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【分野別音楽史】#01-1「クラシック史」 (基本編)

当noteではこれまで、「クラシック音楽史と各ポピュラー音楽史を接続し、ジャンルごとではなく同時代ごとに区切って記事を書く」という試みで通史を書き、それを図解年表にまとめたものも配布したりしていました。

●クラシック+ポピュラーの音楽史・図解年表(PDF)
●「メタ音楽史」記事一覧

ですが逆に、分野を横断して僕が接続しようとした「各ジャンル史」個別のまま記事にしていくのも面白いのでは?と思い。今回からは「分野別の音楽史まとめなおし」を書いていこうと思います。

さて、僕が各ジャンル史を調べていた過程で感じたのは、どの分野も「自分の分野をじっくり聴いてもらいたい好きになって鑑賞してもらいたい、入門編というのは今から深みに入って来る者のための第一歩だ」というような、非常に愛が強い紹介や評論ばかりだったということです。

もちろんそのような姿勢は素晴らしいことではあるのですが、「ジャンルを横断して音楽をざっくり把握していきたいな」という目的で調べているときに、そのような愛の強い紹介を読み続けるのは、僕にとっては、時に非常に疲れ、辛く感じることもありました。

なので、あくまで「情報を知れれば良い」「好きにならなくてもいい」「深い音楽鑑賞への誘いではなく、物事を調べる・勉強するということ自体の楽しみの提供」という前提でなるべく書きたいんですよね。

といったスタンスでやっていこうと思うので、よろしくお願いします。


ということで、まずは「クラシック史(西洋音楽史)」を書いていこうと思うのですが、これまでの記事で何度も主張してきたように、現状、学術的に正解とされている・あるいは一般的に常識となっている「クラシック正史」のストーリーは、音楽理論が一方向的に発展していく"進歩史観"に基づいた視線があり、特にヨーロッパのキリスト教社会の土台と、ドイツ人によって形作られた特定の「美学」という考え方のもとに成り立っているため、ポピュラー音楽史や民族音楽など、他の「全音楽史」も尊重して視野に入れてようとした場合に非常に咬み合わせの悪いことになってしまいます。

これまではそのストーリーをなるべく外側から相対化する方向で書いてみていましたが、分野別音楽史第一回目の今回の記事は一旦、音楽の教科書に載っているような一般常識的な「クラシック正史」のストーリーをそのまま素直に書いてみることにするので、一度鵜呑みにしてもらって、次回の記事で改めて「捉えなおし」をしていこうと思います。

つまり今回の内容は一度、特定の史観を肯定してみるものであり、必ずしも僕の信じる見解や意見では無い、ということを先に記しておきます。是非とも、次回書く予定の「捉えなおし編」やその先のポピュラー史と併せて読んでいただければ嬉しいです。

(一応、ただ常識的なクラシック史を知りたいだけという方はこの記事だけ見ても十分大丈夫なように書くつもりではあります。)

常識というのはときに、他の視点や考え方を隠してしまうものです。しかし、その常識を批判して別の視点を提示しようにも、その前に、まずは先にその「常識」をシンプルにきちんと知ることも必要ですよね、という発想です。それでは参りましょう。


◉時代区分

西洋音楽史では、音楽形式や理論の発展を時代区分と紐づけて分類されているため、時代区分が非常に大事になってきます。

その流れは大きく、「バロック」「古典派」「ロマン派」「近現代」とされています。

まずは以下を覚えてください。

【前史(古代~中世~ルネサンス)】
省略されることも多い。

【バロック】
(1600~1750頃)
"音楽の父" バッハ が神聖なる存在。

【古典派】
(1750~1820年代ごろ)
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの3人が重要。

