北村紗衣の「そっくりさん」案件 : 『映画秘宝』DM事件を検討する。
「武蔵大学の教授」で「映画評論家」である北村紗衣の周辺を洗っていたところ(というのは、刑事ドラマ的な言い回し)、「Wikipedia」の「映画秘宝」の項目に、興味深い記述を見つけた。
『映画秘宝』とは、個性派映画雑誌のことで、私もその存在は知っていたが、いささか「おチャラけた」その感じが私の好みではなかったので、読んだことはなかった。と言うか、興味がなかった。
やはり、私の好みは「硬派」で、真正面からガンガンいく方が、歯応えがあって面白い。まあ、そういう批評というのは、どんなジャンルでもどんどん減っているので、日頃から「ここもダメ、あそこもダメ」と「愛のあるダメ出し」ばかりしているのだが、こうした「偽善的ぬるま湯化」の流れが変わることはなさそうだ。
ま、それはさておき、どちらかと言えば「軟派」で、おチャラけた感じがウリの『映画秘宝』誌とは、次のような雑誌である。
私が「おチャラけた」感じというのは、ここで言う『「中学生男子」感覚』というやつのことだ。
まあ、私の場合は、子供の頃から、あんまり「おチャラける」方ではなかったが、高校生の頃にはすでに、一見ふざけているかのような時は、基本「内心で腹を立て、挑発している」という感じになってしまった。まったく困ったものである。
さて、私のおチャラけはこのくらいにして、本題に入ろう。
問題は、「Wikipedia」の「映画秘宝」の「歴史」の項目にある、次の「編集長・岩田和明の恫喝DM問題」の部分だ。
ごく簡単にまとめると、次のようになる。
当時『映画秘宝』誌の編集長だった岩田和明が、北村紗衣の著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)に推薦文も寄せている、ラッパーの「ライムスター宇多丸」がパーソナリティを務めているラジオ番組『アフター6ジャンクション』の、2021年1月5日放送分に出演した。
その後、この番組のリスナーの(このWikipediaでは匿名になっている)女が、Twitter(現「X」)で、
を行った。
そして、これを知った岩田和明が、「映画秘宝」の公式Twitterアカウントで、この女のTwitterアカウントをフォローし、女がそのアカウントをフォローバックしたところ、岩田がこの「映画秘宝」の公式Twitterアカウントから、
というDM(ダイレクトメッセージ)を送った。
それで、女が『映画秘宝』の編集部に、あのメールは何だと問い合わせの電話をしたところ、そのことがDMを送った当の岩田和明の方に回され、岩田から直接に電話があったため、女は、そんなDM男に電話番号まで知られてしまって「怖い」と言いつつ、「どうなってるんだよ!」と、さらに話が大ごとになってしまった、というような経緯である。
このトラブルは、その後いろいろあったものの、結局は、当事者の岩田和明が責任をとって辞職し、同編集部関係者も、あれこれの管理責任や事後の対応のまずさなどの点から、うち揃って、女に謝罪。
女からの質問状への回答の公開などがあった後に、和解が成立した。
例えば、この「質問状への回答」の一部を紹介すると、こんな感じだ。
「結びつけた」も何も、そうなるおそれは十分にあったというのは事実だろうし、結果としても、事実そうなった。
そもそも、この「失礼な女」がいなければ、こんな問題は、発生し得なかったとも言えよう。
それとも何か、自分は「一切無関係」だとでも、アピールしたいのか?
