今年「マーベル映画」を一本も見ていないことに気がついたが、特別困らない上に何ならディズニーやピクサーの映画も見なくて良いかなとも思っている自分に少々驚いている。無意味な続編や前日譚など安易なタイトルが続くようでは「観客から見限られる」日が来るのもそれほど遠くないのかもしれない。
体験をテキストに変換する、それは体験されたことと生成されるテキストとの対応付けであり、対応関係の特殊である。 その特殊な対応、関係性と関係項に媒介された対応付け機構として、ある種の一般性を持ちえる。それ故に、それとして存在しうる。 即ち媒介され、わたしは存続し、あるいは存在する。
「全ては表現の集積である」
傷付くことすら、悲しむことすら許されない(許せない)、これは別に傷付かないわけでも、悲しみを感じないわけでもない。 あえて言うなら、怪我することも痛がることも許されず、もしそれらをしようものならさらに鞭打つようなそんな振る舞いにたとえられるかもしれない。 自分の気持ちを認めたい。
「居場所はさまざまな粒度や階層ごとのアイデンティティ」によって成り立つ。 そして、「個人の経験やイメージは単に集められて全体を構成するのではなく、個々の経験やイメージが社会的・文化的な文脈において既に社会化されているため、その全体像もまた社会的・文化的な要素によって形作られる」。
したいことがわからなくなって、したくないことがたくさんあるだけ
前向きではないが、斜め前向きくらいでなんとか
いろいろ気になること、考えていたこと、調査した上での懸念点、不明点とか、まとめるのに時間かかるし、最初から俯瞰的な視点があるわけではないから、何度手間にもなることもある 非効率であることは百も承知だが、外付けのやり方と焦りのある状況だとその非効率さに拍車がかかる。一人になりたい。
恣意ではなく「自由意志」を対象として見いだすこと、即ち「物件(Sache))」に「合目的性」を付与する活動(合目的的活動)が「労働」である。 「自由」即ち目的(Zweck)の展開、或いは、「人格(Persönlichkeit)、自由意志の定在化」が私有(Eigenzum)である
遠い空を眺める今は 近づく雲に視界を取られ 進む道がわからなくなり 宙返り足元を掬われる 夜の闇に見つけた光 蛍のようにまばらでバラバラ 私を救いたいのは誰だ 他の誰でもない自分自身だ それぞれの想いが あると思うけれど ただ、 ただ、 この世界に生きたかった
いわゆる「科学技術」の発展により、人々が単なる消費ではなく、なにかを生み出すために行ってきた(比喩的な意味での)"生産的消費"は、不要になり、消費的消費にいそしむことが「人類」に残された営為となってきた。しかし、"私たち"はこれから、何を消費するかを積極的に生産しなくてはいけない
「未知と既知との境界」とか「人間の在不在」(居合せるか否か)とか、そんなたいそうなものではなく、ただ、そこに居る「わたし」が、「異物」であり、わたしがいるであろう「そこ」が「わたし」に対して疎遠であり、親密さを欠いて「疎外」してくる、その不気味さ、不穏さによりそれが生起してくる。
(仮)自由研究 恐らく、ここで言われている"自由研究"とは、「自由」に題材を「選んで」行う研究(という名の学習課程)ではなく、"自由"(という概念について、また、もしそれが"実現する"という語の目的語たりうるならその実現の可否についてを"自由に")"研究する"営み、プロセスである