ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その10
※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の道端にある祠。
今回は問21と問22。
もう書くことがなくて引用ばかりになっているけど、冊子を何度も読んだ方がいい気がしてきました。(検索しても出にくくなっているのでここにリンクを貼っておく)
https://www.gururamana.org/Resources/Books/Who-Am-I-Japanese.pdf
でもあれだけ色んな本やら何やらを買って読んで、最終的な救いのキッカケが無料冊子&その関連資料だというのはどういうことなの…
「許せなかった…救いへの本当の道が無料冊子だなんて…!!!」などと思ってしまいますが、金かけて色んなもの読んだりして回り道したのも恩寵なのでしょう。
問21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探究する必要があるでしょうか?
捨てるゴミの分析などしないように、構成要素の分析などしなくていい。
(自己探求により)真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることが大事。
世界はひとつの夢のようなものだと見なさなければならない。
というのが回答。
どこかに書いてあったけど、ユングとかの心理学を否定している内容となっております。
まぁ心理学で救われた人間なんてお目にかかったことない、
少なくとも私は「過去の出来事が云々」「この体験がどうのこうの」「認知療法が~」なんていう心理学なんかで救われたことなど一度もないので、この回答に全く同意でございます。
心理学なんてつまるところ、(結局捨ててしまう)エゴの分析なので、やっぱりエゴの中身をどうこうしても何の効果もない、
回答の通り、「私」を根源とするマインドを払うことが肝要だということでしょう。これ以上書くと心理学の関係者から文句がきそうだからこの辺にしとくけど(その前にこんな記事読んでないだろう)。
劇中の人物のように生きる
そんな寝言は置いといて、「世界はひとつの夢のようなもの」と回答にあり、次の問答にも関係ある話ですが、それについてちょっと書きます。
印パ国境に住んでいたパパジの家族が印パ戦争勃発でピンチになった際、パパジが「私の家族達は夢のようなものだと分かりました。なのでどうでもいいです」とラマナに言ったら、
とラマナが言い、その言葉に従って家族を救出に行ったというエピソードは前も書いたかもしれません。
要は、
この世界は、「私」というマインドから映し出され、そして「私」が対象として認識している夢である(問8のクモの糸の譬え)
という真実が分かった後も、夢の中で好きに生きなさいということでしょう。
ただし、「この世は夢なんだ!」と思い込もうとしても全く無駄で、自己探求によりマインドを引っ込めないとキラキラ☆ハッピー系と同程度になってしまいます。
そう思い込もうとして痛い目に遭うのも恩寵なのでいいでしょう。
あともう一つの例を挙げると、
といった、「劇中の登場人物のように生きなさい」ということであります。(これも「俺は劇中の登場人物なんだ!」と思い込んでも無駄)
一つ注意しておくと、夢や劇の中で生きるからといって、常に安らかな気分でいなさいとか何をされても平気でいなきゃいけないとか、そういうものではありません。そういうのは「私」が思い浮かべている「幼稚な理想」に過ぎません。
喜怒哀楽がある中で、その喜怒哀楽が展開されている夢や劇という空間、「決して変わらないもの」が分かっているか、
言い換えれば「私」が夢や劇の登場人物の一つに過ぎないと分かっているかどうかが、
夢や劇を生きているか、それとも夢や劇を「これが現実だ真実だ!」と思い込んで苦しみながら生きているか、の分岐点なのであります。
まぁ別に苦しんでもいいと思いますけど。
問22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?
ここでいう「目覚め」とは所謂「悟り」「真我」のことではなく、目が覚めて寝ていない状態、つまり起きている状態のこと。
なので回答としては、
起きている状態だろうが夢見の状態だろうが、「私」を根源とする思考が現れ、対象としての世界が現れ、それが真実であると思い込ませる。
よって、起きていようが夢見ていようが、どちらも同じ。
となり、これは皆さんほぼ毎晩経験しているのでお分かりでしょう。
たまに夢見ているときに「これは夢だ」と気付く人いると思いますが、
実のところ、起きているときに「これは夢だ」と気付くのも、それと同じくらい簡単なものなのであります。
上記の通り、夢も起きている状態も同程度のものなんだから、気付くのも同程度のものやで、「難しい」と思っているのは一体誰か?検証してみてはいかがと申し上げておきます。
サンサーラ(輪廻)から抜け出す
そんなわけで「夢」については前問で書いたので、今回は夢というか「輪廻」から抜け出すことについて引用してみます。
ちなみに、下記引用に出てくる「目覚め」とは、「起きている状態」のことではなくマジモンの「目覚め」のことであります。ややこしいけど。
長々と引用してしまいましたが、何が言いたいのかというと、
「同じことを繰り返している」ということに気付く。
「いつもの」思考や感情が湧き上がってきたとき、続けるか止めにするか、そこに選択の自由があることに気付く。
それがどんな思考や感情であれ、いつもおこなっている「私」というストーリーについて、あなたの目覚め、つまり真我に対して責任を持つ。
ということで、良い思考や良い気分になれということではなく、これまで通りの話で、「一体私は何を選択しているんだろう?」「『私』とは一体何か?」と自己探求することで苦しみの輪廻から抜け出しましょう、ということです。
もっと分かりやすく宮沢タフ君の父親っぽくいうと、
「『私』よ」
「人々を騙し苦しめてきたお前を真我は決して許さない」
「いかなる理由があろうとも一方的にお前は消されるんだ」
「悔しいだろうが仕方ないんだ」
ということで、これが言いたかっただけじゃないかよえーっ!という感じがするし、引用が長くなったけど今回はここまで。