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北村紗衣 『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』 : 「死」というバズワードの濫用
書評:北村紗衣『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』(書肆侃侃房)
もう数日で、あるい今日明日にも、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある、北村紗衣の新刊『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』(以下『女の子が死にたくなる前に』と略記)が刊行される。
本当なら、本稿はもっと早く書いてもよかったのだが、本稿に妙に賛同する人が出てきて、本書に対する「キャンセル」的な動きになるのは、私の本意ではないから、本稿の執筆を今日までひかえてきた。
つまり、もうこのタイミングならば、私がどんなに「本当のこと」を書いても、本書が刊行延期になったりすることはないだろうと、そう考えたのである。
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まだ刊行されてもいない本について批評できるのかと、そう疑問に思われる方もあろうが、もちろん、それが可能なのだ。
私が本稿で主に扱うのは、本書の「タイトル」と、【試し読み】として、版元である「書肆侃侃房」の「note」記事として、すでに公開されている、著者・北村紗衣の「プロローグ 死んでるヒマなんかなくなった」だからである。
つまり、ちゃんと読んで、批評するということだ。
・【試し読み】北村紗衣『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』より(「プロローグ 死んでるヒマなんかなくなった」)
まず、本稿で問題として指摘したいのは、この、やたらに長い「タイトルの中身」である。「長さ」の方ではない。
一一どういうことか。
要は、本稿のタイトルにも示したとおり、本書のタイトルは、「死」というバズワードを濫用したものだ、ということだ。
一一こんなタイトルをつけてまで、「本が売れれば、それでいいのか?」という批判である。
無論、この批判は、主として、著者である北村紗衣に向けられたものなのだが、今やネット界隈では「北村紗衣評論家」の異名を持つ私なので、「北村紗衣には、何を言っても無駄。なにしろ〝キャンセル〟と〝ノーディベート〟の人なのだから」と、その事実を、深く承知しているから、北村紗衣には、もはや何も期待していない。
では、ほかに「本が売れればそれでいいのか?」と問いたい相手といえば、無論、版元である「書肆侃侃房」である。
私はけっこう幅の広い「本読み」だから、「書肆侃侃房」が地方出版社ではあっても、かなり良い仕事をしているというのは、かねがね承知していた。
例えば、2022年刊行の、島田龍編『左川ちか全集』などもそれで、下の『左川ちか詩集』(岩波文庫)についてのレビューで、この『全集』刊行の果たした大きな意義に言及してもいる。
つまり、そういう、なかなか「いい仕事」をしている出版社だと思っていたので、北村紗衣のような「人気だけで中身のない文筆家」の本を、いくら同社から刊行の前著『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』が売れたからといって、「柳の下の二匹目のドジョウ」としか思えない2冊目を刊行するというのは、出版社としての見識を疑わせ、信用を貶める自傷的な行為として、「いかがなものか」と、そう思ったのである。しかも、このタイトルだ。
私はすでに、北村紗衣の批評書の4冊すべてを読み、その上で、このように断じている。
わかりやすく言えば、北村紗衣は「ネット・アイドル」的な人気があるだけの、文筆家としては、明らかに「三流」の「クズ作家」であり、学者としても「ポンコツ学者」だと、そのように評価している。
その「証拠」は、下のレビューに、イヤというほど示してあるから、嘘だと思うのなら、ぜひこれらの論考を読んでいただきたい。そして、その上で異論があるならば、ぜひ真正面から反論して欲しいとも思っている。
例えば、北村紗衣の「ファンネル・ディフェンス」の一人であろう「佐野亨」を名乗る人は、Twitter(現「X」)で、
『 佐野亭 Toru Sano
@torusano1124
北村紗衣さんの『ダーティハリー』論について異論があるならば、単純に正面から批判を書けばよいだけなのに、非礼なマウンティングや侮蔑的な物言いでみずからを上位に置こうとする言説が次々に湧いてきて、それに反論するとさらに醜悪な身ぶりで自身を正当化しようとする。本当に恥ずかしい。
午前6:55・2024年8月29日』
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などと書いていて、まるで「北村紗衣批判者」は、まともな批判していないかのようなことを書いている。
北村紗衣についての、主として「Twitterによる短文」擁護というのは、おおむねこの手の「決めつけ」だけで、具体的な中身が、全くない。それこそ、中身の無い決めつけは、ご当人の方なのだ。
そしてこれは、何より、彼らの本尊である北村紗衣自身が範を示している、「キャンセル」手法のひとつであり、要は、悪質な「印象操作」なのである。
実際、私は、上のように、北村紗衣の著作について、その中身を引用しつつ具体的に、その「中身のなさを論証する」(切り刻み)レビューを書いているし、「佐野亨」氏の言う、北村紗衣の「『ダーティハリー』論」が、いかに「ポンコツ評論」でしかなかったかも、その発言に即して批判しているのだが、それに対する反論は、どこからも寄せられていない(ちなみに、この「ポンコツ」という言葉は、北村紗衣の「愛用語」だ)。
なぜ、お求めに応じて、真正面から「批判論文」を書いたのに、それに対する反論が無いのか?
