(5-8)現実を見据えて① 弱さと傲慢【 45歳の自叙伝 2016 】
厳しい経営
父が倒れてから私たちは真理を学ぶ会ではなく、パドマワールドとして活動を始めた。もちろん会社としても、その活動に対しての決算となった。しかし、それまで父頼みで成り立っていた収支の現実は、大した解決策もないまま、ただ厳しくなる一方だった。それは父がヒーリングに復帰してからも続き、当然ながら状況分析をせずにはいられなかった。
思い返してみると、過去そうであったような、父のカリスマ性を活かした「場」作りを私は出来ずにいた…と言うより、一連の父の出来事によって、これまで通りに父を活かしてはいけないと思う私がいたのだ。ただ、何も変えらないまま時間だけが過ぎてゆくと、時に「結局は自分の方がお荷物なのかもな」と過ぎったりもした。様々に思いを巡らしながらも、現実には高額のリースや滞納した税金など、支払いに毎月追われる日々にあって、気持ちはいつも息をつけずにいた。決算を行うたび、会社を立ち行かせる苦痛を私は感じていった。
◇ ◇ ◇
藤崎先生の叱責
ある年の決算、私は藤崎先生を酷く怒らせてしまった。理由は顧問料の滞りだった。父が倒れて以来、藤崎先生は私たちをずっと気遣ってくれていた。宇都宮の病院まで見舞いに来てくれたり、母の確定申告を処理してくれたり、細かな相談にものってくれて、その長年の経験に私たちは助けられていた。ただでさえ薄謝で面倒を見ていてくれたのだが、その支払いすら滞りだすと、私は合わせる顔もなく連絡を出来なくなっていた。
しかし、決算が近づけば藤崎先生に相談せざるをえなかった。その時、私は金銭的にも時間的にも余裕がなく、まったく近視眼で決算予備書類の作成も遅れていた。藤崎先生から電話があって「書類はいつ出すんですか、このままじゃきちんと見ることなんかできませんよ!あなた、ちょっと経理を甘く見ているんじゃないか。会社の大きい小さいに関わらず、私は書類を手を抜いて提出するわけにはいかないんだ。それに顧問料も支払わないどころか、ろくに礼もせず、決算のときにだけ顔を出すなんて失礼じゃないか!」私はいつも温厚な先生を怒らせてしまった。すっかり甘えていた自分が本当に情けなく思えた。
この顛末を振り返るとき、理由はどうあれ、私は藤崎先生から様々なものを奪っていることに気がついた。金銭のやり取りは目に見えるが、目には見えない時間、思いも結果的として搾取していたのだ。
◇ ◇ ◇
傲慢について
一方で、私にある負の部分が何なのか探らずにはいられなかった。そして、その原因と思しきもののひとつに、相手によって態度を変える都合のいい「傲慢さ」を見た。早い話、辛くあたれる相手には辛くあたり、それが出来ない相手には辛くあたらない弱さと甘えである。これは様々な関係性にもあてはまっていた。特に「怒り」についても同様「怒れる相手には怒れて、怒れない相手には怒れない」と言う無自覚な嫌らしさであった。
さらに、この傲慢という弱さと甘えはどこからくるのかも考えた。この反省では、まずもって自分の都合(エゴ)が先にあると気がついた。そして、この余裕の無さが何なのかを探るとき、洞察の甘さ、効果的な準備ができない愚かさを認めざるを得なかった。結果、自分が自分に振り回され、他者を巻き添いにした急ごしらえで(溺れる者、藁をも掴む)、知らず知らずに他者の都合を搾取していた。要するに智慧が足りず、敬う心を欠如し、他者を奪ったのだ。
◇ ◇ ◇
母のマイペース
さて肝心の決算は、両親から渡されたレシートなどから、お金の使い方に違いがあるのが気になった。父の世話など母も大変であるのは致し方なく、決して無駄遣いをしているわけではなかったが、正直それでも甘く見えてしまい文句のひとつも言いたくなっていた。それとなく遠まわしに話をすると「あんた、こっちが大変なのは分かってるでしょ!」と、母も余裕が無さそうであり、以降、私は何も言わないことにした。
他にどうにか現状を改善する方法はないものか…とも考えた。せめて早めにスケジュールだけでも決められたらと母に相談すると「そんな先のことは決められないよ」と、ヒーリングやイベントのスケジュールに振り回されたり、縛られたりするのが嫌なのではないかと受け取れるようなニュアンスで取り合わなかった。そして「出来ることからしか出来ないんだから、仕方ないでしょ!」と、実質的には問答無用と思える話し方をした。私は、母はマイペースでしか物事を進めることが出来ない人なのだと改めて理解した。ならば、その母にも合わせた現状の改善を図りたいとも考えたが、特効薬のような施策は思い浮かばなかった。
◇ ◇ ◇
妻との約束
あとは私自身の中での解決だった。しかし、何かすぐに大きく変えられるわけでも無く、しわ寄せが私の家族に向かうのは必定だった。結果的に長いこと妻は我慢を強いられ、そのストレスが私に向くのも当たり前だった。私もガス抜きにもならない、その場凌ぎの遣り取りをして、きちんと妻の思いに向き合えているかは疑問だった。私はまた酷くあたることが出来るに相手に酷くあたっていた。結局、私も父と同じか…と情けなくなった。
ある時、妻は「パパが大変なのは理解してあげたいけど、娘たちも大きくなって、これからどんどん掛かるのに、もう本当にまずいよ!もう回りに甘えるのはやめて真剣に考えてよ!」と猛省を促してきた。娘たちが「うちは貧乏だから」と言うと、私の子供時代も思い起こされ何とも悔しく思った。また、家族の節約の努力が、まるで「焼け石に水」のように見えるとき、心の底から申し訳なく、無力感と先々への重圧で卒倒しそうな気持ちになった。
この頃、重なる支払いに追われる中にあって、唯一気持ちが落ち着いたのは、仕事を終えて家に帰るまでの車中だった。帰宅までのわずかな時間は現実逃避ができるひとときだった。夜中のランニングを口実に外に出ると、人の居なさそうなところで「助けてくれ!」と大声で叫んだり、般若心経や真言をひたすら唱えたりもした。
そして、私は藤崎先生に自己破産の相談をした。藤崎先生は「それはやめなさい、なんとか頑張って」と一蹴して、それにはまだ早いと諭してくれた。妻には「働きに出て、態度で改善の努力を見せてよ!」と言われ、私は派遣会社に登録してアルバイトに出る約束をした。
◇ ◇ ◇
プライドを捨てて
妻との約束になったアルバイトは、私にとってひとつの転機であったようだ。それは皮肉にも今まで積み上げてきた物事からの解放だった。瞑想やヒーリングなどとは無関係な仕事場は、プライドを捨てて裸一貫になったような感覚でもあり、どこか若い頃を思い出すようでもあり、懐かしくすらあった。そこでは私も一兵卒に過ぎなかった。
仕事内容は倉庫作業が多かった。他に景品用の化粧箱の組立て、コンビニのお弁当作り、ペットボトルのタグ付けなどもやらされた。私よりずっと年下の女性に頭を下げ、指示を仰いだ。時に怒鳴られもって、それぞれの作業に没頭していった。本心は不本意ではあったが、数時間も一つ作業に埋没し、同じことを繰り返していると、その作業と自分が一体化するようで、不思議と気持ちが軽くなるようだった。
続きは以下の記事です。
ひとつ前の記事は…
この自叙伝、最初の記事は…
この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。