本能寺の変1582 目次中 信長の台頭 3桶狭間 254~273 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次中 信長の台頭 3桶狭間 254~273
254 永禄三年(1560)
三好長慶が上洛した。 「言継卿記」
255 正親町天皇の即位礼が執り行われた。 「言継卿記」
256 三好長慶が幕府に出仕した。 「言継卿記」
257 将軍義輝が参内した。 「お湯殿の上の日記」
258 三好長慶、得意の場面である。 「足利季世記」
259 今川軍が尾張に進出した。 『信長公記』
260 今川義元が沓掛に到着した。 『信長公記』
261 信長、出陣。「敦盛」、人間五十年~。 『信長公記』
262 義元は、桶狭間で休息をとった。 『信長公記』
263 信長は、今川方から丸見えだった。油断。 『信長公記』
264 信長は、中島砦に入った。この時、軍勢、僅か二千。『信長公記』265 運は、天にあり。 『信長公記』266 信長は、強運だった。その時、天気が急変した。 『信長公記』267 やがて、雨が上がった。信長は、攻撃を命じた。 『信長公記』268 信長は、義元を追い詰めた。今川義元の最期。 『信長公記』
269 義元の首。 『信長公記』
270 これすなわち、因果応報。 『信長公記』
271 以後、今川氏は衰亡の道を辿る。 『信長公記』
272 頸数三千余。信長は、義元の首を駿河へ届けた。 『信長公記』
273 名刀、左文字。 『信長公記』
目次 1~317
目次大 1~317
目次大 信長の台頭 240~317
目次中 信長の台頭 240~317
目次小 信長の台頭 240~317
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?