それは、私の批判論文を読めば、北村紗衣と同様「Twitterでの短文悪口」くらいしか書けない「北村紗衣フォロワー」には、私への反論など、能力的に不可能だというのは、明々白々なことだからである。
そもそも、北村紗衣の「フォロワー5万人弱」というのは、49,900人くらいまでが、「活字の本を、ほとんど読まない人」なのだ。
だからこそ、本が多少売れても、プロ、アマ(ファン)を含めて、まともな書評が、ひとつも出ないのである。
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すでに書いたことだが、北村紗衣の著書についてのレビューというのは、(私のもの以外は)すべて「提灯持ちレビュー」であり、本心・本音で書かれたものなど無いと言っても過言ではない。
例えば、前記『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の帯に刷られた、「ライムスター宇多丸」の推薦文も、まったく中身のない「キャッチコピー」に過ぎない。
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このことは、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の次に読んだ、『お嬢さんと嘘と男たちのデスロード』のレビューで、次のように書いておいた。
『残念ながら、この世の中には「人を騙そうとする人」は絶対にいなくならない。だからこそ、騙されないように注意を促すことが重要なのである。
例えば、本書『お嬢さんと嘘』と同レベルの『お砂糖とスパイス』には、私はよく知らない「ライムスター宇多丸」という人が、次のような推薦文を寄せている。
『ポップでシャープ・フレッシュ!
フェミニズム批評とは、男女問わず世界の見方を何倍にも豊かにしてくれる超強力なツールであり武器なのだということを、この快著は教えてくれる。』
この人は、「読めなかった」のか、「嘘をついている」かの、いずれかだ。
タレントが、悪徳業者のコマーシャルに出ることなど、普通にあることで、それをとがめても仕方がない。
ともあれ、今のところ、名のある評論家や作家が、北村紗衣の著作に「推薦文を寄せていない」という事実にこそ、「読める人」なら着目するはずだ。
肝心なのは、「その差(見るべきところを見る能力の差)」なのである。
ともあれ、このライムスター宇多丸さんは「ラッパー/ラジオパーソナリティ」だそうだが、音楽以外のことについては、無責任なのか、ぜんぜんセンスがないのが、世渡りの上手いだけなのか、それは私にもわからない。
ただ、昔の「青二才」島田雅彦ならば、「ラッパーは、ラッパでも吹いててください」とか言うのではないだろうか。
ラッパーはラッパは吹かないが、他のものなら吹くかも知れない、ということである。コマーシャルを鵜呑みにしてはいけないのだ(なお、島田雅彦のオリジナルは「開高さんは、釣りでもしててください」)。』
ここに書いたとおり、
『名のある評論家や作家が、北村紗衣の著作に「推薦文を寄せていない」という事実』
が重要なのだが、この時の私は、ここでも書いているとおり「ライムスター宇多丸」なる人が何者なのかを、まったく知らなかったから、「ライムスター宇多丸」について、
『この人は、(※ 北村紗衣の本の中身を)「読めなかった」のか、「嘘をついている」かの、いずれかだ。』
と書いたけれども、今の私は、その真相は「後者」、つまり「嘘をついて」いたの方であろうと推察している。
言い換えれば、「ライムスター宇多丸」は、「心にもない提灯推薦文を書いた」のだと思っているのだ。
