本能寺の変1582 目次小 5藤孝との出会い 2上洛不発 第22~27話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
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第22話
永禄九年1566、春。
細川藤孝は、尾張にいた。
信長に対する、義昭の期待は大きかった。 「和田家文書」
藤孝は、信長に入れ込んだ。
結果、義昭の家中に二つ流れが生じた。
藤孝は、尾張に踏みとどまった。
ところが、状況が変わった。 「和田家文書」
長引くのには、理由があった。 「和田家文書」
義昭は、不安だった。 「和田家文書」
第23話
◎細川藤孝は、信長から言質を得た。
義昭の家中は、沸き立った。
義昭は、これを各所へ知らせようとした。
◎上洛間近、誰もがそう思った。 「多聞院日記」
義昭の御内書である。 「多聞院日記」
◎信長は、確かに、約束した。 「多聞院日記」
◎だが、信長は、用心深い。 「多聞院日記」
家康も、参陣する。 「多聞院日記」
多聞院英俊がこれを書き写した。 「多聞院日記」
◎しかし、糠喜びに過ぎなかった。 「多聞院日記」
第24話
ここで、状況が一変した。
三好三人衆が坂本に進出した。 「言継卿記」
義昭は、六角承禎の離反を知った。
武田信玄がこれらを見ていた。
斎藤氏と武田氏は、良好な関係にあった。「中島文書」「戦国遺文」
◎義昭は、美濃と尾張の和睦を進めた。 「中島文書」「戦国遺文」
◎斎藤氏は、信長を信用していない。 「中島文書」「戦国遺文」
◎信長もまた、斎藤氏を信用していない。
◎「相互不信」
◎これが、この時代の風潮だった。
斎藤氏は、和睦することに決めた。 「中島文書」「戦国遺文」
細川藤孝は、そのために奔走していた。 「中島文書」「戦国遺文」
第25話
◎信長は、上洛を断念した。
◎「織上違変せしめ候」 「中島文書」「戦国遺文」
◎信長は、斎藤竜興を信用していない。
◎信長は、用心深く、疑い深い。
義昭は、甘かった。
幕府の権威は、疾(と)うの昔に失せていた。
義昭は、大きなショックをうけた。 「中島文書」「戦国遺文」
斎藤龍興は、三好三人衆と結託していた。「中島文書」「戦国遺文」
細川藤孝は、判断を誤った。
第26話
信長は、嘲笑の的となった。 「中島文書」「戦国遺文」
信長は、再び、美濃を攻めた。 「中島文書」「戦国遺文」
これで、和睦は消滅した。
義昭は、失望した。
細川藤孝は、面目を失った。
義昭は、矢島から若狭へ向かった。
山科言継の証言である。 「言継卿記」
山科言継は、信長のことをよく知っていた。
若狭は、内乱状態にあった。 「多聞院日記」
第27話
◎信長は、河野島で斎藤龍興に敗れた。 「中島文書」「戦国遺文」
◎信長の決断は、正しかった。 「中島文書」「戦国遺文」
◎隙を見せれば、命を取られる。 「中島文書」「戦国遺文」
◎信長は、再認識させられた。
義昭は、若狭から越前敦賀へ移った。
朝倉義景がこれを支援した。
義景は、信長の一つ年上。
義昭は、信長から謙信へ大きく舵を切った。 「御内書」「歴代古案」
義昭は、謙信に上杉と北条の和睦を提案した。「御内書」「歴代古案」
となれば、当然、上杉派の発言力が増大する。「御内書」「歴代古案」
細川藤孝は、肩身の狭い状況に追い込まれた。
⇒ 次へつづく 目次小 5藤孝との出会い 3天下布武 第28~29話