黒澤明監督 『椿三十郎』 : 「昭和」の理想と、そのジレンマ
本作は、大ヒットした「『用心棒』のような作品を」と、東宝から頼まれて撮った作品だそうだ。本作の「Wikipedia」にそう書かれているし、実際その通りであろう。というのも、それが「市場原理」に沿うものだからだ。要は「二匹目のドジョウ」を狙った作品だということである。
しかしながら、『用心棒』のレビューに書いたとおり、私は、『用心棒』が「痛快娯楽作品」であったことを肯定的に捉えているので、『椿三十郎』がそのような作品であっても、全然かまわなかった。また、だからこそ、『椿三十郎』が『用心棒』同様の「痛快娯楽作品であろう」と、ごく素直にそう思って、見ることにもしたのだ。
実際、本作『椿三十郎』は、山本周五郎の小説を原作としながらも、それを大きく改変し、そこに『用心棒』の主人公と瓜二つの主人公をはめ込んだ作品なのだから「実質的には続編だ」という評価も、ごく一般的なものであった。だから、まさか本作『椿三十郎』が、娯楽作品「ではない」などとは、つゆほども予想し得なかったし、実際に見てみて、驚かされたのである。
本作を見てもなお「痛快娯楽作品であり素晴らしい」とか「主人公の椿三十郎がかっこいい」とか言っているだけ一般客が多いのは、まあ仕方のないこと。
しかし、『椿三十郎』の「Wikipedia」でさえ、本作が「単なる娯楽作品などではない」という事実を指摘し得ていないところを見ると、日本の映画評論家というのは、総じて「アキメクラ」が多いのだと、あらためて呆れさせられてしまった。
本作は「当たり前に見る」ならば、単なる「痛快娯楽作品」などではない。
たしかに「痛快」な部分もあるし、「娯楽」の部分もある。しかし、それがこの作品の「本質」ではないのだ。
本作は「『用心棒』の続編に見せかけた、その陰画的な作品」なのである。
つまり『用心棒』の「太平楽な痛快娯楽性」を支えていた「勧善懲悪」のわかりやすさを、批判した作品なのだ。
ここまで書けば、察しの良い人なら、私が本作『椿三十郎』をどのように評価したのかは、すでに明らかだろう。
だが、そうした人ばかりではないどころか、たぶん、そうした人は「少数派」だというのが現実なのだろうから、以下にそのあたりの事情を詳しく解説していこう。
喩えて言うなら、多くの人というのは、本作に登場する「若侍たち」のようなもので、自分たちの「(現実を)見る目のなさ」をわかっていないし、「椿三十郎」のような「腕」もなければ、ましてや本作の「もうひとりの主人公」と呼んでも良いだろう、最後の最後に登場するだけの「城代家老・睦田弥兵衛」のような「知恵」も「強かさ」も持たない、ということである。
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本作『椿三十郎』の「あらすじ」は、「Wikipedia」に結末まで書かれているが、ここではひとまず、その前半部分を引用しておこう。
つまり、本作『椿三十郎』は、悪の「大目付の菊井」らによって濡れ衣を着せられ、監禁されてしまった「城代家老・睦田弥兵衛」とその妻と娘(妻女)を助け出そうと、血気のはやる9人の「若侍たち」を、「危なっかしくて、見ていられねえ」と、「椿三十郎」が、頼まれもしないのに助けてやる、というお話である。
この「頼まれもしないのに助けてやる」という点では、本作『椿三十郎』は、『用心棒』に「似ている」と言えるだろう。
また、こうした点から、三船敏郎の演ずる『用心棒』の主人公「桑畑三十郎」と、同じく三船の演じる本作の主人公「椿三十郎」とは、外見だけではなく、その性格設定まで「似ている」という印象を与える。
しかしだ、この二人の主人公には、決定的な「違い」があって、そこに気づかないようでは、本作『椿三十郎』を見た(鑑賞し理解した)ことにはならない。
だが、その「違い」を知るためには、まず『用心棒』の方を知らないことには話にならないので、前作(前年の作品)『用心棒』がどのような作品だったのかを、ここで確認しておきたい。
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私は、『用心棒』のレビューの中で、同作を「勧善懲悪の娯楽痛快作品」だと、肯定的に評価した。つまり、次のような特徴を持った作品だということである。
とし、このレビューを、次のように締め括った。
つまり私は、「桑畑三十郎」の中に「豊かだった昭和の、理想のヒーロー像」を見て、これを肯定的に評価したのだが、本作の主人公「椿三十郎」は、そんな「理想の人物(偶像)」ではなく、もっと「リアルな人間」に描かれており、そこが決定的に「違う」のだ。
では、どう「違う」のかと言えば、『用心棒』の場合は、「悪は悪、善は善」だと、いかにも「痛快娯楽作品」らしくハッキリ区別されていたから、主人公の「桑畑三十郎」は、悪人どもを切り殺すことに、何の躊躇も無かった。
そして、本作の「椿三十郎」も、「若侍たち」に助勢して、監禁されていた「城代家老の妻女」を助け出すまでは、「桑畑三十郎」そのままだったと言っても良いだろう。