その根拠は、つい最近見つけた「『映画秘宝』誌DM」問題で、「北村紗衣のそっくりさん」によって、同誌編集部の面々が、土下座的に謝罪させられているのを、この「ライムスター宇多丸」が、間近に見て、そのうえで、いかにも「卒のないコメント」をした、という「過去」を知ったからである。
この「金玉が縮み上がるような光景」を見せつけられて、「ライムスター宇多丸」は「こういう女には、決して逆らわないでおこう。適当にゴマを擦っておいた方が無難だ」と、そう考えて、それ以降、同種の人間である北村紗衣に対しても「ゴマを擦る」ことにし、求められるままに、「絶賛推薦文」を適当に書いたのではないかと、そう推察したのである(どうですか、宇多丸さん? いちど本音のところをお聞かせくださいな)。
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この件については、近々別稿として書くつもりだから、ここまでにしておくが、気になる方は、ぜひ、「Wikipedia」の「映画秘宝」のページをご確認いただきたい。
そこには「北村紗衣のそっくりさん」としか評しようのない「物言い」をする、「被害女性」なる人が「匿名」で登場しているのを、ご確認いただけるはずである。
ちなみに、私はすでに、この「映画秘宝」についての「Wikipedia」ページのログを採っている。
某「ウィキぺディアン」に「書き換えられる恐れがある」からだが、もうこれで、書き換えてもらってもかまわない。
それはそれで、「状況証拠」にもなるからだ。
(※ 【お詫びと訂正】 昨日(2024年11月9日)は上のように書きましたが、確認してみると、北村紗衣の『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の刊行は「2019年6月」で、「『映画批評』DM」問題の発生「2021年1月」なので、ライムスター宇多丸氏は、この事件以前から北村紗衣を評価していたのであろうことが確認できました。この事実誤認について、ライムスター宇多丸氏および関係各位に対し、記してお詫びします。
したがって、結論としては、ライムスター宇多丸氏は、単に、最初から「読めない人」だったという蓋然性が大ということになります。事実誤認があれば、いつでもご指摘ください。喜んで対応させていただきます。〔2024年11月10日〕)
閑話休題。
そんなわけで、北村紗衣の著作は(英語に関するそれは読んでいないので知らないが、それ以外は)すべて「クズ本」である。
単に、貶しているのではなく、ちゃんと中身を論じた上で、そう「結論」したのだ。
だから、今日明日にも書店にならぶだろう、新刊『女の子が死にたくなる前に』も、間違いなく「クズ本」だと確信している。
だが、北村紗衣の著作が「クズ本」であるというのは、私にはすでに「自明な話」なのだから、それをここで繰り返そうというのではない。
ここで論じたいのは、最初に書いたとおりで、本書のタイトルが、「酷い」を通り越して、「悪質」だという点なのである。
それにしても「書肆侃侃房」は、よくもこんな「タイトル」の本を、刊行しようと思ったものだ。
「出版社としての見識と良識」を疑わせるに足る、これは「悪質なタイトル」だからだ。
だが「言葉に鈍感な人」は、本書のタイトル、
『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』
これのどこが「悪質」なのかに気づきはしないだろう。だからこそ私は、本稿を書くことにしたのである。
説明しないとわからないような、「書肆侃侃房の編集者」や「北村紗衣ファン」のために、これを書いたのだ。
○ ○ ○
さて、このタイトルの、どこが「悪質」なのか?