【ロマン派】
(19世紀)
多数の登場人物が登場。クラシックのメイン部分。
東欧には民族主義的な「国民楽派」も出現。

【近代音楽/現代音楽】
(20世紀~)
音楽理論の拡張が進み、音楽自体の概念を問うような、実験的な作品に。

つまり、「クラシック音楽」とは、特に17世紀~19世紀ごろにヨーロッパで栄えた音楽を中心に意味していることになります。

この時代区分の流れにしたがって、解説していきます。



0.前史

0-1. 古代

古代の音楽史としては、ギリシャの音楽が重要視されます。古代ギリシャには、Music(音楽)の語源となった「ムーシケー」という概念が存在していました。「ムーシケー」は、詩 + 音楽 + 舞踏 が合わさった概念です。紀元前5世紀ごろにはアテネで「悲劇」が最盛期を迎え、劇場音楽が栄えたといいます。また、数学者でも有名なピタゴラスによって数理的な音楽理論も発展しました。そしてプラトンアリストテレスといった哲学者たちは、音階が魂に与える道徳的な影響を考察し、教育に生かそうとしました。


0-2. 中世(グレゴリオ聖歌)

古代の音楽が「実際の音」としてどのようなものだったのかは実は明確ではありません。クラシック音楽のもとになった直接のルーツは、中世のグレゴリオ聖歌からになります。グレゴリオ聖歌はローマ・カトリック教会の典礼のために歌われたラテン語の聖歌です。お経のようなものだと考えると分かりやすいでしょう。楽器伴奏は無く、アカペラで歌われました。中世ヨーロッパではローマ・カトリックが圧倒的な権力を持ち、音楽も教会のために捧げられていたのでした。

グレゴリオ聖歌はヨーロッパ各地に根付き、「ネウマ」という記号を使ったメモで記されるようになりました。はじめは単旋律だったものが、時代が進むにつれて2声~4声へと声部が加えられ、多声音楽の発展となりました。このような複数声部で成り立つ音楽を「ポリフォニー」といいます。これに伴いネウマ楽譜も発展し、13世紀頃には4本の譜線を用いるようになり、少しずつ現在の楽譜の形式に近づきます。


0-3. ルネサンス

ヨーロッパでは、音楽に限らず古代ギリシアの知識や文化は中世キリスト教社会に突入した地点で忘却され、断絶してしまっていました。ところが14~15世紀ごろに古代文化の再興運動が起こり、これをルネサンスといいます。また、世界史的には、十字軍の失敗などから教会の権威が失墜し、中世的な封建社会が次第に崩れつつありました。

こういった風潮にともない、音楽もラテン語の聖歌からフランス語の世俗的なものへと変化するなど、教会からの独立傾向があらわれます。また、中世に比べて絢爛な合唱曲が発達していきました。

15世紀はネーデルランド(現在のベルギーとオランダ)出身の音楽家の主導による音楽がヨーロッパ各地で評価されたため、これをネーデルランド楽派といいます。そのうち、15世紀初頭にブルゴーニュ公国出身のデュファイバンショワによる音楽はブルゴーニュ楽派、15世紀後半のフランドル地方出身のオケゲムジョスカン・デ・プレによる音楽をフランドル楽派と言います。

16世紀はルネサンスからバロックへの移行期とされ、楽器も発展し、器楽の作品なども多くつくられるようになりました。フランドル楽派のあと、音楽の中心はイタリアに移りました。商業都市だったヴェネチアのヴェネチア楽派では祝祭的なムードに溢れ、器楽と声楽の融合が進みます。一方で、教皇のいるローマでのローマ楽派ではポリフォニーを保守する姿勢がとられました。


1.バロック音楽(1600-1750)

ここからが一般的に知られる「クラシック音楽」の本格的な始まりとなります。教会の力が衰退し、王や貴族による絶対王政の時代の音楽がバロック音楽です。

器楽の発展により和声を重視する動きが生まれ、器楽と声楽と融合したオペラ協奏曲がイタリアで誕生。ヴィヴァルディなどが活躍しました。さらに、現在まで使用されている音階や音楽理論の骨格となる十二平均律が誕生し、メジャー・マイナーの区別や和音の概念などといった、重要な基礎的ルールがこの時代に確立したのです。

