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ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その8
※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)のバス停。
今回は問16、問17、問18。
この辺から同じような質問&回答が繰り返されるようになり、いささか食傷気味なのですが、これがインドの文化なのでしょうか?
でもオリジナルの問答は全部で13問だったみたいだし、よく分かりませんヮ。
まぁ、インドだろうが日本だろうが文化の違いこそあれ、指し示された真理は同じなのでいいでしょう。(でも仏教も元々インドよな)
問16 真我の本性とは何でしょうか?
本当に存在するのは真我だけ。
思考によって「世界、個別の魂、神」というものが現れる。
実際に「世界、個別の魂、神」なんてものは存在せず、全ては真我である。
ということで、「真我だけが実際に存在するもの。あとは嘘っぱち」というのが回答。
要は思考(エゴ)によってまず「私」というものが生まれ、
そこから「(対象としての)世界」「(対象としての)俺やお前」「(対象としての)神」なんてものが生まれるという、これまで書いてきた通りのことが書かれております。
思考に囚われて「世界」「個人」といったものが存在すると思い込んでいる人には信じられない話でしょうが、
物理学的な立場からみても、全ての物質や現象はエネルギーの濃淡やエネルギーの移動で決まっているので、そういうもんなんやとでも思えばよいでしょう。
まぁ単にそう思っただけでは何もならないだろうけど。
それにしても、何で同じ回答を言い方を変えて繰り返すの?何度も繰り返す必要あるんかいなと思ってしまったのですが、これも恩寵なのでよいでしょう。
問17 すべては神のなせるわざではないのでしょうか?
「あるのは真我だけと前の質問で答えておきながら、何で『神』なんて質問や回答になるんだ」と思う人もいるかもしれませんが、ここでいう「神」は真我のことだというのは、賢明な皆さんならお分かりの通り。
なので回答としては
全ての活動は真我の内でおこなわれ、全ての活動のベースには真我がある。
真我はどの活動からも影響を受けない不変の存在。
になります。
私たちが良いふるまいをしようと悪いふるまいをしようと、喧嘩をしようと瞑想をしようと、月は何の影響も受けない。それは空(くう)についても同じことだ。私たちは空の中に座っている。
弟子のパパジもこんなことを言っており、
「全ては真我(神、空、意識、静寂etc.)の中で起きるべくして起きている」
ということであり、これが前々からしつこく書いている、人間の頭などでは推し量れない「恩寵」というやつであります。
次の問18の話になるけど、その真我および恩寵にゆだねればバクティの実践になるし、「起きたこと」「そうであるもの」つまり真我や恩寵に抵抗すれば苦しみが生まれるということであり、これも何度も書いている通り。
真我・恩寵の中でどう行動するか
それでは、その中で私たちはどう行動すればいいのかというと、
想念と行為の間に起こる思考過程はまったく愚かなものでしかない。それはサンサーラ、カルマに属している。人々はサンサーラの中で考え、それから行為する。そして後になってから、彼らがしたことを心配したり悔やんだりするのだ。
もしあなたが真我として生きるなら、あなたはただ行為し、そして忘れる。想念が行為を促すのではない。行為の後でそれを分析したり判断したりする想念はない。これが違いだ。行為して、忘れなさい。キスをして、忘れなさい。平手打ちして、忘れなさい。これはあなたが自己の本性を知ったときにのみ起こるのだ。
ということで、いちいち考えてもなるようにしかならない、しかも真我の他全ては移ろいゆく偽物なので、パッと行動してサッと忘れなさいということ。
考えに考えを重ねたらその通りになるなら世話ないですが、そんなことないのは皆さん体感としてお分かりでしょう。
あと仏教的にいえば「無罣礙」みたいなもんで、ラマナの取り巻きがラマナを称賛するスクラップ記事を掲示していたら、ラマナ本人が「なぜ称賛の記事ばかり貼るんだい?」とか言って自分を批判する記事も貼ったというエピソードをどっかで読みましたが、そういうことなのでしょう。(単に批判されるだけでなく、命も狙われていたというのは以前取り上げた通り)
じゃあどうすればそういう境地?になるのかというと、
「パッと行動してサッと忘れるぞ~!」なんて頭でアホみたいな決意をしても全くそうなりませんし、「理想」なんてものをこしらえて追いかけてもロクなことにならないというのは『ニュー・アース』でも散々書かれていました。
これはもう、今まで散々書いてきた通り、ひたすら自己探求―思考が湧いたらすぐさま全ての思考の源である「私」が湧き上がる場所に向かい、「対象」ではなく「主体」としての「私」に卍固めをかける。
すると「主体としての私」がギブアップして消え、ずっとここにいた真の私が現れ、自然とそう行動できるのであります。
※ただし、「主体」ではなく「思考」や「対象としての私」を間違って追いかけると、思考は止まらずにあなたの中をグルグルグルグル回り続ける。思考が止まったか止まっていないか、これが「主体としての私」をホールドできたかの目安となる。
そんな感じなのですが、「嫌だ!すぐ忘れるだなんてそんなボケ老人みたいな生き方したくない!私はキラキラ☆ハッピーな人生がいいんだ!!」という人もいるだろうけど、それはそれで結構なことじゃありませんか
ただし、そう思っているのは一体誰なのかという検証をした方がいいと思いますし、おそらく肉体的な死を迎えるまで「幸せ」を追い続けることになるでしょう。
問18 帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?