無論、タイトルが無闇に長いというような、つまらない話ではない。
やたらに長いタイトルをつけて「目立とう」とするのは、北村紗衣の「常套手段」であって、何も今に始まったことではないし、本の中身にはまったく関係しない、くっだらない「手口」ではあっても、「悪質」とまで言うつもりはない。
問題なのは、もちろん『女の子が死にたくなる前に』の部分であり、特に「女の子」と「死」を結びつけて、「目立つタイトル」に仕立てた点である。
一一「売れれば、何でもありなのか」と、そう言わないではいられない、その悪質な「やり口」が、問題なのだ。
言うまでもなく、「死」という言葉は「パワーワード」であり、それだけでも「目を引く単語」なのだが、周知のとおり、ネット上で、しばしば問題となっているのは、「死にたい」という言葉だ。
この言葉が含まれたワードをネット検索すると、トップに、
『ヘルプが利用可能
今すぐ相談する
こころの健康相談統一ダイヤル
時間: 都道府県によって異なります』
という表示が出て、専用ダイヤルや公式ウェブサイトが紹介されるような仕様となっている。
それくらい、世間では「死にたい」というワードに「センシティブ」になっているのだ。
また、『バズる「死にたい」 ネットに溢れる自殺願望の考察』(古田雄介・小学館新書)という本も、ごく最近刊行されているのだが、こうしたことからもわかるとおり、多くの人が、「死にたい」というワードに強く惹きつけられ、もはや「死にたい」は「バズワード」となっているのである。
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つまり、北村紗衣は、そのことを百も承知の上で、「バズるタイトル」として、本書にこのタイトルをつけたのだ。
例えば、無難に、
『女の子がサバイブするためのガールズ洋画100選』
としても良かったものを、「それではインパクトが弱くて売れない」からと、わざわざ、
『女の子が死にたくなる前に』
としたのだ。
もちろん『女の子が死にたくなるガールズ洋画100選』では、かの『完全自殺マニュアル』のように、その悪名を歴史に刻んでしまうことになるし、ひとまず、世間からの糾弾は避けられない。
それくらいのことはわかっているからこそ、少しひねって、「自殺防止」風に、
『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』
とでもしておけば、どこからも注文がつかないだろうと、そこまで「計算」した上で、「死にたい」にごく近い「死にたくなる」という言葉を、本書のタイトルにつっ込んだのであろう。
もちろん、本書に「自殺防止」の意図など皆無と言ってよく、要は、この「バズワード」をつっ込みたかっただけ。
「売らんかな」でつけた「バズタイトル」だというのは、少し覚めた目で見れば、「偽善者」以外には、誰にも明らかなことなのである。
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実際、北村紗衣自身、「タイトルの付け方」について、自著『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)の中で、次のように書いている。
『もし書いたものをブログなどで公開するのであれば、カッコいいタイトルがついていたほうがコミュニケーションの観点からは有利だということです。人間はどうしてもキャッチーなものに惹かれます。塔にこもっていて数人の友達以外には批評を読まれたくないというのであればキャッチーなタイトルをつける必要はありません。しかしながら、もし批評を通して他の読者や観客とコミュニケーションをしたいと思うのであれば、人に読んでもらえそうなタイトルをつけて公開する必要があります。新美南吉の作品に関する真面目で精密な議論が大人気になる可能性は必ずしも高くはないかもしれませんが、「『ごん孤』論」よりは「なぜ、うなぎはこんなに美味そうなのか!美食文学としての『こん狐』」にしたほうがまだSNSでバズりやすいでしょう。これは後者のタイトルは何が書いてあるのかなんとなく想像できるくらい具体的で、しかもちょっと面白そうだからです。「『ごん狐』論」だといったいどういう切り口の何なのかわかりません。
