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雑感記録(162)

【古本巡りはスポーツだ!2】


今日はここへ行ってきた。

最初に行ったのは大学3年生の頃だ。これまた大学の友人に誘われて電車を乗り継ぎながら所沢まで行き、ひたすら古本を漁った。そこから毎年行くようにはしていたのだが、地元で就職してからというもの中々行く機会に恵まれず、今回本当に5年ぶりに行ってきたのである。

所沢駅を降りてすぐのくすのきホールという所で開催されているのだが、そのホールがまあ広いこと広いこと…。本当は2日3日を掛けて巡りたいところなのだが、社会人ともなるとそう言ってられない。1日で巡りつくさねばならない。しかし、行ったことがある方は分かると思うのだが、1日で全てを見て回るのは不可能だ。つまりはそれぐらい本が並んでいるということである。

古本巡りはやはりスポーツなのである。

朝から早起きして気合いを入れて僕は東西線で高田馬場まで向かい、西武新宿線に乗り換えて所沢まで30分位だったか、ゆらり揺られながら心を躍らせながら向かった。


大学の友人と一緒に行く予定だったのだが、どうやら彼は体調を崩してしまったらしい。僕は内心「いや、これは僕1人で行って愉しんでいいのか…」と思っていた。彼も心待ちにしていたのは確かだと思うし、きっと行きたかったに違いない。それを僕が!1人で!愉しんできていいのか!?と。

実は今、この文章を書きながら煩悶としている。それは体調不良で、古本まつりに凄く行きたかった友人が結局行けなくて、もしかしたら、いやもしかしなくとも悔しい思いをしているはずだ。それなのに僕は「1人で愉しんできました!最高でした!ウェイ!」みたいな文章をここに書いてしまうというのはあまりにも礼儀知らずなのではないのかと。

だったら書かなきゃいいじゃねえか!という至極単純な話である。それにわざわざこういうことに触れずに書けばいい。上手い具合にね。でも、僕はそれを書いてしまう。何故だろう。

ただ、1つ確実に言えることは「やっぱり、彼と一緒に行きたかった」という気持ちが抑えられなかったということである。しかし、こんな書き方をしてしまうと更に彼を不快にさせてしまうだろう。「じゃあ、体調不良でも来いってことか!?」という風に捉えられてしまうのではないか。……どう書くのが正解なのだろうか。あるいは…。

「書きたい」という欲望や欲動に任せて書くことは大切だ。しかし、時には「書かない」という選択肢も非常に重要である。

ただ、書き出してしまった以上は決着を付けねばならない。これが僕に出来るある種の「贖罪」なのかもしれない。だから僕は今ここでは「書く」ことを選択することにする。ここで出来る唯一の手段は、ここで書く、書き終えるということであるはずだ。とこれまた傲慢な…。


はてさて、そんな事情もあって1人で僕は古本まつりに参加してきた訳である。11:00から開催で僕が所沢駅に到着したのは11:05であった。わりと早い時間で来たからそんなに人は居ないだろうと高をくくっていたのだが、会場入り口には人だかり。「おお!もうこんなに居るのか!」と驚いたが、それでも古本まつりの人混みには慣れっこなので、すぐに「ま、こんな感じだよな」と納得する。

僕は人混みが苦手だ。というか、人混みが好きな人が居たらそれはそれで凄いのだが…。ただ所沢古本まつりの場合は会場自体が広いので人が居ても普通に歩ける余裕があるので問題はない。神保町の古本まつりに比べたら屁でもない。あれを経験していれば、この会場の人混みなど大したものではない。

まずは1階のフロアで古本を漁る。会場は8階の大ホールなので、言わばここはウォーミングアップ的な感じである。今回はホームページにもあるとおり、雑誌がメインだったので所狭しと雑誌が並んでいる。実は僕は雑誌にはあまり興味がないので雑誌コーナーは殆ど飛ばして巡っていた。しかし、これだけ大量の本があると見て回るのも苦労する。愉しいのだけれども苦労するって何だかおかしな話だが、事実そうである。

1階ではそこまでピンと来るような作品は無かった。というよりも、「お、これ良さそ…ってもうこれ持ってるわ!」となることが多くて手が伸びなかったということもある。しかし、冷静に考えてそうだろう。だって毎日神保町を徘徊して古本を漁っているのだから、大体自分が欲しいと思った作品は購入しているのだから。