しかし、そんな「椿三十郎」は、自分が助け出した、入江たか子演じるところの、おっとりした「城代家老夫人」にやんわりと窘められることになる。要は、そう簡単に人を「殺す」ことなどしてはならない、と言うのだ。
そして、これは本作を語るうえで決定的に重要な言葉なのだが、彼女は「椿三十郎」に対し「あなたは、まるで抜き身のようだ。鞘に入っていない抜き身の刀をギラギラさせているようなお方だ。でも、本当に優れた刀というのは、いつもは鞘に収まっているものなのですよ」と、そんなふうに諭すのである。
さて、ここで普通ならば、「助けられた身で、何を言う」ということにもなるし、それに「では、他にどんな手があったと言うのか?」という話にもなろう。
だが、「椿三十郎」は、このおっとりした「城代家老夫人」に反論することはなく、むしろ「痛いところを突かれた」という顔をして、「こういうタイプには敵わねえ」と言わんばかりに、顔を背けるのである。
これは、「城代家老夫人」の「椿三十郎」についての人物評価が、図星を突いていたということであり、そこで指摘された「弱点」については、「椿三十郎」自身、薄々自覚していたものであり、それでいて、自分ではどうにもできない「欠点」だという認識もあった、ということである。
つまり、こうした欠点であり弱点の「自覚」において、「椿三十郎」は、「桑畑三十郎」とは、明らかに「別人」なのだ。
私は、『用心棒』のレビューで、「桑畑三十郎」を次のように評していた。
つまり、「桑畑三十郎」の場合は「悪人たち」を斬り殺すことにも、彼らが死ぬことにも、「何の痛痒も感じていない」のだ。
だからこそ『用心棒』は、わかりやすい「勧善懲悪の痛快娯楽作品」になり得たのだが、「椿三十郎」には、「桑畑三十郎」には無かった「悪人殺し」に対する「後ろめたさ」があり、できれば「殺生はしたくない」という気持ちがある。
事実、「椿三十郎」は、後のシーンで、敵方に捕えられた「若侍」4人を救い出すために、敵方の見張り役を、多数斬り殺さなければならなかったのだが、そのあとで「若侍」たちに「おめえらのせいで、また無駄な殺生をしちまったじゃねえか」と、口調こそ軽いものの、「城代家老夫人」の「忠告」に沿う言葉を漏らしているのである。
実際、敵方の下級侍たちは、裏事情を知らないだけで、決して「悪人」ではなかったはずなのだ。
「むだな殺生」とまでは言わないまでも、(娯楽作品として見栄えのする)「過剰な殺生」の部分を、「城代家老夫人」に指摘され、反論できなかったばかりか、そうした「理想(きれいごと)」を自然体で語る「城代家老夫人」に対し、「椿三十郎」が敬意さえ払わないではいられなかったのは、彼が「この奥方の言うことこそが、まったく正しい。ただ、俺には、その理想を実現するための能力がない。ただ、人を斬り殺すだけの、危険な、抜き身の腕があるだけなのだ」と、そう自嘲的に考えているからなのである。
したがって、ここまで来れば、本作『椿三十郎』が、ある意味で、反『用心棒』的な作品であり、「椿三十郎」自身は、反「桑畑三十郎」的な人物だというのが、ハッキリとわかるはずだ。
「椿三十郎」に言わせれば、「桑畑三十郎」というのは「正義を嵩に着て、人殺しを楽しむ気違い野郎だ」ということにもなってしまうのである。
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つまり、本作『椿三十郎』という作品が描いているのは、本稿のタイトルのとおり「「昭和」の理想と、そのジレンマ」なのである。
そして「昭和の理想」とは、「日本国憲法・前文」や「9条」に示された「絶対平和主義」のことである。
「昭和」という時代は、「悲惨な戦争体験」に由来する「絶対平和主義」という極端な「理想」と、政治的「現実」のはざまで、その「ジレンマ」にもがき続けた時代だったと言えるのだ。
そして、そのジレンマを体現しているのが、本作の主人公「椿三十郎」なのである。
「椿三十郎」というキャラクターは、『用心棒』の「桑畑三十郎」のような「勧善懲悪の架空世界に生きる、能天気な正義のヒーロー」などではなく、「悪人を切ってさえ、その返り血を浴び、血に塗れた我が手の罪を感じないではいられなかった、リアルな人物」なのである(戦場で撃ち殺した米兵が、まだ子供のようなあどけない顔をした若者だったと知って、罪の意識を感じた日本の兵隊のように)。
だから、本作を「痛快娯楽作品」だなどと評価するのは、まったくの見当違いであり、作品自体を見ていない(鑑賞したが、理解していない)ということにしかならない。
またその意味で、本作『椿三十郎』を、単純に『用心棒』の「続編」だと考えるのは、あきらかな間違いなのだ。
私は、『椿三十郎』の原作となった、山本周五郎の小説を読んでいないから、確かなことは言えないが、『用心棒』の翌年に作られた本作が、これほどまでに「反・前作」的なものになったというのは、そこに「山本周五郎的な精神」が流れ込んだからであろうというのは、ほぼ間違いのないところだろうし、黒澤自身も「山本周五郎的な精神」による前作批判を、「椿三十郎」が「城代家老夫人」の批判忠告を受け入れたのと同じように受け入れたからこそ、このような「方向性の真逆な作品」を撮ったのではないかと、そう推察する。
