80代や死ぬ前に後悔してること23選
あるnoteクリエーターさんやアメブロのブロガーさんが紹介してくれていたんですけど、「80代や死ぬ前に後悔してること」というのがあるそうです。2つのブログに書かれていた項目をまとめると以下の23個です。
今年50歳になる私ですが、そのnoteクリエーターさんと同じく、1つずつ詳細に検討してみる必要があると思い、記事にまとめながら、考えてみました。
(1)勉強し続けなかったこと
これは、痛い指摘ですよね。たとえば、大学とかで「(ある時点で)勉強しなかったこと」ではなくて、「勉強し続けなかったこと」を後悔してるのね。私も、楽しい勉強は浪人時代以降、続けているものの、今年、50歳になる私は、人生の残り時間のほうが少なくなってきて、資格などの苦役系の勉強(たとえば、司法書士試験や簿記検定や応用情報技術者試験)はもうやめようかと思ってるところがあって、どうしようかと迷っているところがあります。今は、ネット資格専門学校の講義が安価で聴けて、勉強を続ける社会インフラはあるのだが、やはり何回もペンキを薄く塗るように、覚える系の勉強は、脳を痛めつけて、脳が疲弊するだけではないかと思い出したからである。加えて、現実的に考えて、年齢的なこともあって、それらの資格で開業したり、会社に就職することは、もう考えにくいのである。それくらいの資格の勉強の知識くらいないと、専門家と話をすることもできないと思っているところもあるし、それくらいの確定的な知識がないと、学問もくそもないと思っているので続けているところがある。だから、楽しい勉強(たとえば、FP検定や中国語や韓国語や英語の勉強など)や楽しい学問や楽しい読書や楽しい知的生産は、続けるが、苦役系の勉強は、必要性が出たり、また「楽しい」と心底思い、やる気が起きたなら、やれば良いのではないかと思い始めている。ただ、そういう苦役系の勉強(たとえば、司法書士試験や簿記検定や応用情報技術者試験)などを「続けなかったこと」を80代の人は、後悔している可能性もあると思う。続けておけば、必ずいつかはモノになる勉強だし、資格もあると、動きやすい場面もあると思うのである。いわゆる「楽しい」勉強は、みんな続けているに、決まっているから、苦役系の勉強のところで、差が付いてしまう可能性もあると思うのである。80代の人が、勉強し続けなかったことを後悔しているのは、非常に重い指摘だと思う。やっぱり、いちばん下にリンクを張った和田秀樹氏(高齢者専門の精神科医)の本の中での指摘じゃないですけど、50代・60代のときの習慣は、70代になってからも続けられると書かれているのですが、そういうことかなという気もしなくはありません。80代から、苦役系の勉強はきついと思うんですね。「勉強し続けなかったこと」の後悔は、非常に重い指摘だと思います。だから、どんな些細な勉強でもいいから、細くても、勉強を続けることは大事だと思いました。80代になってから、後悔しないために・・・。大学教授とかの職にあれば、勉強や学問も続けやすいんだけど、そういう身分にない人は、細くても、勉強を続けていれば、80代になっても、勉強や学問を継続できる可能性があるのだろうと思います。大学教授なんかは、80代・90代になっても、勉強や学問は平気で継続していますよね。ただ、私も今年、50歳になるので、勉強に取捨選択の必要が出てきてもおかしくないと思っています。資格の勉強とかは、学生時代にやるもので、年を取ってからやるものではないと思っています。たとえば、司法書士試験に受かったって、自分の時間を消耗する代わりに、お金をもらって、官公署(司法書士なら主に法務局)に書類を代理で提出する仕事をして何の意味があるのか、と思うのです。もうすでに、司法書士は、街に、たくさんいるわけですから・・・。あらためて、僕がそれに参入しても、オリジナリティがないと思うんです。それなら、好きなプログラマーの仕事と経験を活かして、温めているたくさんのアイディアを実行に移すチャンスが来たら、起業を狙うほうが面白いと思うんです。パッと見て、これは、ペンキを何回も薄く塗って、覚えていかなくちゃいけない勉強だと判断したら、撤退する勇気も50代に入るのであったら、必要だと思いました。「勉強し続けなかったこと」の反対の「分野や資格の内容によって、冷静に判断して、勉強から撤退する勇気」です。苦役系の勉強からは、離れるべきだと思いました。頭の片隅でちょっと思っておいて、そういう勉強ではなくなったときは、再開すればいいし、依然として、ペンキを何回も薄く塗って、覚えていくような苦役系の勉強だったら、やらないという勇気も必要だと思いました。「勉強し続けなかったこと」の後悔でなくて、「勉強し続けてしまったこと」の後悔も発生しうると思いました。何でも知ってることの効用というのもあると思うけど、使えないと思った勉強は、捨てる勇気も必要でしょうね。50歳くらいになると、そういう判断も正確にできるようになるはずですよね。受験勉強と同じで、使えない授業や参考書を切り捨てる勇気と同じですよね。わからなくても、勉強し続けることにより、花を咲かせることもあるかもしれませんよね。あるいは、何の専門家でなくとも、幅広く勉強しておくことが最後に実を結ぶこともありえますよね。たとえば、麻雀の役満の「国士無双」なんかも、すべての端牌と字牌を集めて、1枚だけダブらせると役満になるわけですもんね。