一一というツッコミだけに、ここは止めておこう。
ともあれ、『映画秘宝』Twitterアカウントを使って、女にDMを送った岩田に、言い訳の余地はない。
女は、『映画秘宝』のTwitterアカウントだと思えばこそ「フォローバック」したのだろうし、そのせいでDMを許すことになってしまったのであり、岩田個人にそれを許したのではないのだから、言うなれば、騙されてメールアドレスを盗まれたようなものだからだ。
もちろん、結果として、問題の当事者である岩田に、女の電話番号を知らせてしまったという不用意さにおいて、『映画秘宝』編集部も、個人情報の管理という点で、その責任を問われるのはやむを得ないところだし、事後対応の不十分さということもある。
だが、しかしここでは、そこまでは扱わない。
なぜ扱わないと言えば、「責任が有るか無いか」と言えば、もちろん有るし、その責任を問われれば、謝罪せざるを得ないだろうが、実際のところ、そこまで管理し切れるかと言えば、現実問題として難しいところがあるからだ。
例えば、北村紗衣の勤め先である「武蔵大学」も、北村の私行上の(ネット上の)問題まではあずかり知らぬと、問い合わせ電話に回答したそうだが、例えば、ある女性社会学者の場合は、ネット上のトラブルに関して、大学側から、ネット利用法についての注意指導が入ったという話もあるのだから、「本学としては、本学教授の私行上の問題は、一切あずかり知らぬ」で済むのかどうかは、かなり疑問である。
実際、これまで長らく、私行上の問題で、会社などの勤め先をクビになった人は多く、それは「会社の信用を傷つけた(泥を塗った)」というようなこともあるからだろう。
もちろん、岩田の場合は、完全な「私行上の問題」ではなく、職場のアカウントを使っているし、職場の方も、岩田に女の電話番号を教えたりしているわけだが、しかし、岩田の行動を、職場として予想し得たかと言えば、それはまず不可能なのだ。
「不可能だ、では済まないだろ」と言っても、実際には不可能と言ってよい、これはそんな事例なのである。
私だって「能力のない評論家に、優れた評論を書け」とまでは求めない。単に「評論家を辞めちまえ」と「言うだけ」なのである。
実際、誰だって、まさか編集長自身(まさか教授が、まさか警察官が、まさか…)が、こんなことをやらかすとは想像もできなかっただろうし、岩田DMのあの文面だって、ハッキリ言って「マトモではない」。
言い換えれば、あんなものを書いて送るなどということは、ほとんど想定不可能なのだ。
つまり、すべての社員について、いつ発狂しても大丈夫なように、その行動を100パーセントの監視下において制御すべきだなどと要求しても、それは、不可能事でもあれば、人権問題としても無理な要求だからだ。
したがって、私が本稿で問いたいのは、単純に、女の「ツイートの中身」と岩田和明の「DMの中身」の「適切性」と、その「合理的な事実認定」である。
なぜ、そこに話を限定するのかといえば、岩田和明と『映画秘宝』編集部については、すでに謝罪し、責任を取り、女との和解も済ませており、一定の「社会的制裁」を受けていると評価できるからである。
つまり、ここでは、「社会的に」どうこうではなく、「発言内容」そのものを、「文芸批評」的に問いたいのである。
○ ○ ○
さて、上の「Wikipedia」からの引用文にもあるように、岩田和明から女に当てられたDMについては、
とあるように、一見したところは、自身が「傷つけられた」という被害アピールだが、その狙いまで考えれば、要は「被害者ヅラ」した「脅し」または「脅迫」的な性格のものだと、そう言っても良いだろう。
「あなたが、私をこんなに傷つけた」と「批判攻撃」しているのであり、これは、昨今流行りの、「被害者アピール」による一種の「マウンティング」であり、北村紗衣などが、しばしば、「女性」で「いじめられ経験」があり「発達障害」であり「死にたいと思ったことがある」などと、各種取り揃えて、自身の「被害者性=傷つけられやすさ」をアピールすることで、北村紗衣批判者を「悪魔化」し、論敵からの「攻撃」を「ヘイト」であり「いじめ」だとすり替えることで、その口を封じようとするのと、基本構造は、まったく同じなのである。
岩田和明は、このDMの内容について「過労」から来た情緒不安定によるもの(ここが北村紗衣風)で、「脅し」の意図は無かったという趣旨の説明をしたが、無論、その真相はわからない。
だから、真相はどうあれ、「脅し」の効力を持つものであったという事実は揺るがないので、その点は責められて当然だし、責任を取るのも当然だろう。
したがって、責任を取って辞職したのなら、それで当人の責任は、いちおう果たしたとも言えよう。
岩田は、その不適切なDM一本で、完全に「キャンセル」されたのである。
