際に今も庶民の中に残っている儀礼を確認した方がよほど分かりやすい、という話である。
『西遊記』作中の道士たちのヒエラルヒーを詳しく分析することで、「道教」についてどのような考え方の持ち主が、『西遊記』に決定的な形式を与えたのかが推測できるはずだという話だが、いうまでもなく「道士」や「道教」の研究は、それ自体、生涯を賭けても完全な解読の不可能なものなのだから、『西遊記』の研究という本来の目的に立てば、いくら面白そうでも、脇道をそこまで深く探究している暇はない、ということだ。
そしてここで大切なのは、中野美代子が繰り返し「自分の知らないことは知らない」と明記している点である。
というのも、二流の学者にかぎって「周辺諸学にも通じていますよ」みたいな顔をしたがるからであり、またそうしたことに、ころりと騙されてしまう「素人読者」が少なくない、という事実があるからである。
例えば、私がいま読み始めたばかりの、カトリック神学者カール・ラーナーの著書『キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論』(邦訳・1981年)で、ラーナーは「必要だから、あるいは、知っておくべきだからといって、そうした周辺学問まで収めることは、ひとりの人間には不可能だ。キリスト教神学という学問一つをとってみても、今やそれは多岐にわたっており、そのすべてを知っている神学者など、一人もいない。だから、すべてを知る必要などはないけれども、少なくとも、その知りうるところに誠実であることにおいて、その探究は、決して無意味ではない」という趣旨のことを、開巻早々わざわざ断っている。
こういうことは、ラーナーほどの篤実な神学者だからこそ言えるのであって、世俗向けの著書だけは多い、知ったかぶり日本の神学者などには、爪の垢を飲ませたいほどの「謙虚さ」であり、本物の「確信」だと言えるだろう。
同様に、中野美代子も、「知らないことは知らない」と包み隠さずに言えるほど、自分にできる精一杯の努力をしている、ということである。
人並み以上の地道な研究の裏付けがあってこそ「私はまだまだ無知だ」と平気で言えるのであり、また「学問を楽しんでみせる自信も持てる」のである。
『劇中の殺人犯を、観客のなかの刑事が舞台にのぼっていって逮捕するのはこっけいであること論を待たないが、しかし、国家権力はしばしば、このような約束ごとの原理、ないし虚構の原理を踏みにじる。』一一という部分に、容易に、中野美代子の反体制的な意気を感じることができよう。
ただ、『中国人がこのような虚構の原理にきわめて冷淡であった』云々の部分は、私個人の「特性」とも関わってくるので、この点については、後で別に論じたいと思う。
例えば、私は先日、ミステリ作家でカトリック信者である清涼院流水の著書『どろどろのキリスト教』のレビューで、正統派カトリックが、グノーシス派の「神解釈」を「異端」の説だとして否定するのは、所詮『目糞鼻糞の類い』だと、わかりやすく断じておいた。
ここで中野美代子が語っているのは、それとまったく同じことなのである。
『世界を解釈しようというメタフィジックな欲求にとりつかれ』るとは、どういうことか。
それは「意味のないところに、無理矢理にでも、深い意味を見出したいという欲望に、とり憑かれること」である。
例えば、墓場で「幽霊」を見た、と思った。確認してみると「枯れ尾花」であることがわかった。しかし、『世界を解釈しようというメタフィジックな欲求にとりつかれた人びと』というのは、枯れ尾花を幽霊と見間違えてしまうこと自体に「意味」を見出そうとしてしまう。
例えば「枯れ尾花は、霊的な憑代となる特性を持った植物であり、それは中国古典のこれこれにも書かれているとおりであって、決して、見間違いで済まされるような、単純な話ではない。そうではなく、人間の直観が、枯れ尾花に隠された、世界の神秘の一端を明かしていると、そう考えるべきなのだ」といった具合である。
こんな彼らには「イエスが、死後三日目に復活した、なんてあり得ない話だろう。それは神話だよ」という説明は、決して通用しない。なぜなら、そんな「無味乾燥な世界」には堪えられないと、彼らはそう感じているからである。
このあたりは、中野の「反体制」体質が、分かりやすく出ている部分であろう。
『孫悟空とても妖怪である以上、国家権力との関係において、規範的な存在でなければならぬ道理だ。』とは、どういう意味かというと、要は、「妖怪」というのは、国家権力によって懐柔され利用される存在でもある、ということだ(例えば、方位を司る、青龍・朱雀・白虎・玄武の「四聖獣」なども、その一種)。
つまり、天界に登って暴れまわる、おそれを知らぬ狼藉者の孫悟空というのは、共産主義革命の時代の中国では、ヒーローとして、国家的にも持ち上げられた。ところが、国家が安定してくると、「反体制派としての孫悟空」は「おとなしい斉天大聖」になってしまう。
だから、孫悟空や『西遊記』を考える場合にも、単純に「庶民」の中のそれとしてだけではなく、「権力」によって作られるそれとして考えることをも忘れてはならない、ということだ。
見てのとおり、「儀礼的形式」を超えた「謝辞」であることは、一目瞭然であろう。
これは、中野美代子自身が、「学問」を心から愛しているからであり、このあたりが、「文学的趣味人(ディレッタント)」であり、それゆえに、「野暮になる」からと「元ネタ」をわざと明記しなかった澁澤龍彦との、体質の違いだと言えるだろう。どちらが「正しい」という話ではなく、「趣味の違いが、表現の違いとして表れている」ということである。
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さて、では最後に、先送りしていた、(7)の部分の問題を論じてみたい。
これは、どういうことを語っているのだろうか?