(2)やりたいことに挑戦しなかったこと
私は、これは、若い頃(20代後半や30代前半にかけて)に挑戦したいことには、挑戦したと思います。大学生のときも、勉強や学問や資格やスポーツなど、挑戦したいことには、すべて挑戦したと思っているので悔いはありません。50代に入る今だと、とてもじゃないけど、できないことに挑戦したと思っています。しかし、今は、圧力をかけられて、できないことが多く、非常に悔しい思いをしています。「やりたいことに挑戦しなかったこと」は、40代・50代・60代・70代にも発生する可能性があって、チャンスがある限りは、やりたいことに挑戦するべきだと思います。80代からでは、体力や気力の面でも、やりたいことに挑戦するのは、厳しいのだろうと推測しています。30代・40代・50代・60代・70代に、礎を築いておき、80代でも、挑戦できるような準備をしておくべきだと思いました。②の「やりたいことに挑戦しなかったこと」という後悔は、①の「勉強し続けなかったこと」という後悔につながっている可能性もあって、勉強はたとえ、細くても、40代・50代・60代・70代でも、かかさず、やるべきだと思いました。
(3)周りの目を気にし過ぎたこと
これも、あるかもね。死ぬ前に、もっと人の目なんか気にせず、生きてくれば良かったと思う人が多いと言いますもんね。日頃から、「人の目を気にし過ぎていないか」を確認して、生活し、人生を送るべきだと思いました。日本は、フィリピンなど東南アジアの発展途上国と違って、隙がない行政(オモテとウラの行政)が持ち味だから、他人の目を気にし過ぎてしまうところが、お国柄としてあるとは思うのですが、国民皆保険や生活保護などのセーフティーネットがしっかりしているという良いところでもあるわけです。どんな境遇にあるにせよ、周りの目を気にし過ぎないで、生きていくことは大事ではないかと思いました。「今日はラーメン屋に行こう」とかね。「周りの目を気にし過ぎ」というのは、精神的な病気の可能性もあって、自分をしっかり客観視して、精神的な病気とかではないか、性格の傾向としてそういうのがあり過ぎなのではないか、精神科でカウンセリングを受けたほうがいいのではないか、精神科のお薬を服薬したほうがいいのではないかと疑ってみることも大事だと思いました。精神科の先生は、いろんな人を見てきた、海千山千の人が多いので、精神科のお薬を飲んだほうがいいのかの分水嶺は極めている人がほとんどです。若いときに精神的な病気を抱えてしまって、精神的な病気を放置したまま、80代まで突入してしまうのは、人生の無駄ですよね。
また、私が住んでいる地域では、自分の庭でバーベキューをする人以外は、バーベキューをするのにも、特定の場所で、あらかじめ行政への予約が必要です。自由に、バーベキューをすることもできないのです。しかし、道路や公園などで、自由にお酒を飲みながらのバーベキューをやられちゃうと、風紀が乱れるという趣旨もありうると思います。良いところもなくはないわけです。アメリカ人なんか、大谷翔平選手のドジャーズのオープン戦の観戦前に、球場前で、大きな肉を焼いてバーベキューをしていました。好きな仲間と自由に語らい、人生を楽しんでいるのです。私の近くにある県立の大きな公園でも、火を使ったバーベキューをすることはできません。日本は、気の合う仲間とバーベキューをして、語らい、人生を楽しむにも、行政の許可が必要なのです。日本って、スキのない行政が売りなんだけど、人生が楽しめない方向に行っちゃってるような気がしますよね。私が学生時代に下宿をしていた場所(神奈川県横浜市)と、今、住んでいる地域(埼玉県東南部地域)でも、市民の動き方が大きく違うことがわかります。横浜のほうが、市民が主体となって、色々な人生を楽しめるレクレーションを企画してやっているのです。それに対して、埼玉県(埼玉県東南部地域)では、レクレーションや息抜きや趣味も行政がとりおこなっていることが多いようです(たとえば、公民館が主催する各種の教室)。それも、良いところと悪いところがあると思うのです。やっぱり、市民が主体となってやっているほうが、市民社会が育つというか、多様性がありますよね。神奈川県横浜市と埼玉県東南部地域では、スキがない行政という点では同じでしょうが、自由な雰囲気が横浜のほうがありますよね。しかし、埼玉県東南部地域も、それだからできることもあると思うし、横浜市と比較しても、両者とも、良いところと悪いところがありますよね。