こういったシステムを取りまとめ、12個それぞれのキーでそれぞれ長短を含む24の調性で作曲できることを示したのが、ドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)による『平均律クラヴィーア曲集』だとされ、このような功績をもってバッハは現在のクラシック音楽の基礎をまとめたクラシック音楽史上の最重要人物、バロック音楽を代表する偉大な『音楽の父』だとされるのです。

ただ、バロック時代の音楽というのは、ヨーロッパ全体では絶対王政下で貴族たちの豪華絢爛な娯楽のための小道具に過ぎず、そんな中でプロテスタント地域であるドイツ北部で生まれたバッハは、教会に音楽を捧げつづけた敬虔な生涯であり、後の作曲家に大きな影響を与えた偉大な存在でありますが、それは“孤高の天才”というべき存在なのでした。当時は同じくドイツ出身で同い年の音楽家、ヘンデルが国際的に活躍した時代でもありました。

クラシック音楽の理論の基盤を創り上げたバッハの偉大な功績を称え、バッハの亡くなった年がバロック時代の終わりとされます。


2.古典派(1750~)

バッハの時代はまだピアノが無く、チェンバロの時代でした。しかし、その後ピアノが発達し、広く用いられるようになります。そして、この時期にドイツ語圏であるオーストリアのウィーンで活躍した偉大な3人によって西洋芸術音楽の規範が創り上げられ、クラシック音楽の形式が完成を迎えます。

市民革命によって、音楽も貴族のものから市民のためのものへと変化し、市民向けの演奏会が増え始めます。貴族の娯楽のためではない、市民へ向けた芸術的な「交響曲」や「ピアノソナタ」といった器楽ジャンルの発達を進めたのが古典派の作曲家達なのです。


①ハイドン(1732~1809)

106曲の交響曲を作ったハイドンは、「交響曲の父」と呼ばれます。交響曲とはオーケストラのためのソナタのようなもので、ハイドンによって古典的な交響様式が確立したのだといえます。


②モーツァルト(1756~1791)

言わずと知れた「神童」。マリー・アントワネットと同い年です。6才での演奏旅行では、マリア・テレジアを前に演奏するなど、幼少からヨーロッパ各都市を演奏旅行して活躍しました。交響曲、ピアノ協奏曲、ソナタなどをハイドンとともに形式化したという功績が評価されています。


③ベートーヴェン(1770~1827)

難聴に悩まされながらも後世に残る偉大な名曲を次々に発表し、教会のためでも貴族のためでもない、市民のため、そして自分自身のための芸術的な音楽を高らかに鳴らすために戦った偉大な「意志の人」であり、運命に立ち向かった「楽聖」。それがベートーヴェンです。

モーツァルトの時代までは音楽家は「一職業」であり、料理人などと同じ、皇帝・国王・貴族・司教といった権力者(クライアント)のもとに仕える専門職でした。しかし、フランス革命の時代に生きたベートーヴェンは、その発想を壊していったのです。

「音楽は芸術である。音楽家は芸術家である。よって、音楽家は尊敬をもって世に迎えられなければならない。」

それまでには無かった「後世へ作品として残す」という意識を持って、積極的に実践し始めます。BGM的な扱いを拒否し、音楽(楽譜)を「確固とした作品」として扱うことを要求したのでした。この姿勢が、後の音楽家に多大な影響を与えることとなります。



3.ロマン派(19世紀)

急速に近代化・産業化が進んだヨーロッパ社会では、啓蒙主義的な現実世界からの反動として、特にドイツの文学界でゲーテやシラーなどのロマン主義文学が生まれました。これに音楽界も同調していくことになります。

こうして、「自由に音楽を楽しみたい!」という発想からロマン派の音楽では作曲家の個性が咲き乱れる時代となります。クラシックの黄金期であり、これほど数多くの名曲が生まれたということは、音楽が市民に開かれ、それを享受できる人が増えたということのあらわれだといえます。