要は、西欧の場合は、「現実と虚構」がキッパリと切り分けられており、それぞれに「自己完結」しているのだが、中国の場合には、その両者が「メビウスの輪」のごときかたちで、不思議に連続している、ということである。
例えば、キリスト教の天国や地獄は、この世とは別のところにあって、歩いていけるような場所ではない。
ところが、中国における「桃源郷」というのは、日常生活からの延長上にある「山の中」「海の彼方」のどこかに存在している、と考えられている。「壺中天」なんてものも、日常生活の中にある壺と「別天地」が隣接している感覚を表現したものだと言えるだろう。
そして、こうした「中国的な連続性」の感覚は、日本にも流れ込んできており、それが「山中の異界」とか「竜宮城」とか「補陀落」とかいったものになっているのである。
で、私などもやはり、この「連続性」のリアリズムを持っていて、「異界」は、この現実と切れたところにあるとは「感じて」いない。だからこそ、「異界探訪」ものの小説やマンガを好むのであろう。
また、私が「トリックスター」を自称するのも、同じ感覚からだ。
「トリックスター」は「現実と虚構を往還する存在」であり、事実私は、
では、このように「異界」を「身近に感じ」たがる(切り離したがらない)私が、どうして、キリスト教や仏教の語る「天国や地獄」あるいは「極楽浄土」といったものをまったく信じず、むしろきわめて批判的なのかというと、それはこれらのものが、『自己完結』的に「この世の現実」から切り離されて考えられている、からではないかと思う。
つまり、私は「この世のリアリズム」に立脚して「そんなもん、あり得ない。あるというのなら、ここで見せてくれ、触らせてくれ」という「連続性」の感覚を強く持っているからなのであろう。
言い換えれば、私にとっては「この世(現実)」と「異界」とは「連続的」なものであり、それぞれに『自己完結』して「切り離された、別々のもの」ではない、ということなのだ。
だから私は「本当にあるというのなら、ここで見せてくれ」と要求するのだが、宗教信者にとっては「それとこれとは、別次元の話」だから、そんなことは不可能だ、で済ませてしまうのである。キリスト教的に言えば、
というような、「絶妙かつ、すり替え的」でもある話になるのであろう。
要は、それは「この世」からは「自己完結的に独立した存在」であるから「具体的(現世的)には示せない」ものだという、言い分だ。
だが、私は、こういう「それはそれ、これはこれ」という「区別」など認められない(実感を持てない)から、「示せないものが存在するなんていうのは誤魔化しであり、それは、信じるに足る具体的な根拠がない、ということだ。信じるに足る根拠があるというのなら、ここで示して見せろよ」と要求して、「それは(ここでは示せないけれども)別にある」と信じている人たちを困らせるのである。
このように考えていくと、『自己完結性』の強いキリスト教というのは、きわめて「抽象的(観念的)」なものであり、だからこそ「学問」も生まれてくれば、「演劇」も発達したのかもしれない。
「それはそれ、これはこれ」と割り切って考えられるから、それらを「現実そのもの(生活)」と切れたところで、独立的な価値として重んじられるのである。
ところが、「中国的・日本的な発想」である「連続性」においては、それらは「生活実用性」とつながっており、「純粋な抽象観念」というものに、どこか不信感を持っていると言えるのではないだろうか(この感覚は、寺山修司的と言えるかもしれない)。
「いくらご高邁な理屈を語ったところで、あなただって美女の前ではデレデレするんでしょ」みたいなリアリズムが、私たちにある。(「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」)
そしてこれは、単に中国や日本の話には止まらず、庶民とは切れた「特権階級のリアリズム」が感じられなくなった現代においては、キリスト教圏と言えども、「自己完結的な観念」に、心底リアリティを感じることが出来なくなってきており、その意味で、伝統的なキリスト教が廃れる一方、感覚的で熱狂的な「ペンテコステ派」が世界的に勢力を伸ばしている、といったことなのではないだろうか。
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そんなわけで、私は、単純な「自己完結的な観念主義」を認めないし、その一方「自堕落な感覚的連続主義」も認めない。
それらは、『孫悟空』がそうであったように、時代の中で「でっちあげられていく」ものでしかなく、私たちは常に「それは、何によって生み出されたものなのか?」という問いを発し続けなければならないのではないだろうか。
そうした意味でも、「学問」とは、必ず「果てしのないもの」であり、だからこそ「楽しい」とも言えるのだから、安易な「結論」になど、貧乏くさく飛びつきうべきではないのである。
ともあれ本書は、そんな具合に、じっくりと味わうべき、「贅沢な一書」なのだと言えよう。
(2023年6月23日)
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