「周りの目を気にし過ぎたこと」という後悔は、もうちょっと、行政のせいかもしれないですよね。あんまり行政や警察がストリクトに動くと、暮らしにくくなっちゃうのね。性犯罪の厳罰化や記録暦の照会の長期化なども、暮らしにくくなることの最右翼ですよね。性的なことって、自然な気持ちですよね。犯罪にすることではないですよね。
(4)健康に気を配らなかったこと
これも、示唆に富む後悔ですよね。40代くらいから、病気の要素を早めに見つけておけば、服薬や食生活や日常生活の注意や定期検査をできると思うんですね。70代・80代になってから、後悔しても遅いですよね。私も、いくつもの診療科に定期的に通院していますし、服薬もしています。これらの病気の兆候に80代まで、気づいていなかったらと思うと、ぞっとするところもあります。服薬や定期的な検査や食事や生活面での注意で、体を長持ちさせることができる可能性がありますよね。40代から気づいて、注意していたというのなら、80代になって、その病気が現れても、後悔しないと思いますよね。最善は、尽くしたと・・・。しかし、私は、「がん」だけは、違うと思っています。近藤誠氏の本もよく読んだのですが、「ワニ口のグラフ」という絶対公式があって、がんの発見数だけ上がって、死亡率は変わらないというグラフがあるのです。だから、私は、「がん」だけは、検査もしないし、抗がん剤などの治療も受けないつもりでいます。いちばん下にリンクを張った医師の和田秀樹氏の本でも、同じ考え方のようです。でも、80代まで生きて、何言ってるんだと思うところもありますけどね。男性の平均寿命は、79歳くらいですからね。そこまで、生きれただけでも、幸せじゃないですかと言いたいですよね。歯なんて、自分でしっかりメンテナンスし、4ヶ月に1回、歯医者で歯石を取ってもらう(スケーリング)という努力が実りやすい「健康」でしょうね。
(5)家族を大切にしなかったこと
こういうことも、後悔のタネになるんですね。私みたいに、今年、50歳で独身の人には、関係ないとも言える後悔ですよね。私は、父親はもう亡くなりましたが、母親は、健在で、姉夫婦と同居して、老後を過ごしています。その親子関係の家族関係は、とても冷えていて、それよりかは、マシな関係を築ければいいなと思っていますが、結婚して、家族を形成する予定はありません。私は、大学院では、法学を専攻してましたが、せまっちい民法の家族法には辟易するところもあって、そういう閉鎖的な家族法も、少子化の原因になっていると思います。優秀な人には、たくさんの子供を持たせるようにすると、生物学の思想に合致している、より優秀な子孫を残すということになりますし、そういうのを社会的に、容認する(陰でもよい)社会的慣習を持つべきだと思います。日本のみならず、各国の家族法では、そういう生物学の根本思想から外れた、まぬけな法制度になっていると思います。他人よりも、家族ということなんでしょうか。より親密な家族関係のほうに、軸足を置いて、人生を過ごせば良かったということなんでしょうか。しかし、冷えた家族関係を長く経験したものからすると、「親子の愛に次ぐ愛は、師弟愛」という方向に活路を見出したくなるのです。私は、幸せというのは、相対的なものだと思っていて、そういう冷えた家族関係を経験したものからすると、それよりかは、マシだと思うようにすると、「擬似家族関係」や「師弟愛」みたいなものでも、大事にすれば、後悔は少なくなると思うのです。これは、狭い家族関係の人が、陥りがちな後悔のような気がしましたが、「他人」よりも、親密な「家族関係」みたいなものを大事にしたほうが、80代になってから、後悔が少ないということなんだろうと思います。
(6)自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと
これは、どういうことなんでしょうか。会社勤めなどの組織勤めでは、自分の気持ちを素直に伝えられないことは、日常茶飯事だと思うので、自分の気持ちを素直に伝えられる人間関係を大事に持っておくということなのかもしれません。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」というのは、私は、最近では、文明の利器を用いて、別の方策でも、解決できるのではないかと思っています。たとえば、こうしたnoteブログのようなSNSでも、自分の素直な気持ちを文章にして、伝えることによって、「スキ」ボタンを押してもらったり、フォロワーさんから賛同を得たりすることで、そういう後悔も少なくなると思うのです。そういうネットの関係だけでなく、リアルな人間関係でも、素直に感情を吐露できる人間関係(親しい友人や「擬似家族的なソサイエティ」に属することで得られる人間関係)を持っており、ホールドしておくことは、とても良いことだと思っています。ネットではSNS、ローカルの現実では、そういうホットな人間関係を保てるかが勝負だと思います。