体験をテキストに変換する、それは体験されたことと生成されるテキストとの対応付けであり、対応関係の特殊である。 その特殊な対応、関係性と関係項に媒介された対応付け機構として、ある種の一般性を持ちえる。それ故に、それとして存在しうる。 即ち媒介され、わたしは存続し、あるいは存在する。
「全ては表現の集積である」
傷付くことすら、悲しむことすら許されない(許せない)、これは別に傷付かないわけでも、悲しみを感じないわけでもない。 あえて言うなら、怪我することも痛がることも許されず、もしそれらをしようものならさらに鞭打つようなそんな振る舞いにたとえられるかもしれない。 自分の気持ちを認めたい。
「居場所はさまざまな粒度や階層ごとのアイデンティティ」によって成り立つ。 そして、「個人の経験やイメージは単に集められて全体を構成するのではなく、個々の経験やイメージが社会的・文化的な文脈において既に社会化されているため、その全体像もまた社会的・文化的な要素によって形作られる」。
前向きではないが、斜め前向きくらいでなんとか
したいことがわからなくなって、したくないことがたくさんあるだけ
いろいろ気になること、考えていたこと、調査した上での懸念点、不明点とか、まとめるのに時間かかるし、最初から俯瞰的な視点があるわけではないから、何度手間にもなることもある 非効率であることは百も承知だが、外付けのやり方と焦りのある状況だとその非効率さに拍車がかかる。一人になりたい。
バアちゃんの虚言ともの忘れが人を傷つけるレベルになり辛い。事情をよく知らない者を味方につけようとするので一からの状況説明に立たされることも再三あった。家族はいちいちまともに対応するのではなく受け容れるしかないという。そうか、介護の一歩はそこから始まるのかと改めて厳しく感じている。