つまり、岩田の場合も「社会的制裁」を受けたのだから、これ以上の「刑事罰」や「民事賠償」云々というほどの問題ではない、ということである。
『法的和解』ということのようでもあるのは、両者の間で、そこまでの検討がなされた上での「和解」だったという意味なのであろう。
だが、まだ問題として残っているのは、事の発端となった、女のツイートの「社会的な(道義的)責任」である。
これは、当人もはっきりと書いているとおりで、いかにも品のない、露骨な「悪口」である。
無論、これも「言論・表現の自由」の範囲内ではあろうが、公に発せられた言葉として、その内容の是非は問われるべきだし、必要な批評・批判もなされるべきだ。
こんなものが「好ましい」とは、誰も思わない類いのものだからである。
だが、私はこれを読んだ時に、すぐに北村紗衣のことを思い出して、「こいつ、北村紗衣だろう?」と、そう疑ったのだ。
北村紗衣のことをよく知らない人は、仮にもこの時にはすでに「映画評論」の著作だってあった「大学教授」が「こんな酷いことを言うだろうか?」と、そう疑問に思うだろう。
至極もっともな疑問だと、私も思う。
しかし、言い換えるならば、北村紗衣のネット上での発言は、この「馬鹿女」同等にレベルの低いものが多いというのが現実なのだし、それが仮にも「武蔵大学の教授」という「教育者」の端くれであり、著作も5冊ほど持つ「言論人」の端くれのものであるならば、その社会的な道義的責任は、問われて然るべきものなのだ。
また、この女のツイートは、(この記事では、この女の社会的な立場は不明ではあれ)北村紗衣のそれと「同レベル」なのだから、公人・北村紗衣に対するほどではなくとも、それ相応に、適切に批判されて然るべきものなのである。
なお、私が、この女を「北村紗衣ではないのか?」と疑ったのは、次のような諸点からである。
とまあ、こんなところだろうか。
もちろん、私はもう、この馬鹿女が「北村紗衣であろう」と、ほとんど確信しかけているが、今のところ、私はその直接証拠を持たないので、断定はしないし、できない。
だが、こんな「女は」ではなく「こんな人間は」、北村紗衣一人で「たくさんだ」と思っているので、その意味では「同一人物であった方がマシ」だとは思っている。こんな馬鹿は、2人いるよりは、1人の方が「マシ」だからだ。
だがまあ、これは所詮、はかない願いではあろう。
ところで、私はこの記事を最初に読んだ際、そこに「ライムスター宇多丸」が出てきたことから、宇多丸が北村紗衣の著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』に推薦文を書いたのは、これがあったからだと、そう考えた。
だから、あんな「クズ本」に、推薦文が書けたのだろうと、そう思ったのだ。
すなわち、この事件があって、『映画秘宝』関係者が、土下座的な謝罪をさせられるのを間近で見て、「金玉が縮み上がるような思い」になったので、「この種の馬鹿女には逆らわないでおこう」と考えて、同種の北村紗衣のご機嫌をとるようになり、求められるままに、北村紗衣の著作への推薦文を書いたのだろうと、そう思ったのだ。
そうでなければ、あんな「クズ本」に、推薦文なんか「本気で書けるわけがない」と、そう思っていたからである。
で、そのことを、昨日(2024年11月9日)アップした「note」記事「北村紗衣『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』:「死」というバズワードの濫用」に書いたのだが、今日になって、本件の「前後関係」を確認したところ、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の刊行は「2019年6月」であり、「『映画秘宝』DM事件」は「2021年1月」なので、「ライムスター宇多丸」が、この事件を目の当たりにしたために「推薦文を書いた」というのはあり得ないと判明したので、その点については、その記事に「お詫びと訂正」を書き加えておいた。
下が、それである。
そんなわけで、この「DM事件」で「ひとつの謎」が解けたと思ったのは、私の早とちりであった。
だが、この「馬鹿女」が、北村紗衣と同一人物であると「仮定」するならば、岩田和明元編集長のDMがあのような「脅迫的」なものになった理由の一端を、推察することはできる。
すなわち、「疲労」による、言うなれば心神耗弱状態によって、ああいう「トチ狂った」ようなことを書いたのではなく、あるいは、それに加えて、北村紗衣への当てつけとして、
「お前がいつもやっている、被害者アピールによる逆捩じだよ」
と、そういう意識が、岩田の頭の隅にはあったのではないか、ということ(推測)だ。
「お前がいつもやっていることなんだから、こんな被害者に対しては、文句はつけられまい」
という意識が、どこかにあったのかもしれない。