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」という後悔は、自分のことを表現できなかった後悔とも解釈することができ、それは、習い事(スポーツなど)やゲームを思いっきり楽しむことなんかでも、発散できるのではないかと思います。私は、一人で、ゲームをやることが、すごく好きで、1日のうちで、1~3時間くらい、ゲームの時間に充てています。ゲームは、複雑に脳を使うし、自分の「気持ち」を素直に表現できることになるのではないかなと思っています。「ゲーム」って、今は、遊びきれないくらいのゲームが発売されていますし、複雑に脳を使うということで、社会的な評価も上がっている遊びだと思うんです。私は、高校時代もパソコンゲームで、よくシュミレーションゲームを遊んでいましたし、友達とも、麻雀なんかをよくやりました。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」という後悔は、自分の努力で、一人でも、ゲームを楽しんでいれば、解決できる後悔ではないかと思っています。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」というのは、「あなたのことは嫌いです」とか「あなたのことを助けてしまうと精神的に消耗してしまう」というような、自分が嫌だと思える相手にその言葉を投げかけるまで行かなくても、そういう人とは、離れるということも人生の知恵としては必要だとも解釈できます。私も、今年、50歳になるんですけど、避けられる消耗は、避けないと、こちらが消耗してしまうことがあります。そういうことも含めて、80歳の後悔ということなんだろうと思いました。「人との付き合い」や「人との交流」って、「また、もう一度会いたいな」と思う人との付き合いは、良い思い出になるけど、そうではない人との記憶は、脳を消耗させますよね。「ミイラ取りがミイラになったり」、「共倒れ」するような広い意味の交流は避けないといけません。80代になってから、脳の消耗や傷として残って、後悔するようなことになりえます。昔のテレビで、タレントの山瀬まみさんが、テレビ局の廊下で、東山紀之さんとすれ違ったとき、「おまえみたいな奴は嫌いだよ」と山瀬さんが東山さんに言って、それに対して、東山さんが、「俺も(山瀬さんみたいな人は)嫌いだよ」というやり取りをしたというのですが、これも、80代になってから後悔の「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」に反しない、ユーモアがあるやり取りだと思うのです。会社とか、ビジネスマナーを要求されるところでは、やれないやり取りかもしれないけど、こういうやりとりが会社なんかでも、ユーモアを持ってやれるような雰囲気が日本の会社でも醸成されればいいのにと思ってしまいました。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」というのは、「人に感謝の言葉を伝える」「あなたのことは嫌いです」「あなたのことは好きです」「人を罵倒する」など、色んな言葉があると思うんです。思想・信条などから、相手に直接、その言葉を言うのは、極端すぎる、とか失礼だということもあると思うんですね。教条主義的に、この「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」を適用するのは、危険だと思いましたが、微妙なところです。人との交流は、無難に、無難に、あまり踏み込み過ぎないということも大事ではないかなと思いました。「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」というのでは、僕個人の体験も色々とあるような気がするのですが、あるときなのですが、近くのセブンイレブンで、中学のときの同じ部活の同級生と偶然会って、「○○ちゃんでしょ」と聞いたら、「確かに、私は○○ですが、あなたのことは知りません」と言われて、家に帰って、それはそれで悪くないなと思ったのです。その人は、地元で歯医者さんを開業しているようなのですが、今さら、中学の同級生と交流を再会したいとは思えない心境だったと思うのです。こういうのも、「自分の気持ちを素直に伝えられなかったこと」という原則に反しない、悪くない発言だと思うのです。自分では、会いたいと思ってても、向こうは不愉快になることもあるわけで、そういう関係性のときは、こちらが察して、会いに行かないというのもココロですよね。思想・信条などとは関係ない、つながりのときは、大学生以降は、ギブ&テイクの関係でいるというのは、最低限の人間関係のマナーと心得ておくのがいいと思いますよね。
ここで、投票にご協力頂くと幸いです。⇒【投票】過去の友達に会って、どういう気持ちになりましたか?