個人的なことですが、私は学術論文でも商業媒体用の批評でも、たいてい切り口をまず決めて、それからタイトルを決めて書き始めます。この本については、最初は「私のバッグに入ってるトマトはぶつけるためにある」(英語の表現で、舞台や映画があまりにもひどい時に腐ったトマトを投げつけるレベルだとかいうような言い方をすることがあります)というとんでもないタイトルにしようかと思ったのですが、やたら暴力的なのですぐボツにして、「チョウのように読み、ハチのように書く」にしました。ボクシングの名言なのでちょっとは暴力的かもしれませんが、まあスポーツの話だからそこまで剥き出しというわけではないし、このほうがポジティヴな内容になりそうだと思ったからです。』(P138〜139)
これが、「タイトル」というものについての「北村紗衣の持論」なのである。
だからこそ、
・『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』
・『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』
・『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』
あるいは、
・『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』
となったのだ。
しかも、これらのタイトルに共通するのは、「死」までも連想させる「暴力性」である。
『爆発的な何か』『デス・ロード』『ハチのように書く(元ネタは「刺す」)』『死にたくなる』、あるいは、上の引用文にある、ほとんど意味不明な攻撃性をふりまく「私のバッグに入ってるトマトはぶつけるためにある」などなどだ。
したがって、こういう「趣味」あるいは「衝動」を抱えている北村紗衣が、「自殺防止のため」に『死にたくなる』という言葉を、新刊のタイトルにつけたとは、いかにも考えにくい。
つまり、「北村紗衣的な(暴力的)バズワード」として、「死にたくなる」というワードが採用されてに違いないのだが、一一それって「悪質すぎないか?」ということなのだ。
なにしろ、「人の命」を「販売促進のために弄ぶ」ような、タイトルなのである。
最近、「タイトル」の問題で話題になって、今も議論の続いているのが、アビゲイル・シュライアーの『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』(産経新聞出版)の刊行をめぐる、「出版妨害」騒動だ。
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この本は、もともとは「KADOKAWA」から『あの子もトランスジェンダーになった』の邦題で刊行告知までなされていたものなのが、「ヘイト本を出すな!」という、メールだの署名だの電話だのが多数寄せられて、そのあげく「放火予告」までもがあったせいで、KADOKAWAが「タイトルが、トランスジェンダーの方への誤解を招くものであった」というようなことで謝罪して、さっさと刊行を撤回してしまった。
それを、「産経新聞出版」が「本書はヘイト本ではない。読んでから言え。われわれは出版妨害には屈しない」と、おおむねそのようなことで、同書の出版を買って出て、タイトルを一部変更したうえで刊行した、というような騒動である。
で、こうした騒動の、どちらがどうという話は、上のレビューを読んでいただくこととして、ここで、問題なのは、
『あの子もトランスジェンダーになった』
というタイトルが、出版中止にしなければならないほどの「問題のあるタイトル」なのか、ということである。
つまり、『あの子もトランスジェンダーになった』が刊行中止にしなければならないような「悪質なタイトル」なのだとすれば、
『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』
の方は「数十倍、悪質だろう」と思うのだが、「書肆侃侃房」の皆さんは、そのあたり、どうお考えであろうか?
もちろん、私は「数に任せた」出版妨害には反対の立場だから、あくまでも「個人」による「批評」としてこれを書いているわけだが、やっぱり「出版社」の人というのは、「数の力は怖いが、個人の批評など無視すれば良い」と、そう「ノーディベート」的にお考えなのだろうか。一一そう問いたいのである。
○ ○ ○
北村紗衣が、「攻撃的なバズワードが好き」だというのは、同じ「書肆侃侃房」の刊行した前記『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のレビューで、同書所収の、
・愛の理想郷における、ブス 一一夢見るためのバズ・ラーマン論
を論じて、次のように指摘しておいた。
このエッセイは、バズ・ラーマンという映画監督は、その作風として、過剰なまでに煌びやかな世界を描くくせに、なぜかヒロインだけは「美人」ではなく、凡庸な容姿の女性だ、と指摘した上で、どうしてもバズ・ラーマンは、あえて「ブス」を選ぶのかと、そのように論じた作家論である。