1階でウォーミングアップを済ませ、エレベーターに乗りいよいよ本会場である8階へと向かう。


8階へ着くと、降りてすぐのところに全集が並べられている。これは例年がそうである。入口の所には全集系が山積みで置かれているのである。まず以て僕はここで興奮するのだが、今回は珍しくどうもピンとくるものがない。値段帯もわりと高めなのが多く「いや、これは手に取れんな」というものがあり、また漫画の全巻セットが多く陳列されていて文学全集の幅が狭かった。何だかちょっぴり悲しかった。

さて、会場に入り買い物カゴを手に取る。そしてとりあえず会場を見渡す。「いや、凄いな…」と会場の圧巻さに気おされる。しかし、やはり雑誌が今回の特集なので雑誌系が多いのは遠目でも分かった。とりあえず僕は壁際に並べられている本棚へ向かう。

一応会場の説明をしておくと。会場の壁際のは一面に文庫や新書が陳列されている。そして会場の中心部にはそれぞれの古書店の書棚が並ぶ。僕はまず壁際の文庫・新書を全て一瞥した後で中心部に密集している古書店の書棚へ向かうのである。そしてそれを見終えたら2巡目というように所沢古本まつりではこんな感じである。

それで上記の通りに見て回ったのだが、何か今年は全体的にガツンとくる作品が無かった。「おお!これこれ!」という感動が無かった。何と言うか購入するのに迷うことが多かった気がする。それは値段的なものではなくて、自分があまりピンとくる作品が無さすぎてある種妥協で選んでしまっているような感じがして。つまりは「これ読みたいことは確かなんだが、今じゃないんだよな」という作品が多かった気がする。

僕は古本を購入する時に決めているルールがある。それは「金額よりも「読みたい」を優先すること」である。古本と出会うということは一期一会である。というよりも、購入しないで後悔するぐらいならば購入した方が僕にとっては精神健康上良いのである。しかし、何だか今日は様子がおかしい。「読みたい」と思ってはいるのだけれども、どこか猛烈に読みたいという作品に出会えていないから、浅い感覚での「読みたい」という感情で購入していた。

ただ、確実に「読みたい」と思っていたことは事実である。それに浅い深いも正直無いっちゃ無いはずだが、先の繰り返しにはなるのだがガツン!と来るものが無かった。あれだけ数多くの本が並んでいるというのに僕は随分と贅沢な人間なんだなと思われて仕方がない。

それで、黙々と見て回って1巡し終える。買い物カゴを見ると思いのほか本が割と入っている。僕は大体単行本で古本を購入することが多いのだけれども、今回は文庫がやたら多く入っていた。これ自分でも面白いなと思ったのだけれども、ガツン!と来るような作品がないと文庫が中心になるんだなと気付く。何でだろう。

勿論僕は元々が小説畑の人間であるから、小説があるのは助かるのだが、とはいえ哲学系の本があまり無かったのには驚いた。これが僕の中でガツン!と来なかった大きな要因の1つである。文学理論とか哲学の本がまあ探しても見当たらないこと。いや、あるにはあるんだけれども何と言うかそそられない。あとは単純に読んだことある、てかそれ既に持ってるというのが多かった。


2巡目。もう1度文庫・新書コーナーから見て回る。今回は目的を持たせてみようと思って講談社現代新書から出ていた後藤明生の『小説—いかに読み、いかに書くか』を探しながら歩くことにした。実はこれには苦い思い出があるのだ。

話は11月に遡る。僕が実家に帰省した時のことである。

地元では珍しく、甲府駅で小さな古本市みたいなのが開かれていた。僕は散歩がてら寄ってみた。その時、僕は買い物をしようという気が無くて財布やら荷物は殆ど持たずスマホだけ持って散歩していた。そして珍しく古本市が開かれているもんだからちょっとばかし覗いて見るかと思い立ったのがことの始まりであった。

小さな書棚をぐるぐる巡っていると後藤明生の『小説—いかに読み、いかに書くか』を見つけた。この当時、僕は後藤明生にご執心の時期であった。それは今でも変わりないが、その時は「後藤明生が書いた作品は殆ど集めてやる」と言った気持ちであったので、これは見逃せなかった。しかし…しかし!悲劇はここから始まるのである。

古本というのは大抵「現金」での取り扱いとなる。電子決済、例えばSuicaやPasmo、あるいはPayPayと言った決済サービスはあまり利用できない。東京の古書店だと利用できる店舗も増えてきたが、基本的には「現金」での取引が基本である。そしてこの古本市もご多聞に洩れず「現金」での決済であった。しかし、僕は散歩中。現金など持ち合わせていない。ショック!今ここに100円があれば!……僕は悲しみに暮れながら諦めて駅を抜ける。