(7)友人と疎遠になってしまったこと
これは、ありますね。友人関係って、続かないんですよね。同じ友達ばかりと付き合っていると、自分も伸びなくなるし、友人関係を続けるというのは、相当大変なことなんですよね。友人とは、「良い思い出で、取っておきましょう」という考え方で、そのときだけの友人と全力で、対峙し、付き合えば、思い出としても悪くないですし、「深い友人」とまで行かなくとも、議論し、切磋琢磨する、そのときだけの「友人」でも、自分を伸ばすこともできるし、後から、思い返しても、良い思い出になりますよね。友人って、続かないんですよね。利害関係が出てきて、友達を続けるのが困難になることもあるし、同窓会みたいなものが開かれたら、勇気を出して、出席してみるというのも、友人関係を復活させるチャンスかもしれません。みんな友人より、家族の方が、大事になってくるとかもあるでしょうし、難しいところです。「あのとき、○○君とかと遊んだ記憶は楽しかった・・・」と後から思い出して、楽しむという方が、健全な友人関係かもしれません。今は、SNSなんかでも、心の「フォロー」とかいう「擬似友人関係」みたいなものができて、悪くないと思うんですね。今は、リアルな友人関係がなくても、SNSや一人でローカルで楽しむゲームやインターネットで対戦できるゲームなどが充実していて、パズドラじゃないですが、「フレンド申請」みたいなものができて、少しは、過度な干渉がない、新たな「友人」関係を構築できるかもしれません。定期的に通っている医者なんかも、広い意味での「友人」みたいなものとも解釈できるかもしれません。昔の友人とは、近くに住んでいれば、偶然、再会して、交流を再開するなんてこともありうるかもしれません。
しかし、思い出すと、疲れる友達というのがいますよね。僕の過去の友達って、思い出すと、ほとんどが、思い出すと、疲れる友達です。となると、友達関係よりも、いっしょにいて心地よい人と過ごす時間、自分に与えてくれる人と過ごす時間を大事にすべきなのかもしれません。だから、思い出して、楽しいのは、ギブ&テイクがあった友達です。「自分だけがくれくれ」という友達は思い出すと、消耗するだけのことがほとんどです。友達って、あまり作らない方が、脳のためには、いいのかもしれません。私は、独身で、知的生産で暮らしているのですが、一人で、ゲームでもやってるほうが、後で、思い返すと、脳的には(あくまで「脳的」にはの話)、幸せな時間なのかもしれません。人生って、すごく難しいと思いますね。
(8)旅行できなかったこと
うーん、面白い後悔ですね。旅行しなかったことって、後悔の対象になるんですか。80代からだと自由に動けなくなって、旅行もできないということなんでしょうか。私は、旅行の趣味がないので、近くのスーパー銭湯へ行けるだけで、すごく幸せな気持ちになるんです。旅行もいいですけど、外食(ラーメン屋さんや回転寿司や各種のファミレス)なんかでも、十分、楽しいですよね。この80代になってから後悔することにあげられてることって、学歴や教養がない人が感じる後悔ではないかと、ちょっと思いました。学歴や教養があると、些細なことでも、幸せを感じることができるような気がしています。旅行といっても、私も、修学旅行なんかで、京都へは、3回くらい行っていますし、大学時代も、体育系の部活の遠征で、岡山県なんかへ遠征したこともあります。仕事でも、長野県松本市や山形県米沢市や宮城県仙台市などへ長期間滞在し、仕事をしていたことがあります。旅行も、1年に1回くらいは行くべきなんでしょうかね。私は、旅行よりも、近場でのお出かけが好きですね。海外旅行も、ハワイは1回、家族旅行で行ったことがあります。冷えた家族なのですが、楽しかったですね。ハワイは、また行ってみたいし、別邸を持ちたいくらいです。
(9)定年で仕事をやめたこと
これも、後悔の対象なんですか。私は、中小企業勤めをしていたので、会社に勤めていて、部長とかをやっている人は、働こうと思えば、どこの会社からでも、声はかかることもあるだろうし、会社を起業することも可能のような気がしています。私は、会社勤めの代わりに、大学教授とかではないですけど、知的生産(勉強や読書)で暮らしているので、定年という概念はないと思っています。「徒然草」みたいなエッセイを書きたいという夢もあるし、学問も成就したいという気持ちもあります。今は、noteブログやアメブロがあるので、大学教授とかでもなくても、達成できなくはない夢です。起業も狙っています。下にリンクを張った和田秀樹氏の本でも、書かれているんですけど、定年後も働いたほうが、心身ともに健康には良いそうで、高齢者の就労率が高い長野県は、平均寿命は、長寿にランクインしていて、一方、仕事が少なく、高齢者の就労率が低い沖縄県は、平均寿命は下位にとどまっているそうです。仕事は、やめない方がいいですよね。お金も、年金に加えて、入ってきますしね。