・初期

オペラ界では、ドイツ語台本のオペラを創り上げたウェーバーや、華やかなイタリアオペラを継承したロッシーニが活躍しました。また、ゲーテなどドイツの詩人の作品に併せて歌曲リートを書いたシューベルトによって、ドイツ歌曲リートの重要性が高まりました。彼らによって、ロマン派への道が切り開かれました。


・前期

ベートーヴェンの時代はピアノ曲でもソナタなどの大作が多かったのですが、ピアノが一般家庭に普及したことで性格的小品キャラクターピースと呼ばれるピアノ曲が多く作られました。ショパン、メンデルスゾーン、シューマンらの作品が有名です。また、超絶技巧を駆使した作品で知られ「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストや、楽章それぞれに標題とストーリーが付いている「標題音楽」を創始したベルリオーズなど、自由で個性豊かな作曲家たちが活躍していました。多くの人が作曲家を名乗ることができるようになったのは、ベートーヴェンの功績によるものだといえるでしょう。


・後期

「標題音楽」の発想のもと、オペラと文学を融合させた総合芸術「楽劇」を創り上げたワーグナーや、それに対抗して純粋芸術的な音楽を作り続けた「絶対音楽」派のブラームス、東欧で自国の民族的要素を音楽に取り入れようとした「国民楽派」スメタナ、ドヴォルザーク、グリーグ、チャイコフスキーなど、さらに個性の強い派閥が登場していきました。


・末期

ワーグナーは優れたオペラ作家というだけでなく、政治思想でも当時の権力者に大きな影響を与えた人物でした。その影響力はワーグナー死後も続き、彼の「重厚長大」な作風を継承するブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスらによって、オーケストラは巨大化し、和声・様式・形式が限界まで拡大されていきました。



4.近代音楽・現代音楽(20世紀~)

限界まで拡大されていったロマン派音楽に対して、さらに「自由で新しい音楽を!」とエスカレートし、全く違った手法で斬新な音楽を生み出す音楽家が現れ始めました。

まず、半音階・不協和音・東洋趣味・教会旋法など、現代に通じる手法を用いて、洗練された音楽を生み出したのがフランス印象派ドビュッシーラヴェルです。

また、複雑な拍子や音階を駆使した過激で荒々しい音楽で秩序を破壊したストラヴィンスキーが表現主義音楽と呼ばれたほか、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチといった作曲家も登場しました。

他にも、ハンガリーで民族的な手法を研究しながら新しい音階を実験していったバルトークや、アメリカでジャズを取り入れたガーシュウィンなど、あらゆる潮流が発生しました。

こうした流れを受け、バッハ以来の秩序の前提であった「調性(キー)」を否定した「無調音楽」「十二音技法」という全く新しい音楽を発明したのがシェーンベルクです。

さらに、戦後では、アメリカの作曲家ジョン・ケージが「4分33秒」という実験作品を生み出す(楽譜に書かれているのは「休符」のみ、演奏者は4分33秒間一音も発しない)など、これまでの音楽のルールを覆すような作品が生み出されたほか、環境音や電子音への興味も強まりました。

こうして、こんにちの音楽に至ります。


これが、おおまかなクラシック音楽史の流れです。いかがでしょうか。
腑に落ちましたか?

「そうだったのか!」と素直に納得する方、「そういえば音楽の授業でこんなこと言ってたっけな」と思い出す方、「何だかわかりにくいな」と思う方など、様々だと思いますが、記事の冒頭に書いたとおり、このストーリーは「一定の視点」のもとに組み立てられたものなのです。

よく考えてみると、分け方がイビツだとは思いませんか?

どうしてこのような時代区分になっているのか、疑問ではありませんか?

このような点を、次回は改めて捉えなおしていこうと思います。

ひとまずお読みいただいて、ありがとうございました。

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