前の問いと内容が被るけど、
真我に自分自身をゆだねきった人が最もすぐれた帰依者。
「ゆだねる」とは、いかなる思考も湧かせず真我の内にとどまること。(要するに、「私」をガッチリホールドしてあるがままでいること)
(前問で述べた通り)全ての物事を動かしている真我にまかせればいいのに、なぜ自分であれこれ悩み考えてあれこれしようとするんだい?
という感じで、所謂「(真我に対する)バクティ」というやつで、自己探求の到達点の一つがバクティであります。
私の半生を振り返ってみると、あれこれ悩んだり必死で考えて何とかしようとして上手くいったことなんて1割にも満たない、というのが正直なところで、
何か適当に浮かんできたことを適当にやったら上手くいった、というのが殆どな気がします。
まぁ何をもって「上手くいった」のかは実際のところ分からないし、全てが恩寵なのでいいのですが。
「ゆだねる」についての私見
そんな「ゆだねる」についてですが、色んなことをボヤッと考えながらやっても何かできていた、こういう経験は皆さんおありでしょう。
『覚醒の炎』の中にも、パパジがマンガロール港からバンガロール(現在のベンガルール)までの450km以上の道を一晩で運転した際、一番の難所である山道(おそらくクリスタルラインよりも難所)で居眠り運転したけど、何か無事に難所を越えていたというエピソードが載っています。
他にも車にはねられたけど無傷だった話も載っているし、あとはラマナに促されて印パ国境へと家族を救出に行った際、突然跪いたら周りの人間が銃殺されてパパジは生き延びたというエピソードもどっかで読んだことあります。
私もセンター試験の1ヶ月くらい前に自転車に乗っているとき車にはねられたけど何ともなかったし、パパジと違って霧ヶ峰でスリップして崖から転落して車を全損させたけど(駄目じゃん)、無傷だった覚えがあります。
これが私の体験だ。心なしに生き、働くことができるだけではなく、外的世界に気づくことなしに生き、働くこともできるのだ。誰が面倒を見るのだろう?あなたが没入するその力があなたの面倒を見る。それが指示を与え、身体はその指示に従うのだ。これはあなた自身で体験しなければならない生き方だ。訓練できるようなものではない。
と書いてある通りで、あれこれ考えても「その力」の前では無力で、「その力」を信頼というか「その力」が流れていることを分かっていることが、「ゆだねる」ということだと思います。
『ニュー・アース』では「行為に意識を込めよ」なんて書いてあるけど、あなたがどう考えていようが意識なんて最初から行為に込められているので、それが分かっていれば充分だし、それを分かることが所謂「ヴィパッサナー瞑想」だと思います。
だって姑息な思考ごときで「意識」なんてどうこうできるもんじゃないではないですか。
そんな感じなのですが、「良い事例」しか出ていないので、「ゆだねたら絶対幸せになれますかぁー?」なんてアホな質問が出るかもしれないけど、
回答はもろちん「絶対なれぬ!」であり、あのとき車だけでなく私も「全損」していたら、別にそれはそれで良かったのであります。
ともかく、ラマナの言う通り「列車に乗っているのだから背負っている重荷をおろして安心」しましょう。乗っている列車がどこへ向かうのかは知らんけど、向かう先が地獄だろうが天国だろうが、列車が何とかしてくれるのです。
よって、前問に書いた通り「あれをすればよかった」「あれをしなければよかった」といちいち考えても無駄なので、パッとやってパッと忘れればよいのであります。
万能の法則
そういえば、私のやけに高い有料記事「万能の法則」も、ある意味このバクティについて書いたものであります。
今となっては記事を色々継ぎ足してカオスなことになっており、記事中の私的最高傑作は『知ってください。真実を』という『二十四の瞳』に匹敵する(大嘘)感動小説だと思うのですが、根底にあるのはバクティであります。
ただ前の問でも書いた通り、頭で「よーしバクティを実践するぞ!」なんてやっても実践なんて全くできない、上記のやけに高い記事も本当に読めたものではなく金をドブに捨てる羽目になるので、しつこいようですが自己探求しましょう。
以上、手前味噌なことを書いたところで、今回はここまで。
<参考文献>
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