(10)仕事に時間を費やし過ぎたこと
これは、仕事が遊びになっていないことへの悲劇かもしれませんね。「仕事=遊び」になっている人は、仕事に時間を費やしすぎても後悔なんか、ありませんよね。仕事の選択が間違っていた可能性もあります。たとえば、社会的地位がある仕事だからとか、安定してるからとかいう理由で、仕事を選んでしまった可能性があります。私は、学生時代は、7年間に渡って、塾・予備校の講師などをやっていましたが、自分の勉強を兼ねていたので、立派な遊びで、自分が勉強になったくらいでした。社会人になったら、大学でのコンピューターの授業に大変な感銘を受けて、プログラマーを仕事として、選択しました。プログラムを打ったり、システム開発のメンバーとして、プロジェクトに参加することは、ドキドキの連続でした。休日の土日も、コンピューターの勉強に時間を費やしていて、楽しい日々でした。今も、コンピューターの勉強は趣味で続けています。今は、両者とも、引退して、知的生産で、好きな勉強や読書をして暮らしています。だから、僕は、仕事に時間を費やし過ぎたからといって、80代になって、後悔することはないと思います。だから、「仕事に時間を費やし過ぎたこと」という後悔は、他人の事務処理を代行する代わりにお金をもらっている仕事(公認会計士・税理士・司法書士・行政書士などの士業)やウソの仕事(弁護士・公務員など)など、この後悔に落ちてしまう現役のサラリーマンは多いと思っています。この後悔だけは、気をつけないと陥りがちな後悔だと思います。弁護士って、私も元・司法試験受験生で、司法試験は、まだ諦めてはいないんですけど、司法書士の先生方との勉強会の後の飲み会のときに、若手の司法書士の先生複数に「弁護士って、どうやったら、あんな傲慢な人間になれるんだろう」と酷評されてて、いくら仕事をもらう部下にあたる人からでも、そんな他職種の人から、ボロクソに言われる職業って、あまり目指したくないんですよね。「会社員」で、組織のメンバーなんかでも、社内や社外の役に立ったという仕事ができれば、たとえ、会社勤めや組織勤めで、人生の時間の大半を消費しても、後悔は少ないのではないかと思っています。アルバイトとかもそうですけど、自分の時間を消耗する代わりに、時給をもらっているわけですから・・・。
(11)大切な人ともっと時間を過ごさなかったこと
これはあるかもね。本当に自分ことを思ってくれる大切な人と時間を過ごすことは大事なことですよね。「なれあい」ではなくてね。やっぱり、人生の時間って、限られてるから、大切な人と時間を過ごすというのは、人生の最後の80代になって、後悔しないことですよね。加えて、この11番目の後悔は、「自分の好きなことに時間を費やさなかった」ということとも言い換えられますよね。たとえば、自分の好きなことだったら、1人でやるゲームだって良いわけだし、こういうnoteブログみたいなSNSで、自分の言いたいことを主張しつつ、人とつながる、ゆるやかな連帯感を感じるというのは、いいことですよね。読書だって、いいわけだし、自分の好きなことに時間を消費しつつ、それが仕事にもなれば、なお良いということですよね。
(12)幸せをもっとかみ締めて生きるべきだった
これはね、私、大学時代に、すごく尊敬しているおじさんからも言われましたね。「幸せなときは、幸せをかみしめることが必要」と言っていたんですね。学生時代だったら、学生の本分は勉強や学問だから、勉強や学問をやれていて幸せだと考えることが大事だということですよね。加えて、学生時代なら、スポーツ・資格・遊びなど、色んなことにチャレンジできますよね。このnoteブログやアメブロを使って、勉強をアウトプットして、勉強や学問を継続できるなんて、幸せなこととも言えるかもしれませんよね。「スキ」ボタンや「フォロー」なんて、たとえ、相互フォローみたいなものでも、嬉しいことですよね。幸せですよね。私は、複数のゲームを1人で1日1時間かけて、やるのが好きなのですが、そういうゲームをしているときは、幸せですよね。あと、いくつかのスポーツを研究しながらやるのが好きなのですが、今は、事情があって、中断していますが、体を動かして、健康のための運動を意識しながら、やれるなんて、幸せなことですよね。些細な幸せでも、かみしめて生きる必要がありますね。
(13)もっと他人のために尽くせばよかった