で、その作家論としての当否は置くとして、このタイトルからもわかるとおり、北村紗衣が力点を置いているのは、「ブス」という言葉なのだ。
要は、バズ・ラーマンは「私たちのようなブスのために、映画を作ってくれているのだ」というほどのことなのだが、それを語るのにどうして「ブス」という、男なら、普通はとても口にはできない(書けない)言葉を使ったのかと言えば、それは北村紗衣が「女性」だから、「自分たち」を指して「ブス」と言うのなら、それを口にすることも許されると、そう考えたからである。
だから、北村紗衣は、このエッセイのなかで、男子から「ブス」呼ばわりされたことのある一人だと、さも自分を「ブス」だと思っている「かのように」書いている。
『ブスの夢
ここで私がとくに注目したいのは、ラーマンの映画の世界において、ニコール・キッドマンが主演している『ムーラン・ルージュ』と『オーストラリア』以外はヒロインがー一これは絶対に言ってはいけない言葉なので、使うのがはばかられるのですが、勇気を出して一度だけ言います一一男優に比べるとちょっとばかりブスである、ということです。』(P186)
『現実とはかけ離れた華麗な世界がぐるぐる回る、まるで乙女の夢と妄想を描いたような作品と言えると思います。世界じたいはきわめて人工的なのに、ヒロインたちはどういうわけだかそのあたりにいそうな、ひょっとすると(私たち同様)ブスとか不細工とか言ってバカにされたこともあるのかもしれないようなふつうの女の子で、現実世界に釘付けにされているように見えるのです。』(P187)
まあ、普通に「文章が読める人」には、北村紗衣が「ブス」という言葉を、使いたくて使いたくて、しようがなかったというのが、ハッキリと読み取れるはずだ。
もちろん、北村紗衣は、ここで自分を「ブス」の一人だと表明することで、「ブス」という言葉を使用する「権利」を得たつもりでいる。
しかし、所詮これは「見え透いたアリバイ工作」にすぎない。
本当に「ブス」という言葉で傷つく女性のことを考えているのであれば、何もここで「ブス」と書く必要はない。普通に「不美人」と書いておけば良かったのだ。
だが、男に対しては、「フェミニスト」であることを盾にとって、見下したようなことは書けても、同性の女性に対しては、「フェミニスト」であればこそ、言葉遣いには慎重にならざるを得ない。
日頃、男たちの言葉遣いの「無神経さ」と、それに潜む「偏見や差別意識」を告発しているのに、その自分が男と同じように、女性に対して「無神経な言葉」を使うわけにはいかないのだ。
しかしながら、禁じられれば禁じられるほど、それをやりたくなるのが、男女を問わぬ「人のさが」である。「王様の耳はロバの耳」の心理だ。
だから、文筆家として、その「レトリック」に自信を持っている北村紗衣は、自分も「ブス」に含まれているというフリをすることで、この使いたくても使えなかった言葉を、「バズ・ラーマン論」の体裁を借りることで、使ってみせたのである。
つまり、北村紗衣自身は、じつのところ、自分を「ブス」だとは、これっぽっちも思ってはいない。
いや、むしろ「美人」の部類だという自負さえ持っていればこそ、自分から進んで、自分も「ブス」の部類だと、そう語り得たのであろう。
それに、北村紗衣は、馬鹿な男子たちから「やーい、ブス!」などと言われたからといって、それで自分が「ブス」だということになるなどとは、これっぽっちも思っていないから、「私も読者の皆さんと同じ、ブスですよ」と、わざとらしく「ブス」だと認め、言うならば「御免状」を得た上で、楽しく「ブス」という言葉を使ってみせたのである。
一一それにしても、なんて嫌な女だろうか。いや、なんて鼻持ちならない「ヒト個体」なのであろう。
つまり、北村紗衣という人は「暴力的なパワーワード」が大好きであり、それが使いたくて使いたくて仕方がない人なのだ。
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実際、ご当人も『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』所収の文章で、こんなことを書いている。