そして、そうした意味でも、本作の鑑賞者は、この程度のことは、是非とも読み取らなくてはならないし、それが読み取れないようでは『椿三十郎』という作品のことを「何もわかっていない」と言われても仕方がないのだと、そう反省すべきなのである。
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ちなみに、さらに親切に説明しておけば、本作における「おっとりした城代家老夫人」は、言うなれば「平和憲法の化身」なのだ。
だから、「椿三十郎」は、その「理想」の正しさを支持しながらも、「あの奥方、ボケているんじゃねえか」などと、その「非現実性」に、ひと言「悪態」をつかないではいられなかったのだ。
「わかってはいても、それを実行できない自分の非力」を自ら責めているからこそ、作中でも指摘されるように「好きな相手だからこそ、悪態をつかないではいられない」というのが、彼の性格だったのだ。
だから、最後に救出されて、やっと登場する、伊藤雄之助の演ずる「城代家老・睦田弥兵衛」が、間延びした顔に、すっとぼけた話ぶりの、しかし実は「強かな食わせもの」であるにもかかわらず、彼を排除しようとした悪漢たちを「できれば、事を荒立てずに穏便に済ませて(死なせないで済ませて)やりたかった」とまで言うのは、彼が、「愛する妻」である「平和憲法」の理想を、何とか現実政治に落とし込もうとする、戦後昭和の「良き保守政治家」を投影した人物だったからだと、そうも言えるのである。
「城代家老・睦田弥兵衛」は、勇ましいことは言わないし、何を考えているのかよくわからない、一見パッとしない、のらりくらりとした人物だが、そこには「現実政治」に対する「深い思慮と理想」が二つながらに隠されていたのであり、それが「人生経験に乏しい、血気にはやる若侍たち」には(椿三十郎に指摘されるまでは)わからなかった、ということなのだ。
そして、本作のこうした「リアルなテーマ」は、最後の「一対一の果し合い」にもよく表れている。
本作中で、悪の「大目付」側に「懐刀」的な存在としてついていた、仲代達也演ずるところの剣豪「室戸半兵衛」は、信頼していた「椿三十郎」から、ずっと騙されていたのだと知って、最後に「一対一の果し合い」を申し込んでくる。
しかし、「椿三十郎」は「おめえには一目置いてたし、できればお前とは立ち会いなんぞしたくねえ。だが、おめえも、俺と同じ抜き身の人間だから、断るってわけにもいかねえんだろうな」と言って、やむなく「室戸半兵衛」と正々堂々と向かい合い、一刀のもとに半兵衛を切り捨ててしまう。
そして、黙って立ち去ろうとしていた「椿三十郎」を引き戻そうと、「城代家老」の命で追いかけてきていた「若侍たち」は、目の前で繰り広げられたこの果し合いを見て、その壮絶さに呆気に取られた後、気を取り直すと、世の習いどおりに「お見事!」と、「椿三十郎」に賞賛の言葉をおくるのだが、「椿三十郎」は、それに対して、心底不愉快そうな顔で「わかったようなことを言うんじゃねえ。俺は今、機嫌が悪いんだ」とそう言い捨てて、「若侍たち」に背を向けて去っていき、「若侍たち」は、その背に向かって、助けてもらったことに対する「感謝」の気持ちを込めて、土下座をして見送るところで、このドラマは幕を下ろすのである。
つまり、このラストには、「若造」たちにはとうてい理解の及ばない、「斬りたくなかったのに、斬るしかなかった」という、椿三十郎の深い「悲しみ」が描かれているのだ。
だから、本作『椿三十郎』のラストは、『用心棒』のラストと似ているようではあっても、決して同じような「内容」のものではなく、むしろその真逆といって良いような、およそ「痛快」とは言い難いものだったのである。
『陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。』と書いてあるのに、明らかに「軍隊」である「自衛隊」を作って保持し、『国の交戦権は、これを認めない。』と書いてあるのに「専守防衛」なら、「交戦」ではなく「自衛」だという「詭弁」を語るというのは、しかし、『椿三十郎』に登場する「城代家老」のような、のらりくらりと難題に対処する「保守政治家」の選んだ「食えない政治手法」という側面もあったのであろう。
「椿三十郎」のように、どうしても「殺し合い」が避けられない時に、確実に相手を倒せるのなら、いくら気分が悪かろうと、それはそれで仕方ないとも言えよう。
だが、現実の殺し合いでは、いつでも確実に勝てるという保証などないし、勝っても、それなりの深傷を負うことになるのは、歴史に照らして明らかだ。
それに、両者が共倒れになることも珍しくはない。
だとすれば、「血気にはやった若侍たち」のような「浅はかな勇ましさ」を振りまわす、現実の見えていない馬鹿には、「椿三十郎」のように、本気のビンタをくれてやるくらいのことは、して然るべきなのである。
(2024年6月2日)
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