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ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その9

※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の丘の上。


今回は問19と問20。

これ以上何を書いたらいいのか分からんけど、思いついたことを適当に書いてまいります。

こんなことではまたリニューアルする羽目になっちゃうかもしれません。

問19 無執着とはどういうことでしょうか?

  • 思考が起きたその瞬間、すぐさまその思考の主体である「私」をホールドする。

これこそが「無執着」だというのが回答。

  1. 思考、感情、知覚、行為が起きた際、「その思考、感情、知覚、行為は誰に起きているのか?」と自問してみる。それが「良い」ものだろうが「悪い」ものだろうが。

  2. 回答は「私にだ」となる。

  3. では、「その『私』は誰か?」と思考で自問する。外側に起きた思考、感情、知覚、行為といった対象ではなく、それらの主体である「私」は誰かと問う。

  4. 回答は不要。どっちみち思考では回答など出ない。出ようが出まいがただ神(真我、静寂、意識etc.呼び方色々)に委ね、恩寵に任せる。

と何度も書いている通りであります。

しつこいですが、思考やら外部の状況やらと同一化して振り回されたり、思考でもってあれこれ言い訳したりせず、あらゆる思考および苦しみの根本である「私」を捕まえること。

「気にさわったらあやまります。どうもすみませんでした」
「でも・・・”ガチンコ(真実)”じゃないですよね?」
などと「私」に対して言うと、
逆上して「それを言ったら殺されても文句は言えねぇぞ(グオッ)」と襲いかかってくるかどうかは知らんけど、逃さずに毒蛭観音開きガッチリとキメましょう。

「ガチ」ではないもの

でも世の中を見渡すと、
人間関係、カネ、モノ、地位や肩書、他人からの評価、状況や出来事、過去や未来、そして老いと病と死…
などといった「”ガチンコ”じゃないもの」で、ほぼ全ての人間があれこれ悩んだり争ったりしているんだよね、すごくない?

これが所謂「無明」「原罪」というやつでしょうが、一体どういう「仕組み」や「カラクリ」で、ほぼ全人類がこんな移ろいゆくガチでもない偽物に対して躍起になっているのか、あらためて不思議に思ってしまいますヮ。

まぁにわかには到底理解不能なものだから、昔から「無明」だの「原罪」だのと呼ばれており、『ニュー・アース』でも散々「機能不全が人間のデフォ状態」だの「狂気の世界」だのと書かれていたのでしょう。

ただ、あらためて読んでみると、そういう状態の描写は克明だったけど、解決方法の描写がイマイチだった気がするわ『ニュー・アース』。

解決方法ならこの『私は誰か?』の方が明確で分かりやすいし、何より実践しやすいっスな。

「しゃあっ アートマ・ヴィチャーラ!!」とかいって自己探求によってマインドを「ガチンコじゃないもの」から「ガチンコ」に向ければいいだけやからな。

問20 神やグルは、魂の解放をもたらすことはできないのでしょうか?

  • 神やグルは解放への道を示すだけ。神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。

  • 人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。

  • 実のところ、神とグルは同じ。

が回答で、要は「自分が何であるか、神やグルの示した先を自分で発見しなきゃならない」ということ。

言い換えれば「神だのグルだのといった概念や形に依存していると、肉体的な死を迎えるまで堂々巡りが続く」ということであります。

あと「神=グル」であるということは、当然「真我(静寂、意識etc.)」が何であるのか、さらに「恩寵」がなんであるのかも、賢明な読者ならお分かりでしょう。

グルは身体ではない

ついでに言っておくと、「神=グル」であるということは、「グルは(一時的な形にすぎない)身体ではない」ということ。

と動画にある通りで、仏教聖典にも

弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見るものがわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。

『仏教聖典』史上の仏

とあるじゃございませんか。

なので、特定の個人の姿形を崇拝しても何の意味もなく、やはりその特定の個人、たとえばゴータマ・シッダールタやイエス・キリストが示した先を、自分で見出すしかないのであります。

※さらについでに言うと、教団に入って権威化&形骸化された下らない諸々のことを、皆でお手々つないで一緒にやるのも全くナンセンスであろう。まさに散々言及してきた『かもめのジョナサン』第4章である。

そして自分で見出す者には、

「あなたがどこにいようとも、私はあなたとともに在る」

『覚醒の炎』ラスト

ということが本当に理解できるのであります。

以上、個人崇拝を求めてくるインチキ教祖やカルトには気をつけよう!

まぁ、そういうインチキにカモられるのも恩寵でしょうし、
そんなインチキなどメじゃない一番のカルトは、上記のガチンコじゃない偽物を信じ、何より「私」というものを本気で信じていることなんやけどなブヘヘヘ、ということで今回はここまで。

追記

「どういうことだよ ちゃんと説明してくれよ」という人は、

グル=生命が形となって現れた唯一のもの、つまり今

だと思っとけばいいです。『ニュー・アース』的だしこれでも分からんかもしれんけど。

<参考文献>


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六郎
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