これも、なかなか難しいことですよね。内容によりますよね。とても、尽くせない人に尽くすと、コチラ(の脳)が、消耗してしまいますよね。たとえば、私は、今年で、50歳になるんですけど、noteブログを書いて、自分の経験や知見を誰かのために役立ってくれば、心の底から、「スキ」ボタンを押してもらえるなんていうのも、広い意味の他人のために、尽くしていることになれば幸いであります。
(14)くよくよ悩まなければよかった
これは、性格の傾向でもあるかもしれませんね。あまりに度が過ぎる悩み方の場合は、精神科の門を叩いてみてもいいかもしれません。うちの周りにも、相次いで、開業医の精神科が開院し、開業医の精神科が、4つくらいになりました。薬を飲んだほうが、楽になるタイプの悩みかもしれません。
(15)もっと人に優しい言葉をかけていればよかった
確かに、そういうことを思うこともあるかもしれませんが、優しい言葉を投げかけてくれる人には、優しい言葉を投げかけたくなりますよね。人によりにけりですよね。日本は、お互いが、お互いを罵倒するマニュアルを持たされていますからね。老年期に入ったらできることかもしれませんね。
(16)あんなに不安を抱えながら生きるべきではなかった
これも、生活や収入が安定している人は、抱えない悩みかもしれません。収入などに不安があると、不安は、尽きません。収入が安定している人というのは、それは、それで、会社勤めの葛藤を抱えていたりして、大変なところもあると思うんです。
(17)もっと時間があれば・・・
これは、死ぬ前に思うことのようですが、時間があったら、やりたいことがあるということなんでしょうか。私も、今年で50歳なんですけど、時間があれば、できることは多いですよね。今の充実感で、noteブログとかがある、20代の頃に戻れれば・・・と思うのですが、20代・30代・40代でしてきた苦労というか同じ経験をしたいとは思いません。そういう貴重な経験を活かして、50代・60代・70代・80代・90代を送れれば・・・と思うのですが、現状の健康状態で、そんなに長生きできるとも思えません。
(18)自分を大切にすればよかった
なるほどね。会社(組織)勤めなんかも、ボロクソに言われますからね。自分を大切にしたいものですね。
(19)もっと一瞬一秒を大事に過ごせばよかった
これも、そうですね。そういう死ぬ前にする後悔ですから、説得力を増しますよね。私も、好きなゲームをやる時間は、1日平均1時間くらいは、作ってやるようにしています。そのゲームの一瞬一瞬を楽しむココロも大事かもしれません。人との交流なんて、なおいいですよね。普通だと時間がかかることを時間を短縮する習慣を持っているといいかもしれませんね。私は、12間睡眠なので、一般の人より、持ち時間が少ないことになります。この後悔を回避するためには、毎日欠かさずメモをすることじゃないでしょうか。
(20)言い争いなどしなければよかった
売り言葉に買い言葉で、言い争いになることもありますね。日本は、お互いがお互いを罵倒するマニュアルを持たされていますからね。でも、言い争いたくなる扱いを受けるときもありますよね。難しいところです。でも、日本って、不必要な罵倒って、ありますよね。たとえば、会社勤めでの、パワハラやオワハラとかも含めてですけど・・・。日本は、中国から、「辛(つら)い島」にされちゃってますからね・・・。
(21)もっと自分の情熱に従うべきだった
これもあるかもね。こういう後悔を防ぐには、起業なんか目指すと良いかもしれませんね。あと、自分の好きなことを仕事にするといいかもしれません。私も、大学教授を目指していたんですけど、なれなくて、大学で行われていたコンピューターの授業に大変な感銘を受けて、プログラマーになったんですけど、経済学や法学の勉強は独学で続けていて、最近は、こうしたnoteブログみたいなツールも出てきて、大学教授とかの職になくても、経済学の勉強やアウトプットを一般素人でもできるようになりました。「自分の情熱に従い」、経済学のアウトプットを50代になってから、できるようになりました。これは、30代・40代ではできなかったことで、ずっと考え続けていた、寝かせて温めていたからできる所業だと思っています。法学は、最終的に、司法試験で、表現していきたいなと思っています。65歳くらいまでに受かりたいと思っています。特に、弁護士の実務に就任するつもりはありません。興味分野は、「公法私法二元論」や「コーポレートガバナンス」で、大学院(修士課程)のときの専門は、商法(会社法)と民法でした。経済学は、noteブログの機能を利用して、公務員試験の解説レジュメ販売で表現するつもりです。
