見出し画像

印象論:見たいものを見るではなく、見たくないものを見ない

 事実を認識するというのは難しい。なぜなら、事実というのは多くの場合は複雑で仔細にわたり、不明な部分も多く、それらを理解するのに時間がかかるからだ。
 だから事実を認識するよりも、たとえそうでないとしても私達は自らの見える範囲で、わかるものを認識しようとする。そういう傾向にあるのが人間だ。

 だが、実際には私達にとって、「見えるもの」とは恐ろしく狭い。あまりにも狭くて、基本的には何も見えていないようなものなのである。「この世界」などという漠然とした何かを理解することなど到底無理に思えるし、どれだけ見渡してもそのすべてを一個の人間が認識しきれるはずもない。
 つまり私達の基本とは「見えない」ことなのである。見えることではない。見たいという欲求でもない。まず、見えないこと。そして「見たくない」という欲求が最初にあるのだ。

 なぜなら、私達は生き残ることを遺伝子に刻まれた生物だからである。危機を察知する能力。危うきには近寄らない習性。そういうものが当たり前に備わっている。
 だから、私達の行動はまず「見たくないものを見ない」ことを選択する。見たいものを見ようという積極性ではなく、「ない」を徹底的に回避しようとする消極性。それが本能の一つなのである。

 事実の認識を妨げているのは、そのような見たくないものに蓋をする盲目である。自らの見聞を狭めることをいとわず、私達はそうと決めたらどんなに要求されても、たとえ事実に近づく唯一の方法だったとしても、目を開かない。

※このテーマに!関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?