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ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その1

※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の茶畑。
ちなみに写真右から奥にかけてはアルナーチャラ(大嘘)の山葵畑。


今回からラマナ・マハルシの『私は誰か?』について、私の解説というか感想を順番に書いてまいります。

最後に挙げた参考文献にある通り、本書はラマナ20代の頃の問答がベースになっており、その後ラマナ本人が目を通して編集した冊子が『私は誰か?』となっています。

その無料冊子:https://www.gururamana.org/Resources/Books/Who-Am-I-Japanese.pdf

問1 私とは誰でしょうか?

一発目はこれ。

思考、記憶、知覚、身体&その機能等、色んなものが「私ではない」と否定されていますが、20代の頃のオリジナル回答は

「私はジニャーナ(Jnana)であり、ジニャーナの本質は存在・意識・至福(サット・チット・アナンダ)である」

だそうで、問3の回答と同じとなっています。
というか、問1と問2はオリジナルの問答には無い後付けなのでしょう。

ジニャーナは「智慧」の意味であり、問3の「覚醒」は英語版ではAwarenessの意味で、「ジニャーナ=覚醒」なのでしょうが、こんなチンケな言葉では表現できないのが真我というか意識というか何というか「これ」なので、いちいち用語なんて覚えなくてOKです。

こんなインド料理屋のメニューみたいな用語を覚えてクソの役にも立たない知識を積み重ねる(ちょっと言い過ぎかな)よりも、今すぐに自己探求&バクティの実践をしましょう。

問2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

「これではない、これではないと否定した後に、ただひとつ残る覚醒」と回答にはあります。

ただし、問1の回答のような「身体は私ではない、思考は私ではない、知覚は私ではない、記憶は私ではない…」と思い込もうとする修練というか練習みたいなシロモノは、ラマナに言わせれば「思考の活動に過ぎない」とのこと。

加えて、逆に「私は意識(consciousness)である」「私は真我(Self)である」「私は愛である」などという、心にもないことを必死に思い込もうとするのも、同じく「思考の活動に過ぎない」のであります。

引き寄せ界隈やビジネス本で「アファメーション」なる名前で流布しているのもこれやね。

これは「ラマナがそう言ったから」とかのつまらない権威付けや、理論的にどうこういう理屈などでは決してなく、実践すれば「効果無し」ということは一目瞭然、自ずと分かります。

では、「私は~ではない」「私は~である」と思い込もうとするのが単なる思考活動、つまりエゴの活動に過ぎないならば、一体どうすればいいのかというと、
「私は~ではない」「私は~である」と考えている主体を見つける、
つまり「こんなことを思い込もうとしている『』は誰か?」と自己探求してみましょう、ということになるのであります。

問3 覚醒の本性は何でしょうか?

これがおそらくオリジナル版の問1の回答。

「存在・意識・至福である」なんて回答が書かれておりますが、こんなものを文字で読んでも何の意味もなく、それどころか「覚醒すれば至福状態がずっと続くんだ!」なんていう馬鹿みたいな思考が湧いてくるだけであります。

なお、前回紹介したラマナの(表面上の相対的な)エピソードなんかを読むと、「ちっとも至福じゃないやんけ」とエゴは思うだろうから、
前回の通り、そういう人はこんな記事読まずに耳あたりの良いことを言ってくれるインチキ悟り系とかアセンションとか引き寄せとかに逃げましょう。

欲をかいて自称覚者や自称引き寄せマスターとかに騙されるのも一つの恩寵なので、別に騙されてもいいじゃございませんか。
某山上被告のケースみたいに家族はたまったものじゃないだろうけど。

問4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は実現されるだろう。

私は誰か

なんて本文の回答にはありますが、長くなってきたので「見られるもの(対象)」「見るもの(主体)」についての解説は次回にするとして、今回は「自由」についての話をします。