(22)もっと自分のために頑張ればよかった
13番目の後悔と矛盾するようですが、そうですよね。「自分のために」頑張らないと、損しちゃいますよね。
(23)もっと目標を達成すればよかった
目標はなかなか達成できないものです。私も、現状、3つの資格の勉強をしていますが、特にその資格で、開業や会社勤めするつもりもありません。どんな目標なんでしょうか。男性なら、性的な目標でしょうか。私なんか、大学で、学問や勉強にはまって、修士課程まで見て、それから、病気などでスランプのときなど、停滞しているときもありましたが、勉強や学問を細いのですが、続けています。今年、50歳になるのですが、結局、いくつくらいまで、生きられるかが勝負だと思っています。たとえば、私は、大学教授とかの職にあるわけではないのですが、経済学(理論経済学・近代経済学)が好きで、考え続けたり、知識を寝かせて、50代(今年)に入って、やっと表現できるようになってきたので、公務員試験の解説レジュメを作ることを通して、経済学を勉強し、深めていこうということができるようになったのですが、1冊目終わるのに5年、2冊目を終わるのに5年、3冊目終わるのに5年、合計で15年かかることになり、65歳ということになります。そこまで生きているかどうかも怪しいし、基礎的なことの考察などやりたいことはたくさんあります。経済学も輻輳的に進めていくことが大事だろうと思っています。目標は、なかなか達成できないものです。法学でも、「公法私法二元論」や「コーポーレートガバナンス」など、トライしてみたい論点はあります。65歳くらいになったら、私の出身大学(国立大学)の経済学研究科(修士課程)に進学して、勉強したいのですが、法学研究科(東京大学の法科大学院を目指してもいいかなと思っている)や経営学研究科にも行って、修士号を3つ取って、トリプルマスターになりたいという目標があります。それらに行くと、合計6年かかり、71歳ということになります。そこまで生きている自信はありません。大学教授なんかでも、古希記念論文集なんかを出しても、「○○という分野もやりたいのだが、道遠しという感じである」という感想を述べているので、知的生産なんかでも、目標を持ってても、なかなか達成できないというのが現状のようです。法学は、司法試験で表現していきたいなとも、思ってもいます。
以上、他のnoteブログのクリエーターさんやアメブロのブロガーさんが、検討していた、80代の高齢者や死ぬ前に後悔すること23選ということを自分なりに検討して来ましたが、私も気をつける必要があると思いました。早めにそういうのを知っておいて、40代・50代・60代・70代を過ごすのは、とても良いことだし、そうならないように行動する、生活をする、仕事をする、というのは、とても良いことだと思います。
加えて、80代の高齢者や死ぬ前に後悔すること23選というのを見て、改めて思ったことは、大事なことは、学歴や教養じゃないかなという気がしました。やっぱり学歴とか教養って、かけがえのないものなんじゃないかと思いました。私は、学問もすべて学部2年生レベルながら、大学院の修士課程まで、勉強してきて、勉学を研鑽している大学教授や官民の一流の実務家に接触できたのは、言葉ではうまく言えませんが、とてもかけがえのないもので、陰に陽に、影響を受けて、今の知的生産の生活も成立していると思っています。
80代の高齢者や死ぬ前に後悔すること23選というのは、相互に矛盾する原則もありますが、そのときそのときで、ベストなチョイスをしたり、中間的な折衷的な態度を取ったり、両取りしたり、多様な使い方ができる人生原則だと思います。
日本は、中国から、人生を楽しめない「辛(つら)い島」というマニュアルを持たされていて、パチスロ屋・パチンコ屋じゃないですが、出る台を見分けて、出ない台だとすぐ見切りをつけるという、うまく立ち回る必要があると思っています。韓国のポップ歌手グループの歌じゃないですが、「嫌なことなんて全速力、回避する」姿勢も求められるかもしれません。繰り返しますが、日本は、中国から、人生を楽しめないマニュアルを持たされているというのは、気をつける必要があると思っています。自分で、創意工夫する、その中でも楽しむ、日本の良いところの長所で勝負するということが必要だと思っています。日本のマニュアルの短所ではあまり勝負しないで、避ける立ち回りが必要ですよね。
80代の高齢者や死ぬ前に後悔すること23選というのも、長生きがすべてを癒してくれる後悔な可能性があります。
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