『 個人的なことで恐縮だが、私はこの本(※ レイチェル・ギーザ『ボーイズ一一男の子はどうして「男らしく」育つのか』)を読んで、女で良かった……と思った。というのも、私はこの本で指摘されている伝統的かつ有毒な男性性をたっぷり備えていると思われる女性だからだ。私は非常に人間が嫌いで、所謂コミュニケーション力が欠如している。他人の感情を読み取ったり気遣ったりするのは苦手である。そのわりにケンカが大好きで、人と争うことが全く苦にならない。もし男の子として育てられ、この本で述べられているような伝統的な男らしさを吸い上げて大人になっていたとしたら、たぶん所謂アンガーマネジメント(怒りのコントロール)の問題を抱えるようになっていただろう。音楽の才能がない(※ 素行の悪い)レッド・ツェッペリンみたいになっていたかもしれない(考えるだに悲惨だ)。今、比較的健康に暮らせているのは、たぶん女の子として育てられたおかげだ。
女の子として育てられた人間にはいろいろ社会的に不利なことも起こるが、一方で暴力的、支配的であることが良いという価値観を植え付けられて大人になる機会はめったにない。穏やかさとか優しさが美徳だということを教えられる。』
(P129)
無論、これはご当人の「自己申告」でしかなく、どんな「大人の女性」に育ったのか、その「現実」は、徐々に知られ始めている。
ともあれ、「暴力的なパワーワード」を下手に使うと「世間の顰蹙を買う」のは明らかなので、「そういう意図ではないのですよ」という「予防線」をしっかり張り、「アリバイ工作」をした上で、そうした「パワーワード」を「嬉々として使う人」が北村紗衣なのだ、ということである。
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それが、その「パワーワード」が、上の『ラーマン論』では「ブス」であり、今回の新刊タイトルでは「死にたくなる」なのだ。
しかも、前記のアビゲイル・シュライアー書『トランスジェンダーになりたい少女たち』でも描かれているとおり、「思春期の女の子」というのは、子供の身体から大人の身体に変わる時期であり、どうしても情緒が不安定になりやすい。
だから、インターネット上の「インフルエンサー」の影響を受けて、欧米などでは「トランスジェンダーになりたい」という少女たちが「流行り病」のように大量発生して社会問題になった。
また日本でも、ネット上に「自殺中継動画」をアップして自殺してしまうようなのも、やはり「女の子」に偏りがちなのだ。
つまり、そんな「インフルエンサーに影響を受けやすい、十代半ばの女の子」たちに向けて、狙いすましたように、「死にたくなる」という「バズワード」を冠した本を、「売らんかな」で刊行するというのは、一体、どういう了見なのか。
これは「出版倫理」がどうこうという以前に、もう「神経が完全に麻痺している」としか、私には思えないのである。
この「【試し読み】北村紗衣『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』より(「プロローグ 死んでるヒマなんかなくなった」)」には、
『 深刻な話で恐縮ですが、私は20歳前後までは精神不安定で何度も死にたいと思いましたし、我ながら今思い出しても引くくらい困った人だったと思います。今は10代、20代の頃よりもはるかにキツい人生を生きていますが、死にたいと思うことはなくなりました。世の中には楽しい映画やお芝居やテレビドラマがたくさんあって、私が好きそうな新作の話題が入ってくると、とりあえず見るまでは頑張ろう……と思えるからです。007シリーズ25作目のタイトル『ノー・タイム・トゥ・ダイ』よろしく、楽しそうな映画が多すぎて死んでいるヒマがありません。人生の目的は死ぬまでひたすら楽しいことをすることだと思えるようになりました。別に映画は人生の役に立つために作られているわけではないし、私も人生の役に立つと思って映画を見ているわけではないのですが、どういうわけかひとりでに映画は私が生き抜くのを助けてくれるようになりました。とても感謝しています。』
などと、取ってつけたようなことが書かれているが、「本読み」の私には、こんな言葉など、いかにも白々しい「アリバイ工作」にしか見えない。
それに、なにしろ北村紗衣は、自ら「ミステリマニア」ぶってみせるだけのことはあって、「信頼できない語り手」なんていう、マニア用語さえ知っている人なのだ。
まあ、「文学」に縁のない人には、「字面」だけ整っていれば、それで信じてしまえるということなのであろう。
まさか、自分たちに向けて、公然と「叙述トリック」が仕掛けられているなどとは思わない。
だが、そんなのは、世間にありふれたことでしかないのだ。
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(2024年11月9日)
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