自由への覚悟

こういう悟りみたいな話をしている際に出てくるのが「自由になりたい」なんていう欲望ですが、もし貴方が本当に「自由」を求めているならば、その他の欲望は全て焼き尽くされる、つまり問4の「真我の実現」とやらへと向かうのであります。

本当に気づいていれば、自由の中に想念が入り込む隙はない。なぜなら、気づきの究極の状態は炎、知識の炎だからだ。何であれ侵入しようとするものは、その炎に焼かれて灰と化す。「私は自由だ」という知識は、近づいてくるどんな想念をも焼き尽くす炎だ。
「私は自由だ」とは「対象物に飛びついて、それと結びつこうとする思考過程から私は自由だ」を意味している。その状態にあれば、何ものもあなたの自由を妨げ、平和を破ることはできない。

『覚醒の炎』

こんなカッコいいことが書かれているのですが、殆どの人間の状態は以下の通り。

何百万という本が自由、解脱について書かれてきた。だが、本を読んだだけで自由に達した人がいただろうか?読書で解脱が起きることはないだろう。本を投げ捨てれば起こるかもしれない。だが、読むことではない。
誰もが即席の解脱を求めている。自由への欲望が起こり、あなたは本屋やアーシュラムへ答えを探しに行く。アーシュラムに行くと、服を替え、食事を変えるように言われる。だが、これは自由とは何の関わりもない。服、食事、共同体、アーシュラム、ヒマラヤの洞窟。これらは自由とはまったく無関係だ。自由とは何かまったく別のものなのだ。

『覚醒の炎』

多くの人がここに来て、「自由になりたい」という。(中略)だが、途中での道のわきで行われているダンス・ショーに目を奪われる。数分もしないうちに、あなたは旅の目的を忘れてしまうのだ。これが「自由になりたい」と宣言する人たちのほとんどの状態だ。

『覚醒の炎』

「そう、私が欲しいのは自由です。本当に自由が欲しいです。それと、良好な恋愛関係も本当に欲しいです。素敵な家と、経済的安定も…」。こんなふうに言う人をずいぶん見てきました。

『ポケットの中のダイヤモンド』

んじゃどれくらいの覚悟が必要なのかというと、お馴染みのカビールとその娘の逸話によると以下の通り。

「(前略)父は誰が本当に自由を求めてここに来ているのかを知りたいのです。だからここに横になって、頭をこの台の上に置いてください。そうしたら私が首を切り落として、それを父に見せます。あなたが自由を求めてここに来ていると父がみなしたなら、彼はそれをあなたに与えるでしょう」
(中略)
このようにして、一日が過ぎた。誰もが言い訳をして立ち去っていった。カビールはサットサンの部屋で一人座ったまま待っていた。

『覚醒の炎』

要は、全てを失う覚悟、前回挙げたラマナのエピソードと同様の覚悟が必要、ということであります。

この辺は再三再四言ってきた通り、悟りとは「得る」道ではなく「失う」道であるということ。

この逸話を読んで「嫌だ!私は何も失いたくない!」「やだ怖い~><」としか思えない人は、しつこいようだけどエゴの欲望を満たしてくれる自称覚者や自称マスターのカモにされた方がお似合いなので、こんな下らない記事読まずに是非ともそうしましょう。(そういう人間はカモにされる意図がなくてもそうなる。これこそが恩寵である)

ちなみに「真我実現」についてラマナ自身は、

真我実現などというものはありません。いったいどうやって実在(リアリティ)であるものを実現する、あるいは実在にするというのでしょうか?人々は皆、実在でないものを実在とみなしています。あなたがしなければならないのは、それを手放すことです。

『真我』

と述べており、早い話が「実践しろ」ということであります。

なんか引用文が多くなったけど、引用文にある通り、こんな記事に引用しようがそれを読もうがはっきり言って無意味である、
自由になりたいなら覚悟をキメろ、そして自己探求やバクティの実践における気付きが全てである、ということで今回はここまで。

<参考文献>


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六郎
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