しかし、僕は諦めきれなくてスマホでAmazonでこの作品を検索した。「あそこで100円で売ってたんだから、安く買えるだろう」と。現実は非情だ。なんと、云千円もするではないか!?「え!?嘘でしょ!?」脳内パニック。うわ…やってしまった…。ここから頭の片隅にはこの後藤明生が残っていたのである。

それで話は所沢古本まつりに戻る。

2巡目はこの後藤明生を見つけようという心意気で血眼になって探した。既に見たところも身を屈めてジッと眺める。本に穴が開くんじゃないかというぐらいに見つめる。しかし、本は見つめ返してもくれないし、世の中そんなに甘くはない。全然見つからない。

古本巡りのある種辛い所というか性とでも言うのか、「この本が欲しい」と思って探すと大体見つからない。不思議なものである。しかも不思議なことにそういうことを考えずに巡っていると偶然にも見つかることが多い。「ああ!あった!これこれ!」というあの感動。これがあるから古本巡りは止められないのだが…。

結局2巡したところで見つかることは無く、僕は1巡目で見落としていた「読みたい」本をひたすらカゴに入れていく。それはそれで嬉しかったのだが何だか消化試合をしているみたいな感じで少し複雑な感情になってしまった。僕はカゴの重みに耐えられず、全体を一通りは見れたのでレジに向かい購入手続きを終えて会場を後にした。



一応これが今日の戦利品たちである。何だか纏まりが付いていないような作品群ばかりである。個人的にレッシングの『ラオコーン』が買えたのは嬉しかった。しかし、それ以外は正直さほどの感動を持って購入できたかと言われると難しい。

会場を後にして電車に乗り、やはり1人で来るべきではなかったのかもしれないなと改めて感じた。特にこういう古本まつりのようなものはだ。古書店を巡るとかであれば全然1人でも十分だろうが、こうしてあらゆる古本が詰まっている所だとやはり何だか共有できないのが辛い所ではある。何か作品が見つからなくとも「こういうのがあったんだよ!」とか「おれはこれ買ったよ!」とか話が出来る。

ただ1人で見つけられなかったという悶々とした気持ちを抱えて歩くのは中々に辛いものがある。別に共有することが全てだとは思わないが、しかし話すことで少しは気が楽になるということはあるはずである。それを出来なかったのは個人的には辛かったところではあった。

次回の開催は2024年3月6日~12日だそうだ。その時は予定があったら友人と一緒に行こうと心に誓った日でもあった。こうして僕の所沢古本まつりは幕を閉じる。


ところが、文学作品、そして高い内容の哲学の著作、そして当然、音楽、絵画、そういう造形美術も含めた〈テクスト〉をわれわれが読むということは、読み手が対象から意味を受け取ると同時に、対象に意味を付与する相互行為にほかなりません。つまり「読む」側からのテクストに対する新しい意味づけ、新しい生命の付与という面を見逃がしてはならないと思います。鑑賞とか批評というものも、作品の背後に客観的な作者の意図が神様の意志のように存在していて、それをあぶり出す行為ではない。作品ばかりでなく私たちを取りまいている世界自身が、見られ、読まれ、聞かれる存在です。つまり絵であれ、文学であれ、哲学の論文であれ、音楽であれ、あるいは文化現実であれ、また文化現実に分節される以前の〈カオス〉であれ、読みとられる行為によって生命をもつというか、新しい生を生きるのではないか。

丸山圭三郎『ソシュールを読む』
(岩波書店 1983年)P.26

最近、ソシュールやデリダばかりを読んでいる。この部分はものすごく好きである。これは前回僕が長々と書いた記録で言いたかったことを端的に示しているものであると思われる。

僕が今日ここに記したテクストはどう読まれ、そしてどう意味づけられるのかは分からない所だ。友人がこれを読んでくれてどう思うかは分からない。ただ、僕としては何度も言うようだが彼と一緒に行きたかった。それ以上でもそれ以下でもないのである。散々書いてきたが、畢竟するに僕はこれが書きたかった。

しかし、この引用にあるとおり「読む」ということは相互作用であるのだ。これを読んでくれる人によってこのテクストは初めて成り立つ。読んでくれることを心ひそかに願っている。

よしなに。

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