だが、そうした批判をむけた相手が、北村紗衣であったのだとしたら、そんな「ナイーブ」なやり口は、通用しない。
なぜなら、北村紗衣の考え方とは「私には許されても、お前らには許されないんだよ」といった類いのものだからである。
つまり、岩田は、まだまだ「北村紗衣の悪質性」を十分には理解していない状態、言うなれば「甘く見ているところがあった」のではないか、ということである。
北村紗衣の場合は、そんな「お互い様だろ」みたいな、「常識的な理屈」は通用せず、「俺のものは俺のもの。お前のものも俺のもの」という「ジャイアンの論理」に立っているのだから、そのことを正しく理解した上で、対処しなければならないのだ。
言い換えれば、北村紗衣に対しては、ほんの少しであろうとも、「フェアプレイ」を期待してはならないし、こっちも「やる時にはやるぜ」という覚悟を持ってやらなければ、その覚悟の半端さに、つけ込まれてしまう、ということである。
無論、この「馬鹿女」が、北村紗衣かどうかはわからないし、仮に別人だとしても、どっちにしろ「似たような人間」なのだから、同じように考えて対処しなければならない、ということだ。
あと、この「馬鹿女」を、北村紗衣だと「仮定」するならば、解ける謎が「もうひとつ」ある。
それは、須藤にわか氏と北村紗衣の「アメリカン・ニューシネマ」論争が勃発した際に、どういう経緯だか、著名な映画評論家である町山智浩が、この問題について、北村紗衣の見解に否定的な見解を明らかにした際に、北村紗衣はこれに、メンツを潰されたと言わんばかりに、町山にしつこく食い下がり、ご当人の曰く、町山を『詰めて』、町山から自分に都合の良い回答を引き出した「かのような」ことを、Twitterでアピールしていたのだが、このことに対しで、私は「小さな違和感=ささやかな謎」を感じたのである。
「三流(ポンコツ)映画評論家」北村紗衣ごときが、町山智浩に妙になれなれしく接している点に、かすかな違和感を感じたのだ。
まあ、私の場合だって、別に相手が何様であろうと、必要があれば遠慮なく声をかけるが、それにしても、少なくとも「世間並みの礼儀」の形式くらいは整える。
ところが、北村紗衣の、町山智浩に対する態度が、年齢差も無視した、どこか「旧知の仲」的ななれなれしさを感じさせたので、「うん?」と引っ掛かる感じがあったのだ。
だが、今回「『映画秘宝』DM事件」を知って、もしもこの「馬鹿女」が北村紗衣だったのであれば、この事件では、北村紗衣が、『映画秘宝』の関係者の一人である町山智浩にも「謝罪させた立場」ということになるから、それをいまだに「嵩に着て」、アメリカン・ニューシネマ論争においても、半ば無理やりに、町山智浩に自分に都合の良い見解を語らせようとしたのではないかと、そう理解することが可能だったのだ。
もちろん、町山智浩にすれば「それとこれとは話が別」だから、北村紗衣の意向に迎合するようなことはなかったようだが、北村紗衣の町山に対する、妙ななれなれしさは、こう考えるならば、完全な腑に落ちるところだったのである。
一一無論、以上はすべて、件の「馬鹿女」が、北村紗衣であれば、という「仮定」の上で話であって、決めつけているわけではない。
そもそも私は、北村紗衣を、私のことを事実無根の「誣告によって管理者通報」し、黙らせようとした「嘘つきの卑怯者」だと評価している。
しかも、いまだ謝罪すらないのだから、今更、こんな「馬鹿女」と結びつけてまで、北村紗衣を誹る必要などないのだ。
私が本稿を書いたのは、本件の「馬鹿女」が、そもそもあのような「失礼きわなりないツイート」をしておいて、「脅されましたァ」「怖かったですゥ」みたいな「被害者ヅラ」しているのが、許せなかったためである。
だからこそ、北村紗衣にこの「馬鹿女」を結びつけたのではなく、この「馬鹿女」に、北村紗衣を結びつけてやったのだ。
「お前は、すでに北村紗衣同然だ」と。
そもそも、DMの当事者である岩田や『映画秘宝』関係者が「謝罪」しなければならなかったのは、この「馬鹿女」が「同情されるべき被害者」だったからと言うよりは、言うなれば、岩田和明元編集長の「オウンゴール」みたいなものなのだ。
だから、その相手のミスに乗っかって、一方的に「可哀想な被害者づら」なんかさせてはおかないぞ、というのが、本稿の趣旨なのである。
この「『映画秘宝』DM事件」の本質とは、単なる「被害者と加害者」ということではなく、「小さな加害者と大きな加害者」の問題なのだ。
つまり、岩田が「過剰防衛」的に「やりすぎた」という問題だったのである。
わかったか「馬鹿女」。
名乗って出てきたら、相手になってやるし、言い分も、直接聞いてやろう。話はそれからだ。
(2024年11月11日)
○ ○ ○
○ ○ ○
● ● ●
・
・
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○