以前は「見よう」としていたなあ。 それをやめていって… 「見ない」ように見てみると 「見えなかったもの」が見えてきた。 たぶん、目(視力)だけで ”見よう“としなくなったからだろうなあ。
意味のない 意味がない 意味がない やっても点数に、ならない やった、だけの 成績はもう何年も見ない 見れば現実を突きつけられ それと同時に自己嫌悪になる だから見ない、良いことなんて書いてないだろう良いことなんて、、笑ってる人ほどシビやだから。、見たら悲しくなる。
昨日も「ありがとう」が言えなくて 交わす視線が宙を浮く 昨日は2度も来ないから 私はやっぱり見ないふり 今日も「ごめん」が言えなくて 切れた糸が繋がらない 想像だけで語っていると そのうち私は迷子になる 大事なものをみつけたいから 心を決めて きっと明日は「好き」を言おう
ドライアイからのメッセージ ・怒りのまなざし ・愛をもって見ようとしない ・許すくらいなら死を選ぶ執念深さ
記事で言った通り、スーパーでは相変わらず仕事の傍らお客を目で追っている。じっと観察してはいないけどね。ふと今日「観る」とは何かを考えてた。 多分観るには見ないってことが重要なんじゃないかな。見ないことも観るに含まれてるかも。 真面目に仕事してるわよ、と。 ぜひ声は小さめに。