P31. 解脱(真我)を願う者にとって、現象世界の構成要素や性質の探求は全く不要であり、すべきことは真我を覆い隠すもの総ての拭い去りである…とマハリシ。そして、現象世界は夢のようなものと見做されるべき…と加える。そろそろ真我を(観る働き以前の)根源的一者に置き換えたくなってきた…
P33. 幸福とは真我の本性そのもの。私たちは無知のゆえに対象物から幸福を得るものと錯覚する。心が外に向かえば悲惨を味わう。世界と想いが消え去れば、心は幸福を経験する…とマハリシ。想いとその対象物(二元)を滅し、清浄なる沈黙(一元)にあり続ける智慧、心と一者の邂逅、如実知自心…
P29. どのような帰依者が最上か?― 総てを真我に委ねきった者、真我の他に想いが起こらず無心に真我に留まる者が最勝の帰依者とマハリシは言う。これは現実逃避なる想いではなく、一者としての智慧の顕現その自覚があって…と思うのだが。何もかも真我に明け渡せば幸福に仕舞うと言うのだろう…
P27. マハリシは「想いを完全に捨て去り真我に集中すべき」と言ながらも、心の制御にも言及する。即ち、欲望と憎しみ、善い悪いから離れよと。心が静まれば総ては静まる。心底、印象世界は心の投影と観じる時、他者は私。他者への想いはそのまま私に還る。我儘を去った静寂が心を濯ぎ終えるまで。
P30. 神および師(グル)は解脱への道を示すのみ。弟子は示された道を自らの努力で追求し解脱を得なければならない…とマハリシ。言わば禅語の冷暖自知だがこれは自明。論点は冷暖自知をも囚われと峻別する道程(ディヤーナ)、並びに明け渡し(サマーディ)にあるかどうか。観る働きも露と消え…
P28. 真我の本性とは何か?存在するのは真我のみ。真我は「私」という想いが絶対にないところのもの、それは沈黙と呼ばれる…とラマナ・マハリシ。喩えれば、対象物たる心のざわつきを滅し、あたかも水面の月光が静寂しきった月とただ一つに還るように。釈尊の拈華微笑は沈黙の響きなのだろうか…
P28. 探求はどのくらい続けるのか?ラマナ・マハリシは、心に対象物とその印象が残る限り「私は誰か」と尋ねなければならない…と言う。結局、心は自らの想いに縛られる。心と想いの主客に気づいたら、想いのみならず主(あるじ)たる心の消滅が叶うまで探求は続く。私の心を存在させた私は誰か。
P29. №17 少し読み辛い。意志を持たず、ただ存在するという美徳の「太陽・神・エーテル」は真我の比喩だろう。自然現象や個我のカルマが、真我とは全くの別物という影であり、如何に無力であるかを ラマナ・マハリシは説いているように思う。自意識過剰が招く観自在の欠如と誤った寄る辺と…
P25. ラマナ・マハリシは、心に静かさを取り戻す方法と心の消滅の違いを説く。そして、心を消滅する問い「私は誰か」は、よく整えられ静まり一点に強く集中された心にとって容易であると。呼吸を整える、神の姿を瞑想する、真言を唱え続ける、断食など…は集中の術。心身の清浄は最大の支えとも…
P23. 心にある想いの最初は「私」という想い、他の想いはその後にしか現れない。そして、真我の実現には「私は誰か」という想い自体をも滅ぼすことと、ラマナ・マハリシは言う。燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒が、最後はその炎に焼べられるように。二元を破壊する問い「私は誰か」も対象物…
P20. これら(五蘊など)が私でないなら、私は誰なのか?マハリシは「今述べたことのすべてを これではない、これではない と否定し去ったあとに、ただひとつ残る自覚、それが私である」と。思うに、私の身体、私の心、私の命…と私の○○がある限り、その対象物を観る私が別に居ることになる。
P24. 私は誰か…という想いを保つには、他の想いが差し挿んだ時に「その想いは誰に起こってきたのか」と尋ねるべき…とマハリシ。他の想いの源泉は個我の垢たる付着物。穢れ無き真我に個我を入滅せしめるに「ただ真我の如く…」と、個我は無心な問い「私は誰か」を頼る。無垢な個我をも滅さんと…
P22. 総ての認識作用と、総ての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。―とマハリシ。しかし世界を消したい衝動はトラップだ。これは認識と動機の起源たる心を深める道標。その心も私ではないと言う。ただ「私は誰か」と問い質し、一旦、認識と動機の沼を這い出たい…
P22. マハリシは、真我に内在する心の驚くべき力、つまり世界の生滅は想いが担うと語る。ただ、自ら作り出す粗大な生滅に心が依拠するあいだ真我は隠される。この世界と真我の相容れなさは問題だがヒントだろう。相容れないのは別物ゆえに是非もなし、心は私ではないとマハリシも言うではないか。
P20. これではない、これではない…と総てを否定し去った後に、ただひとつ残る自覚。これこそが私そのものとマハリシ。而してその自覚の本性は「存在ー意識ー至福」と言う。在りてある個の原初、穢れのない属性以前、無執着で些細な動機にも縛られない幸福か。表現を重ねれば重ねるほど遠ざかる。
P19. 私は誰でしょうか?所謂、仏教で説く五蘊に私は無いとマハリシは言う。物事を考える心もまた然り。捕らえ所がないのは「対象物の印象のみが刻み込まれた無知、そこに対象物も働きかけもない無知も私ではない」の文言。これは事物・現象に対する感覚と動機を言うのか。真我の他は総て無知と…
冒頭、マハリシは、我々が持つ「自己への至上の愛」の源は幸福であると言う。また「心のない深い眠りの中で体験される(真の)幸福」を得るには真我を尋ねよと。心の深奥が幸福そのものとはありがたい光明だが、我々にこの自覚は薄い。心のない深い眠りとは、対象物が滅し、心が静寂にあるを言うのか…
私は誰か?丁寧なマハリシの問答が本当に素晴らしい。初めて読んだのは15年前、めるくまーる1982年版(写真は野草社2019年新版)。自己と訳される文体も、故人となられた山尾三省氏とその歴史性を推重されてのこと。でも何故、マハ(偉大な)リシ(聖賢)ではなくマハルシなのかが違和感…
P21. 真我の実現はいつ得られるか?―見られているものである世界が拭い去られたとき、見るものである真我の実現がやってくるだろう―とマハリシ。純粋なただ観る者の「観る」もないことか。観るは世界の始まり。この自覚は「観自在」に通じるかどうか…般若心経を想像させる。「観音」ではなく。
P21. 世界を認識しながら真我は実現するか?―世界が実在するという信念が消えない限り(真我は)得られないだろう―とマハリシ。俄かにこの世界が総て妄念とは思い難いが如何に看破するか。認識することと、そうであることの違いか。認識と言う動機に囚われれば二元の始まり無条件な至福はない。
私は誰なんだ? 私は肉体人間なのか?痛みは本当なのか?教えてくれ! 罪の子なんかではなく、本当に完全無欠の神の子なのだとしたら、スピリットなのだとしたら、是非ともそれを知りたい。感じさせて欲しいです! 体感させて欲しいです。